2008年04月19日

「物質からの贈りもの」

著者 ケヴィン・ケリー Kevin Kelly
訳  堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "The Gift of Stuff" の日本語訳である。



物質からの贈りもの The Gift of Stuff

「技術」という言葉は物質を連想させる。原子でできた物。かたい物質。蒸気機関車、鉄の構造物、電話機、計算機、化学物質、シリコンチップ。この大量の物質が何世紀も前に初めて現れたとき、私たちはそれを素材革命だと考えた。しかしそれがもたらした変化は、実はエネルギーを自在に操る新しい能力によるものであった。かたい物質の魔力はエネルギーを保持したり、伝達したり、表示したりする能力に由来する。それは少量のエネルギーによる合図(信号)から、莫大なエネルギーを必要に応じて炸裂させること(カロリー)まで様々である。私たちが技術と呼ぶものは活発な物質であり、まったく新しい素材であった。その強固な意思は異質なものとして恐れられた。それ以来、技術は愛されると同時に憎まれる怪物となっている。

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技術を改良していくにつれて、その存在感がいくらか失われた。私たちは技術が硬くて冷たいというのは偽装だと見抜くようになった。その本質は動作であると思い始めた。今日では技術といえばソフトウエアや遺伝子工学、仮想現実感、回線容量、監視エージェント、人工知能などのようなものと考えられている。どれもみな、つま先に落としてもケガをする物ではない。技術は力になった。名詞ではなく動詞になった。私たちを前へ投げ出したり、押し進めたりする、何か力強いもの。私たち人間だけでなく、私たちが属する生物世界をも押して動かしている。技術の動作はとても強く、その存在はあまりに動物的であるので、今では人間は技術が超越的な外来の力だと認識している。物事がうまくいかないときに非難されるものになっている。

実際には技術は物でもあるし、力でもあるし、それ以上でもある。私たちが創作したものは何でも技術なのだ。文章や絵画や音楽はどれも技術である。図書館は技術だ。複式簿記も民法もカレンダーや時計も、組織、科学全般、さらには農具や衣服、衛生施設、医学検査、人の名前、安全ピンも。それでは、技術でないものは何か?私たちの頭脳から出てこなかったものである。私たちの頭脳から生まれたものはみな技術だ。

これは多くの人にとってはおそらく行き過ぎと思われるだろう。シェークスピアのソネットや、バッハのフーガがどうして原子爆弾やウォークマンと同じ枠組みに入れられるのか?簡単な話だ。1000行の文字(HTMLページのコード)が技術なのであれば、1000行の英語の文字(ハムレット)だって同じはずだ。ロード・オブ・ザ・リングの映画から技術だけを別に取り出すことはできない。原作小説での文字による表現も、空想的な生物や風景のデジタル表現も、いずれも厳密な意味で技術によるものである。どちらも人間の想像力による作品である。どちらも観客を強く感動させる。

技術は思考の一形態である。技術は思想の表現である。西洋社会を動かしている洗練された法体系は、ソフトウエアの一種と見ることもできる。それは複雑なコードのまとまりであり、計算機の中ではなく紙の上で実行される。(理想的には)公正と秩序をゆっくりと計算する。法律とソフトウエアはいずれも人間の思想の表明であり、したがってこれらは技術である。技術評論家のウェンデル・ベリーは問う。「蒸気機関はどのように人間を向上させたか?」なかなか良いところを突いている。人間と機械の両者には何も共通点がなさそうである。しかしこの疑問への答えはこれだ。「何と比べて?」人間を向上させるような、人間の思想の表明はどこかにあるのだろうか?

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それはたぶん存在するだろう。スターウォーズのレーザー、ガンジーの市民的不服従、いずれも人間の想像力の産物である。したがって両者は技術であるが、相違もある。全ての技術が同等とは限らない。ある思考はより良い思考である。さらに重要なことは、それ自体はくだらないものだったり、見当違いだったりする思考であっても、何か大きいものの一部としては意味があり、時にはより良い思考を得るために必要となることもある。思考は文脈によって異なる価値を持つ。

同様のことが技術にも言えると思う。

ウェンデル・ベリーも賛成するであろう答えは、法律という技術は人間を向上させるということである。法体系は人間に責任を持たせ、公正を要請し、不要な衝突を抑制し、信頼を醸成する。しかし法律には良い法律と悪い法律がある。ある法体系(法律という技術)は他の法体系より優れている。悪い法律に対する正しい反応は、法律をなくすことではなく、より良い法律を用意することだ。悪い考えに対する正しい反応は考えをやめることではなく、より良い考えを用意することだ。悪い技術に対する正しい反応は技術をやめることではなく、より良い技術を用意することである。

