訳 堺屋七左衛門
この文章は Kevin Kelly による "The Rise and Fall of the Copy" の日本語訳である。
コピーの盛衰 The Rise and Fall of the Copy
1900年代に蓄音機がインドネシア列島に到達して、ジョン・B・スムートら音楽学者がガムラン・オーケストラを録音したとき、ガムラン奏者は当惑した。ある場所で人気の曲は数週間の半減期で村々へ伝わっていく。なぜ演奏をコピーするのか?新鮮な音楽を容易に聞けるのに、すでにすたれた曲の古くさい演奏をなぜ聞こうとするのか?彼らの当惑を理解するためには、あなたの町に見慣れない外国人が現れたと考えてみれば良い。外国人が漆塗りの木箱をぱっと開く。あなたは木箱の取っ手を回しながら、豪華な料理を食べる。そして次の日に取っ手を回すと、ほんのつかの間、あのときの料理の味を再生することができる。新しい食事を楽しむかわりに、彼らは古いものを何度も何度も再生するよう勧める。

当時のガムラン奏者は困惑したが、今ならもっと驚くことだろう。デジタルの箱があれば、いつでもどこでも(ジョギングしながらでも、エレベーターの中でも、眠っている間でも)再生することができる。そして自分の持っているコピーを仲間や友人と共有して彼らに再生させることもできる。「コピーの文化(The Culture of the copy)」の著者、ヒレル・シュワルツは簡潔に述べている。「私たちは独自性を称賛し、そしてそれを複製する。」

音楽を録音するという行為は音楽を変えた。100年ほど前に蓄音機が世界中に広まるにしたがって、民族音楽は繰り返しに適する音楽へと変化した。録音した音楽は短くなり、旋律的になり、そして精密になっていった。最初に商業化された1890年代の録音シリンダーは、音楽を2分間しか録音できなかった。それから数十年後の録音装置でも、4分半収録できるだけだった。音楽家はそれに合わせて古い作品を切り詰めて短くした。また、蓄音機に適合するように短縮した新しい音楽を作った。初期の録音は増幅していない音声の振動そのものであったので、録音するときには歌手の大きな声は抑え気味にし、静かな楽器の音は強くするようになった。音楽学者のティモシー・デイは次のように述べている。録音の時代になると、ピアニストは今まで決してしなかったことをするようになった。「作品全体にわたって、八分音符と十六分音符をそれぞれはっきりと区別」しようとするのである。
技術のおかげで耳と音楽の距離が縮まった。録音以前の時代には、真剣な音楽愛好者たとえば新進作曲家は、好きな交響曲を一生のうちに1回以上聞くことができれば、それは幸運だったと言えるだろう。交響楽団のある都市に住んでいて、たまたまその作曲家のその作品を演奏してくれた場合にのみ、その曲を聞くことができる。その人の聞ける範囲で同じ曲がもう一度演奏されるまでには、通常かなりの時間を待たなければならない。
私たちは音楽といえばたいてい録音したものという時代に生きている。聞きたいと思う音楽をどこでもいつでも聞くことができるようになった。今日の音楽で録音と再生という性格に影響されていないものはない。蓄音機が発明されてからわずか10年ほど後の1902年にフレデリック・ガイズバーグがインドのカルカッタに着いたとき、インドの音楽家たちは録音された音楽を模倣することをすでに知っていて、「録音すべき伝統音楽が残っていない」と嘆いていたという。
音楽を変化させたのは録音だけでなく、再生技術のせいでもある。再生して聞く装置が開発されて、音楽を聞くという行為は寺院や教会、集会、講堂などでの集団体験から、車や寝室の中あるいはイヤフォンなどで遮断された場での個人体験へと変化した。個人化の技術により、音楽はますます個人的に感じるものになった。機械的なスピーカーが耳に近づくにつれて所有感は増大する。体に密着するウォークマンは、自分の好きなスタイルの音楽が自分だけの親密なものであると思わせてくれる。近い将来、小型耳栓のような再生装置や、骨伝導による音楽が実現するだろうし、またいつの日か、すべての必要な音楽が耳に埋め込まれてあなただけが聞ける「自分音楽」ができるかもしれない。
アメリカで最も技術的な洞察力のある歴史学者、ダニエル・ブアスティンによれば、カメラや蓄音機や電話をはじめとする複製技術によって、人生という漠然とした経験は、個別に消費される単位の羅列に分割されてしまった。「人生の瞬間瞬間は1回限りで取り戻すことができないという感覚は、収録して再生するという考え方に屈服した。」私たちは電子メールでもこの方向へ向かっている。今日の子どもがあと70年くらい生きていると、その人生の全て、すなわち写真や思索や手紙や電話での会話など自分が行った活動全部がサーバに保存されていて、孫たちがそのコピーを見ることができるようになっているかもしれない。
「コピーの降臨」における最初の局面は完全性である。音楽は録音による制限に速やかに適応した。コピーはどんどん増殖するが、その複製は厳密に行われて現実味を保っている。消費者主義が開花した前世紀に複製技術も同様に開花した。そこで消費者が消費したものは正確なコピーであった。
総計の数字は圧倒的である。米国で1年間に25億冊の本が販売されている。15兆ページ(そう、兆なのだ!)が紙にコピーされた。35億枚のCDまたはカセットのアルバムが作られた(1909年には2700万枚だった)。素材の世界では1020億個のアルミ缶が生産された。言うまでもなく、マクドナルドではハンバーガーが何十億個も売れている。コピーは安い。
しかし、音楽コピーの複製と転送は安いどころではない。それはタダなのだ。オンラインでの完全な複製と無限のオンライン転送のせいである。オンライン複製は蔓延し、恐るべき規模になっている。根絶への努力にもかかわらず、ファイルの共有は続いている。ファイル共有ソフトのライムワイヤー(LimeWire)は、2002年1月の1週間に、音楽共有ファンたちのマッキントッシュによって100万本もコピーされた。この新しいオンラインの世界では、コピーできるものは何でも無料でコピーされる。
あるものが無料になり、どこにでもあるようになったとたんに、その価値は逆転する。夜間の電灯が珍しい時代には、ふつうのろうそくで明かりをとるのは貧しい人たちであった。ところが電気がどこにでもあってほとんど無料になると、電球は安っぽく感じられ、ろうそくはディナーの席で豪華さを示すものになった。

この無限な複製の過飽和状態であるデジタルオンライン世界では、価値の基軸はひっくり返ってしまった。工業の時代にはコピーのほうがオリジナルより価値が高いことが多かった。(自分の台所にある冷蔵庫の「オリジナル」プロトタイプを欲しいという人がいるだろうか?)
さて、コピーが豊富で無料になった「素晴らしい新世界」においては、コピーは価値が低下し、ついには失脚させられる。真に価値があるのはコピーできないものである。今世紀の残りの期間は、コピーできないものを、あるいはコピーを除くあらゆるものの変種を、必死にさがすことが続くだろう。「コピー」は死んだ。「非コピー」バンザイ!
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