2008年06月22日

「ボトムアップだけでは不十分」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "The Bottom is Not Enough" の日本語訳である。



ボトムアップだけでは不十分  The Bottom is Not Enough

私は "Out of Control"(邦題:『「複雑系」を超えて−システムを永久進化させる9つの法則』)という本を書いた。それはボトムアップシステムという強大な力の到来を告げるものであった。ご存じの通り、賢い大衆、巣の精神(訳注:蜂の巣に見られるような集団としての知性)、ウェブの力、素人参加、分権的ウェブ、ネットワーク効果、共同作業などの話である。20年前にこの本は広い範囲にわたって注目すべき事例を網羅した。生物学、技術、文化などの世界では、分権的で統制のないシステムが達成可能である。20年後の今日でも、創発的なボトムアップシステムという潜在的可能性に私はまだ夢中になっている。

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しかし私は熱狂的に支持しながらも、ボトムアップだけでは本当に必要なものには十分でないと考えて、称賛を控えめにするよう努めてきた。最良の結果を得るためには、その他にトップダウンの知恵もいくらか必要である。私はいつもそのような意味合いの主張をしてきた。今やクラウドソーシングやソーシャルウェブが大流行しているので、もう一度繰り返しておく価値がありそうだ。ボトムアップだけでは不十分だ。トップダウンも少しは必要である。

ボトムアップやクラウドソーシングや巣の精神に、トップダウンの統制が必要なのは時間のせいである。ボトムすなわち底辺は私たちのせっかちな文化とは異なる時間軸で動いている。

そのような結論に達した理由を説明しよう。私の職業は最初は編集者であり、次に作家になった。優秀な編集者には、トップダウンの仕事すなわち、選ぶ、削る、指導する、勧める、方向づける、そして群衆から結論を導くということが不可欠であると思う。ウェブのごく初期、ワイアード(Wired)が最初の商業コンテンツのウェブサイトを始めたときから、編集者がどれだけの影響力を行使すべきかということは、重要かつ答えのない疑問だった。1990年代初め、私の友人ハワード・ラインゴールド(ワイアードのオンラインサイトであるホットワイアード(HotWired)の編集長として雇った)のような柔軟な思考をする人物は、編集者不要の群衆に賛成していた。私は編集者を支持する立場だった。

ハワードはまったく過激な思想の最先端を行く人で、コンテンツはすべてアマチュアと読者たちによって作り上げることができると考えていた。もちろんこの方法でも多くの良いものができるのは確かだ。しかし、そのようなクラウドソーシングによるコンテンツは出発点にすぎないと思う。当時も今も私は確信しているのだが、編集者---あるいは介在者とかPSL(出版社、スタジオ、レーベル)と言っても良い---は決して消滅することはない。ボトムの仕事の上に、穏やかで賢明な編集者の選択が加わることで、より良いものが得られると私は考えた。それに対して、ハワードは強い声と多くの情熱と書く意欲のある人々に任せるだけのほうがずっと早いと信じていた。今では、そんな人をブロガーと呼んでいる。

当時の私の考えでは、出版社の役割は劇的に変化するが、トップダウンによる選択や誘導の価値は高まる一方であると思っていた。コンテンツの量が拡大するにつれて、いくらかの知的な誘導と選択に対する要求はある人たちにとって価値を増すはずだ。無編集のアマチュア作品は、私から見ればまったくつまらないし、十分に信頼できないものが多い。

それから10年後、ウィキペディアがこの説は誤りであることを証明したのを見て、私ほど衝撃を受けた人はいないだろう。編集者がいなくてもボトムがうまく機能するのだ。ハワードは正しかった。良くも悪くも、いまウィキペディアはボトムアップの力、無編集の知識という分権的頂点、無統制の善良さ、そしてあの有名な巣の精神などの象徴となっている。ウィキペディアはそこに巣の精神があるというだけのものではない。壮大なウェブそのものがあり、また他の集合体、たとえばオタク世界、読者投票、リンク集約、合意形成、オープンソースコミュニティなどを活用し、すべて緩い結合による共同行為という潮流にのっている。