論理的に次に出てくる疑問は、ある特定の技術の価値を判断する方法をどのように改善(または創造)するかということである。私たちがより良い人間になるために技術はどのように手助けしてくれるのか?実際に私たちはどのようにしてより良い技術を作るのか?技術という言葉がウェンデルの示すようなこと、すなわち冷たくて硬くていやな物、蒸気機関、化学物質、機械類などを意味するならば、この疑問はうまくいくかどうかわからない。それが十分な大きさではないからだ。ウェンデルは技術を非常に小さく考えている。あまりにも小さすぎる。私の計算によると、技術の総計は文明と等しい。文明は技術である。技術は人間の想像力と発明の累積的労作の集合体である。

この計算方法によれば、ウェンデルの疑問は次のようになる。「文明・技術は人間を向上させる手助けをどのようにするか?」あるいは「技術が私たちに届けてくれる贈りものは何か?」

技術が与えてくれる進歩は通常なかなか見えにくい。あらゆる思考は逆転されうる。あらゆる技術は悪用されうる。技術がもたらす解決策は、同時に新たな問題をもたらす。思考や技術が強力になればなるほど、それは破壊的になる。技術がもたらすものが善悪差し引きゼロであれば、その贈りものは貧弱だ。しかし技術がもたらすものは、結局、いくらかの悪といくらかの善というよりもはるかに大きい。合計としては、さらなる可能性と選択を提供する。だからこそ私たちは技術に惹きつけられるのだ。

一般に、技術はあるものに関する別の考え方を人間に提供する。一つ一つの発明は、別の人生の視点、別の選択、別のあり方をもたらす。新しく発明した道具や素材や媒体は、人類が心や魂を表現する別の方法、真実を見極める別の方法を提供する。人間の状態を表現できる方法が多く考案されれば、自分の独自な立場を見つけ出すことができる人材層が拡大する。

私たちは多様性を重視する。人種、民族、視点の多様性は私たちが切望する目標である。子どもたちに(数ある中でも特に)持ってほしいものは選択である。他の何よりも、テクニウム<訳注:ケヴィン・ケリーの造語。この文章で論じているような広い意味での技術。>が私たちにもたらすものは選択である。他の何よりも、選択を作り出すものは技術(人間の想像力が現実化したもの)である。

通常は、新しい技術が古い技術を排除することはないが、時には従来の選択を減少させることもある。またある時には、期待したほど多くの選択肢を生み出さないこともある。このとき私たちの課題はできるだけ早く別の方法を見つけることだ。制限を生む技術の救済策は、解放のための技術である。

技術からの贈りものは、可能性、機会、思考の多様性である。もし技術がなければ、これらを得ることはほとんどない。私たちみんながすべきことは、選択を制約する技術をやめて、選択を解放する技術に置き換えることである。たとえば電話は常に機会と可能性を広げる技術であり、閉ざすことはほとんどない。DDTはいくつかの重要な可能性を開くが、他の多くを制限する技術である。遺伝子工学は広大な選択領域を切り開いてくれるが、しかしそれが他の多くのものを抑制する可能性も非常に広くかつ不透明である。

ウェンデル・ベリーの疑問に話を戻そう。技術はどのように人間を向上させるのか?それはこの方法しかない。すなわち、機会を提供することによって、である。生まれつきの独自の優れた才能を活かす機会、新しい思考や新しい精神に遭遇する機会、両親と異なる道を歩む機会、自分自身の独自なものを作り出す機会。

以下に述べることを指摘するのは私が最初だろう。これらの可能性は、まわりに何もない状態でそれ単独では、人間の幸福のためには不十分である。ましてや向上などありえない。選択はそれに対する案内があってはじめて良い効果を発揮する。しかし精神的な価値観を持っているならば、幸福になるためにあえて技術を必要とするのか?とウェンデルは言うだろう。すなわち言い換えれば、そもそも技術は人間の向上に必要なのか?これと同じ質問は、私が提起する拡大版の技術にも適用できる。文明は人間の向上に必要なのか?私はテクニウムと文明は同じだと考えているからである。この質問に私はそうだと答えよう。テクニウムは人間の向上に必要である。特別な一部の人間は、たとえば、修道院の小部屋で制約された選択を、行者の洞窟でちっぽけな機会を、あるいは放浪の導師から制限された選択を得て、向上への道だと考える。しかし大部分の人間は歴史の大部分において、豊かな文明の中で大量の可能性が蓄積していることが人類を向上させると考えている。だからこそ私たちは文明・技術を作る。だからこそ私たちは都市や図書館を作る。それが選択を生み出す。

価値のない選択は得るところが少ない。それは確かだ。しかし選択のない価値は同様に面白味がない。

技術からの贈りものは可能性である。増加しつづける大量の多様性にもとづく可能性である。生物的な生命と同じように(多くの絶え間ない恐怖にかかわらず)、また多様性と同じように、私は、紛れもなく善良なものになる可能性が大いにあると思っている。





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posted by 七左衛門 at 19:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳    
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