2008年07月09日

「直線と指数関数の交点」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "Where the Linear Crosses the Exponential" の日本語訳である。



直線と指数関数の交点  Where the Linear Crosses the Exponential

フリーマン・ダイソン(Freeman Dyson)は私が気に入っている大局観のある思想家だ。彼は自分の心と電卓の二つを持って世界に立ち向かっている。彼は疑わしい異説を検討することを楽しみ、そこから何か学ぶことができるかどうかを考えている。彼は普通とは違う立場をとってみて、もしそれが本当であるとしたらどうなるかを計算する。その結果の概略の数字が、私たちの知っている何かと一致するだろうか?

最近、ダイソンは地球温暖化という難問について、私の知る限り最も優れた分析を書いた。それはニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス(New York Review of Books)での書評という形を借りたものだ。ある現象の物理を計算することで新しい見方を引き出すという彼独特の能力を使って、この「書評」では三つの斬新な見解を示している。

(1) 地球温暖化に対する投機的解決。「強度に炭素を摂取する植物」をバイオエンジニアリングで作ることを提言している。有名なキーリングのグラフに基づく彼の計算では、その植物は10年で余分な二酸化炭素を吸収することができる。私はこのバイオテクノロジーは可能だと思う。ただし、その植物を野生種に移植して、彼の計算で必要だというように地球上の陸地の「4分の1を覆いつくす」ことができるかどうかは疑問である。なぜならばこの変種は(そもそも意図的に)その祖先である野生種と同じようにはふるまったり作用したりしないからである。その植物はより多くの炭素を凝集させるという、まさにその点において明らかに異なっている。おそらくこの強力な炭素植物を大規模に農産物として栽培するのならば、うまく働くだろう。しかしこのような投機に到達するとは、この問題に対するダイソンの考えはおもしろい。

(2) さらに興味深いのは、他の人があまり気づいていない新しい世界的な宗教について、優れた説明をダイソンが書いていることである。私はこれについてダイソンが100%正しいと思う。

世界的規模の世俗的宗教がある。それは環境保護主義とでも呼べばよいのだろうか、私たち人間は地球の管理人であり、贅沢な生活による廃棄物でこの惑星を汚染することは罪悪であり、そして、できるだけ質素な生活をすることが正しい道であるという考え方である。世界中の幼稚園や学校や大学で、環境保護主義の倫理を子どもたちに教えている。環境保護主義は社会主義にとってかわって、主要な世俗的宗教の地位を得た。そして環境保護主義の倫理は、基本的には妥当なものだ。野生の生息地を非情に破壊するのは悪であり、鳥や蝶を大事に保存するのは善であるということには、仏教の僧侶やキリスト教の活動家だけでなく、科学者や経済学者も賛同する。世界的な環境保護主義者のコミュニティー(その大部分は科学者ではない)は、高い道徳的基盤を持ち、人間社会を希望に満ちた未来へ導こうとしている。環境保護主義は、自然に対する希望と敬意の宗教として定着している。それは地球温暖化が有害だと考えるかどうかにかかわらず、私たちみんなが共有できる宗教である。


(3) しかしより重要なことは、そして彼の論文が長期的思考に関して注目すべきであるのは、ダイソンが世代間の思考における重要な問題について素晴らしい明快さで説明していることだ。将来の繁栄を確保するために、現在の世代が今日どれだけの「罰金」を払わなければならないか?この疑問に対するダイソンの説明は次の通り。

2010年に1ドル使って排出を減らすことにより、2110年に気候変動で生じる損害をMドル節約できるとする。Mがいくらであればその支出が価値あるものなのか?すなわち、経済学者の言い方をすれば、排出減少に現在の資金を投資することによって、気候変動による将来の損失をどれだけ減少または「割引」できるか?


これは「将来価値の割引」と呼ばれている。長期的なプロジェクトでは必ずこの計算に直面する。

この疑問に対する従来の経済学者の答えは、2010年において世界経済にドルを投資したとして、平均利率による100年の複利計算で2110年に期待される収益に対して、Mはそれよりも大きくなければならないというものである。たとえば、1ドルを平均4%の利率で100年間投資したとすると、その価値は54ドルになる。これは今の1ドルが100年の時間を経過したときの将来価値である。したがって、地球温暖化と戦うためのある特定の方策に今投入する資金1ドルにつき、100年後には温暖化による損害を54ドル以上減少させる必要がある。そうでなければ社会にとって経済的便益の増加が発生しない。たとえば二酸化炭素の排出に課税するという方策で、もし仮に投資1ドルにつき44ドルしか見返りがないとすると、その方策を採用することによる便益は、そのために費やされる費用を下回る。しかしその方策で投資1ドルあたり64ドルの収益があるならば、それが有利なことは明らかである。そうすると問題は、地球温暖化に対するいろいろな方策で、長期的な便益が現在の費用を上回るようにできるかどうかということになる。

長期的な計画を立てるときには、将来に対する割引率を選択することが最も重要な決断である。割引率は、資金が将来へ向かって遠ざかることによって現在価値が減ると見込まれる損失の年率である。


ここでダイソンは地球温暖化の問題に戻ってくる。彼が書評を書いている2冊の本、スターンの著書とノードハウスの著書では、将来の割引率についてそれぞれ対立する見方が示されている。

スターンの見解では、割引は現在と将来の世代間で不公平を生じるから倫理に反する。すなわち、スターンは割引が将来の世代に過剰な負担をかけると考えている。また、ノードハウスの見解では、現在の世代が節約した1ドルは100年後の我々の子孫にとっては54ドルの価値があるのだから、割引は公平である。


この板挟み状態を別の形で言い換えることもできる。何百万人もの人を今日の貧困から救うことができるならば、たくさんの石炭を燃やしてもかまわないだろうか?それとも、いま燃やす石炭を少なくして、貧困の緩和を先延ばしするのか?今日の繁栄と汚染が将来の世代に多くのものをもたらすか、それとも今日の環境の健全性と貧困を選ぶほうが将来に多くのものを残せるか?もしあなたが将来の世代として生まれたとしたら、どちらを望むだろうか?貧困の中に生まれるか、それとも汚染のない世の中に生まれるか?