しかし熱心かつ率直に見れば、これらの革新はどれも純粋な巣の精神ではなくて、柔軟な組織の模範と言われるもの---ウィキペディアそのもの---が厳密にはボトムアップとは程遠いということを発見するのに時間はかからない。実際にウィキペディアのプロセスをよく調べてみると、その中心にエリートがいて(エリートの中核が存在することは多くの人にとって初耳だろうが)、見かけ以上に入念なトップダウンのしくみによる管理がなされている。だからこそウィキペディアはこのような短期間で機能するようになったのだ。

柔軟に適応するシステムには時間が必要だが、私たちの時間は限られている。純粋で混じり気のない進化論の欠点は、それが生物学的な時間、すなわち途方もなく長い年月をかけて起こることだ。インターネットの時代に、誰がそんな長い年月を待つだろうか?誰も待てない。さて、そこでジミー・ウェールズの出番である。

ジミー・ウェールズはウィキペディアの、そして、ボランティア編集者集団の親玉である。この集団は、単純なボトムアップによる進化に比べてわずかな年月で、ウィキペディアを賢いものにするための方法を生み出した。荒らし常習者が記事をめちゃくちゃにするのを防止するために、水も漏らさぬボトムアップの法律的ルールを作ろうと苦労するよりも、スーパー管理者であるウェールズがエリート編集者の助言に基づいて一方的に差し止める。そのネタがトラブルにつながるか無害であるかについて、どんなルールよりも人間の編集者のほうが適切に識別することができる。荒らし防止システムをいじくりまわす無駄な努力のための年月を節約したのである。

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ボトムは本質的に無能であると認識することが重要である。生物学的な自然淘汰において主要な役割を果たすのは死である。死が進化的淘汰の原動力となる。死は1個の2値ビットである。オンかオフか。これ以上単純なものがあるだろうか?つまり進化という巣の精神は1ビットの知性によって動いている。だから大きなことをするのに何百万年もかかるのだ。

私たちはあまりに忙しすぎて、純粋な巣の精神を待っていられない。人類最高の技術システムは、知的な計画を導入することによって実現している。トップダウンの管理がシステムを加速し、目標へと導く。ウィキペディアを含む成功した技術システムは、すべてそのようなしくみが組み込まれている。

ただ、新しいことは何かと言えば、最近になってウェブができる以前は、巣のような「群衆性」を持つシステムを作ることができなかった。また、今までの技術は基本的に全てを管理し、全てを計画するものであった。それが今日では、計画性と同時に、非計画性すなわち群衆性を取り入れることができる。計画性や群衆性を合わせれば数えきれないほどの順列組合せができる。それをいちいち確かめている初期の段階がこのウェブ2.0ビジネスの主要部分である。ダイヤルをいじって数多くの組合せを作ってみよう。

1) 筆者は無能、フィルターは賢明、編集者は不在。
2) 筆者は賢明、フィルターは無能、編集者は不在。
3) 編集者は賢明、フィルターは賢明、筆者は不在。
……以下無限に続く。

今日楽しみな未開拓の分野といえば、統制のない創作とトップダウンによる管理とをいろいろなレベルで混合して試してみることだろう。私たちは今まであり得なかったような、可能性が拡大していく空間に突入している。「一人だけよりも全員を合わせたほうが賢い」という第5次元である。何度も言われている洞察(ただし探求する価値はある)は、次のようなものだ。もしすべてを裏返しにして、読者や顧客が管理するようになったら何が起こるか?クレイ・シャーキーはそれを「さあ、みんながやって来る!」と表現した。しかし純粋で混じりけのない無能な群衆というのは安易すぎる。おそらくそれは、いろいろな可能性をあらゆる方法で配列した新しい空間のうちで、最もつまらないものになるだろう。より強力でより未知なものは、それ以外の、みんなと誰かとの組合せをいろいろ試してみることである。

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トップダウンは必要ではあるけれども、多すぎてもいけないということが時間をかけてわかってきたと思う。編集者の仕事や専門知識はビタミンのようなものだ。あまり多くは必要なくて、大きな体にもほんの少しで良い。多すぎるとかえって毒になったり、あるいはそのまま体外に排出される。しかし適量の知的管理は、無能な巣の精神を活性化するだろう。

でも、もし巣の精神がそんなに無能であるとしたら、どうしてそんなものにわざわざ手間をかけるのか?

