2008年11月29日

「欠落した近未来」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "The Missing Near Future" の日本語訳である。



欠落した近未来  The Missing Near Future

サイエンス・フィクション(SF)は現在のことを心配するという娯楽である。SFは今日の問題に立ち向かうために、未来を物語の舞台としている。まだ発明されていない驚異の物体が登場していても、その未来の物体は、現在の読者が認識できるような方法でしか理解できない。何十年か前のSFを読んでみれば、そこでは今日の発明品 ―たとえば計算機やら何やらに対する見方が、なんとも古くさいことがわかる。このように、昨日から見た明日の展望というのは、笑いを誘うものである。過去において新しい道具を入手しても、そこには新しい背景の脈絡がない。今日の最先端のSFでも同じことがある。未来の読者は笑うだろう。残念ながら創作した時代という偏向は消すことができない。

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posted by 七左衛門 at 22:23 | 翻訳    

2008年11月23日

「人間は何者であるべきなのか?」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "Who Should We Be?" の日本語訳である。



人間は何者であるべきなのか?  Who Should We Be?

テクニウム(訳注:文明としての技術。ケヴィン・ケリーの造語)は化学反応しない不活性表面ではなく、人生における活発な力である。私たちの精神生活は、言語と文字、見るための道具、法律と公正の概念など―すべて人間が発明したもので形成される。ひとたび発明されたものは、私たちに対して反発する。インターネットをはじめとして、過去10万年の間に人間が作った道具類は、私たち人間を変化させてきた。

人間が何に変化するか?それは少なくとも今後数世紀にわたって継続する巨大な疑問である。私たちは何であるか?何になることができるか?何であるべきか?

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posted by 七左衛門 at 14:21 | 翻訳    

2008年11月15日

「反復する創造」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "Recursive Generation" の日本語訳である。



反復する創造  Recursive Generation

1978年にダグラス・ホフスタッターは反復形式に関する驚くべき本を書いた。その本は『ゲーデル、エッシャー、バッハ』(邦訳)という。この題名は、反復性をこよなく愛する3人の天才にちなんでいる。ピューリッツァー賞を得たこの本は、システムの出力をそれ自身に戻すことによって、何か新しいものを生み出すという性質を探求する。『ゲーデル、エッシャー、バッハ』は、この「不思議の環」を機知と適度な遊び心に結びつけている。この分野の他の本でこれ以上ものが出現するとは想像できない。

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posted by 七左衛門 at 22:39 | 翻訳    

2008年11月03日

「生き続けている古代の技術」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "Surprising Continuity of Ancient Technologies" の日本語訳である。



生き続けている古代の技術  Surprising Continuity of Ancient Technologies

私は数年ごとに新しいコンピューターを買っている。デジタルカメラはもっと早く買い換えている。デスクトップにあるソフトウェアは、ほぼ毎月自動的に更新されている。私の家の中には私自身より古いものはほとんどない。私たちは技術が次々入れ替わるのは当然だと考えている。自分の家の居間には最新技術が反映されていると思いがちだが、実はそれは間違っている。

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posted by 七左衛門 at 15:01 | 翻訳