繁栄と健全性、両方を次の世代へ残すべきではないのか?たしかに、それが最終目標ではある。しかし将来価値の割引に関するダイソンの説明で明らかなように、必ずトレードオフがあるのだ。当然のことながら、現在の世代と将来の世代を両方とも完全に満足させることは不可能である。それぞれの要求(現在と将来)は一部重複するかもしれないが、すべて一致することはない。

個人には非常にはっきりとした時間選好がある。ほとんど例外なく、人は今から50年後に千ドルもらうよりも、今日、千ドルもらうほうが良いと思う。しかし今日の千ドルと50年後の3万ドルの選択であれば、好みは分かれるところだ。その両者の違い(現在と将来)が利息と呼ばれるものの原因である。ある物をいま手に入れるために支払う金額である。ある人は現在の利益のために多く払いすぎて、その利息を払えない状態で行き詰まっているかもしれない。だから、利率および将来に対する割引率は賢明に決めなければならない。

社会にも時間選好があるように思われる。すべての条件が同じであれば、後からよりも、現在の繁栄を望むようだ。いま恩恵を得るために、どれだけの額を払うつもりがあるか?大気汚染や気候変動の対価を払うか?現時点の繁栄を得るための長期負債を払うか?人間社会は払うだろう。払いすぎるくらい払おうとするだろう。今の繁栄に対する「利率」は、将来の世代が返済できないほどになるかもしれない。

さらに、技術の圧力のせいで、将来価値の割引に関する奇妙さがより強くなる。あるプロジェクトでは、遅れのために将来の費用が大きく増加する。道路や橋などのインフラストラクチャーの維持を遅らせると、老朽化がさらなる老朽化を招くので、それを改修するのにますます多くのお金が必要になる。放棄は自己加速的に進行するので、本当に放棄されたものを修理するのは不可能なほどの高額になる。その一方で、ムーアの法則を考えてみよう。計算機が将来にわたって毎年、値段は半分、速度は2倍になるとしたら、複雑な計算を要する難問を先延ばしにするのは妥当である。多くの生物学者は人間の遺伝子解読を延期することが経済上合理的だと提言した。何年か待って技術が進化すれば、やがてそれは安くなって、効率や速度は毎年2倍になるのだから、早く始めた人を追い越すことができる。つまり待つほうが安くて速いのだ。

進化し続けるシステム(エクストロピック・システム) --- 経済、自然、技術 --- はすべて自己加速的なフィードバック・サイクルで支配されている。複利計算のように、あるいは好循環のように、見返りが次々と増えることによって動いている。成功が成功を生む。わずかに増加していくロングテールがあって、サイクルごとに2倍になることを続ければ、見えないくらいの微少なところから一気に重要な位置に飛び出してくる。また、エクストロピック・システムは同様に自己加速的に崩壊する。一つの減少がきっかけとなって他の多くの減少が起こり、悪循環に陥ってシステム全体が破滅する。私たちが将来を見るときの見方は、このような指数曲線のためにゆがめられ、欺かれている。

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しかし進歩が指数関数で増加するとしても、私たち個人の生活は一次関数すなわち直線的に進んでいる。私たちは一日一日を生きている。年を取るにつれて時間は早く進むように感じるが、実際には同じ調子で着実に進んでいる。今日という日は将来のいつかある日よりも貴重だ。自分にとってはその将来の日が得られるという保証はないのだから。文明についても同様である。直線的な時間の尺度では、将来は損失である。しかし人間の知性や社会は時間とともに向上していく。その向上を好循環の中で複利計算すれば、この次元では将来は利益である。したがって長期的思考によれば、直線と指数関数の交点が生じる。時間が直線的に進むにつれて、多くの指数関数的な力が上昇したり下降したりするのと次々に交差する。また、世代も直線的順序で進んでいく。ある世代から次の世代へと着実に進む。複利的に循環する指数関数的な変化に押されながら。

直線と指数関数が交わる点のバランスは、長期的思考の対象とすべきことである。世代ごとに、そして問題ごとに、その交点は異なっているだろう。あるときには今即時の必要性が優位であって、割引率は現在に有利になる。たとえば幼児期にワクチンや抗生物質を連用するのは長期的には良くないことであるかもしれないが、現在の世代にとっての価値は非常に大きいので、私たちはその費用を将来にゆだねることに同意している。後の世代はその代価を支払うか、または、指数関数的に向上した知識と資源を使って、より良い薬を発明して問題を解決しなければならない。また別のあるときには、私たちの世代が高い割引率を設定して、将来の世代が多大な利益を得ることもある。今すぐには利益がなくても始めたことが、後に指数関数的に成長する場合である。たとえば、どの社会においても女子を教育することによる利益は非常に大きい。その効果は複利計算で増加し、いろいろな方法で多くの世代にわたって利益になる。そのための費用が高価であっても、文化的な抵抗があっても、そしてすぐに利益が得られなくても、今、費用を払うだけの非常に大きな価値がある。この場合には、費用の閾値が現在に引き寄せられている。

この「費用/便益/リスク」の閾値に関する文明の各分野ごとのスケジュール、あるいは私たちの直線的な生活が指数関数的な変化とどこで交差するかを示す地図、そのどちらかでもあったら非常に便利だろうと思う。





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posted by 七左衛門 at 21:55 | 翻訳