なぜならば、それは無能であると同時に賢明でもあるのだ。

さらに重要なのは、野蛮で無能な巣の精神が素材を作り出して、その素材があればこそ、それに対して賢明なしくみが働きかけられるということだ。もし私たちが巣の精神だけに耳を傾けるとすれば、それは愚かなことである。しかし巣の精神をまったく無視してしまうのは、もっと愚かだ。

巣の精神は普通とは異なる時間の尺度で、ゆっくりとした速度で働くのでボトムの下にはさらにボトムがある。大規模なボトムアップの働きによって到達できるのは、少なくとも人間の時間基準で見れば、目的地の途中までにすぎないことにみんな気づいてもらいたい。実際には、百科事典の領域で言えば、私たちは完全に信頼できる記事を必要としている。世界中で最も権威のあるもの、世界中で最も理解しやすいもの、そして世界中で最も新しいものが欲しい。ニュースであれば、今日の問題に関連があるもの、S/N 比(信号対雑音比)の良いものが欲しい。研究報告であれば公平不偏でありながら総合的で矛盾のないものが欲しい。そのためには専門的知識が必要である。

専門家がまったくいない状態では、その必要な専門的知識のレベルに到達することはありそうもない。

だからこそ、長期的には、より多くの工夫、多くの統制、多くの体制がどんどんウィキペディアの中に組み込まれていても驚くには当たらない。(シチゼンディウム(Citizendium)はそのめざす方向の一つのヒントである。)私の予測では、50年もすればウィキペディアの大部分の記事には編集管理、査読、確認制限、本人認証などが採用されていると思う。私たち読者にとってそれはすべて良いことだ。

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これは異端であることは承知している。しかしウィキペディアのモデルは、普遍的な百科事典を書く以上のことを実現するにはあまり向いていない。他のウィキによるプロジェクト、たとえば教科書を作るとか、生物学の種のリストやサーチエンジンなどは、まだどれも成功していない。おそらくウィキペディアの記事は、偶然にも賢い群衆にちょうど良い長さであり、本というのはたぶん良くない長さなのだ。いずれ結論が出るだろう。

しかし、2006年のウィキペディアのプロセスが、教科書を作ったりすべての生物種の百科事典を作るのに、あるいはニュースを配信するのに最適な方法でないことがわかったとしても、2056年のウィキペディアのプロセスでは多くの工夫が盛り込まれて、それが最適になる可能性がある。編集者が補助する巣の精神は改良されて、今考えるよりもずっと良い教科書、データベース、新聞ができるようになるだろう。こんなことを言うのも同様に異端なのかもしれないが。

私の結論をまとめておく。巣の精神によるボトムアップは、可能だと思われるよりもずっと先まで人間を運んでくれる。この点でいつも私たちを驚かせる。十分な時間さえあれば、無能なものは予想以上に賢くなるのだ。

それと同時に、巣の精神によるボトムアップだけで最終目標に到達することは絶対にない。私たちはそんなに待っていられない。だから、そこに工夫とトップダウンの統制を加えて、私たちの行きたいところに到達できるようにするのだ。

そのようなシステムは混合的創作物となるだろう。それはピアツーピアによる生成という強い根を持ち、高度に洗練された統制機能という株に接ぎ木したようなものだ。ユーザーが作るコンテンツという頑丈で堅牢な基礎と、クラウドソーシングによる革新があれば、ごくわずかな指導力の機敏さがよく発揮されるだろう。混じり気なしの、賢い大衆100%あるいは賢いエリート100%によるプレーなどめったにない。

ネットワーク経済における本当のビジネスの方法と組織とは、「各個人」の集団を束ねること(単純!)ではなく、適切な時にそれぞれのニッチに対してボトムとトップの適切な混合率を見いだすことにある。統制・非統制の混合率はシステムが成長し成熟するにつれて変化するだろう。

出発点から判断すると、巣の精神の無能な力を結集すれば、私たちが夢見るよりもずっと先へ運んでくれるだろう。そして最終目標から判断すると、巣の精神だけでは十分ではなく、さらにトップダウンの一押しが必要である。

私たちはまったく最初の最初に立っているにすぎないのだから、今はまず巣の精神で行けるところまで行くべきなのだ。





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posted by 七左衛門 at 22:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳    
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