2008年08月29日

「技術はあなたの『映画』のために」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "Technology, The Movie" の日本語訳である。



技術はあなたの「映画」のために  Technology, The Movie

人はみなスターとして生まれてきた。人は誰でも隠れた才能、新しい洞察力、潜在的な経験などをその人独自の形で発達させる。同じDNAをもつ双子でも、人生の可能性は同じではない。

人が自分の一連の才能を最大限に発揮するとき、その人は輝いている。なぜならば他の誰も同じことはできないからだ。真似できない、それが大切である。実はそれがスターという意味なのだ。ただし、誰でもがブロードウェイで歌ったり、オリンピックで競技したり、ノーベル賞を受賞したりするということではない。これはスターになるための陳腐な三つの方法にすぎない。そもそもこのような機会は限られた人だけのものなのに、それをみんなが成功するための目標にするという誤りを犯している。実際には、そのような有名人やスターの立場は、誰か他の人が勝利した方法による監獄であり、拘束具である。セレブは自分の成功を多くの他人たちに真似させようとしている。そしてそのファンは他人の映画の中でスターになろうとする。当然のように、たいてい彼らは失敗する。

いくつもの伝記を読んで気がつくのは、多くの人が人生の大部分をかけて、自分の映画がどんなものかをさがしているということだ。誰か他の人の映画に自分を出演させるのであれば --- とくにその他人が今まさに人生を楽しんでいる場合には、それは非常に容易なことだ。でも、本来の自分自身になることのほうがずっと楽しい。何かを成し遂げた人は魅力的だ。自分自身になるための独自の方法を見つけているからである。この過程を省略して、今楽しく充実している人の真似だけをしたらどうなるか?やがてあなた自身の映画は止まってしまう。真似しようとする対象が尊敬すべき偉大な人であるとき、本当に恐ろしい誘惑がやってくる。そんな有名人志願者にとって、野望と不誠実の衝突が避けられないのは非常に悲しいことだ。自分自身の映画でスターになれば、あなたは他の誰にも似ていないはずなのに。

自分自身の映画でスターになるのは世界で最も容易なことだが --- そして、容易であることは、あなたが正しい映画に出演しているという良い目安でもあるが --- そもそも自分の映画を見つけ出すということがきわめて難しい仕事である。それは自分一人ではできない。外から見た他人の視点とフィードバックなしに、自分の才能を現実的に見極めて育成することができる人はめったにいない。その他人には、敵も味方も含む。実際のところ、他人はそのためにある。しかし他人の意見に耳を傾け過ぎると、他人の映画に巻き込まれる。彼らはあなたをエキストラとして出演させて、喜んでいるだろうけれど。

他にも障害がある。時には自分の才能が近くにいる人 --- 親や兄弟など --- に類似していることがあって、自分を独自なものとして認識するのに多大な判断力が必要となる。父や母に見られるのと同じ特質を私たちは本当に持っているのか?その特質が本当に自分にあるのかどうか調べるために、検証し、試行し、観察し、調査し、実験しなければならない。その過程が人生と呼ばれるものだ。

しかし自分の映画がどんなものであるかは、まずその映画を作ってみないとわからないというところに本当の難しさがある。自分の映画は既製品としてそこに存在するのではなく、どこか書類入れの中に隠れている。私たちは自分がスターを務める映画を作らなければならない。自分で作るのだ!最も難しいのは、物語の結末がわかる前に台本を書かなければならないということだ。さらに悪いことに、この映画に出てくるエキストラたちは、みんな各自の映画では主役を演じている(あるいは演じているはずだ)!したがってどんどん話が複雑になる。私の人生はあなたの舞台装置である。そして私が成長するにつれて、私はあなたの映画の小道具を作り替えている。自分の役をそのまま続けることが難しいのも無理はない。しかしこの大きな相互依存性はありがたいことだ。多くの人生が交差する場所で、自分にとって最良のせりふや登場人物、そして物語そのものを得ることができる。

私たちは自分の人生を発展させるのに必要な才能をすべて持って生まれているわけではない。才能はタンパク質のようにDNAに織り込まれていない。才能は確定したものではない。私たちはわずかの、だがさまざまな能力を持って生まれてきた。私たちの出発点はそれぞれ異なる。ある人は他の人より有利な出発をする。いつどこで生まれたか、親が誰であるかということは、あなたの人生に強烈な影響を与える既成事実である。

でも、この基本的な生まれつきの属性が私たちの運命を決めてしまうわけではない。人間の資質は、出生時点ですべて現れてはいない。私たちは資質を成長させる。あるいは成長してその資質を得る。資質は創造的な性格に由来する。その資質は私たち自身から発生する。物語がそうであるのと同じように。私たちの人生は、自分が何者であるかを発見するために、自分自身が作る物語である。物語を作り上げるにつれて、登場人物に対する行動、新しい考え方、他人の演出による背景の変化に対応する新しい能力などを創出する機会がある。この創造する力はいろいろな場面で現れる。たとえば、1954年、ロジャー・バニスターの1マイル4分の壁を崩すという強力な業績は、陸上競技における可能性の展望を一変させた。彼に続く何百何千もの選手は、それまで考えられなかったことを成し遂げる能力に気づいたのである。ピカソのキュービズムに対する洞察は、それまで見えなかった芸術的才能のための壮大な領域を切り開いた(絵を描かなくても画家になれる!)。アインシュタインのような天才の想像力は、それまで想像できなかった人間の能力、たとえば、多次元や相対性を考えるという能力を引き出した。良い友人はそれと同じように私たちの能力を伸ばしてくれる。ある人の想像力によって、他の人の秘めた可能性が実際に変わることがある。(逆もまた真である。ある人の悪意によって、他の人の可能性が壊されることもある。)

人生にはいつも不思議なパラドックスがある。自分の最終的な潜在能力に到達するためには、私たちは人生の最後まで生きなければならない。しかし生きるというその過程自体が、潜在能力を含むあらゆるものを変化させる。この相互作用は不安定ではあるが、実はそれが人生の良いところだ。人生の実現にこの動的な循環が欠けていれば、それは単なるシミュレーションであり、薄っぺらな理論であり、結末が先にわかってしまうつまらない映画である。本来ならば、そこには多くの驚きがある。その驚きの一部は、私たちが自分自身で書くものだ。

人間には個人としても、また集団としても、驚くべきことがある。人間が社会の中で誰かのために作った可能性は、長い時間が経過しても、引き続き他人の可能性を広げている。普通はこのような考え方はしないけれども、実は、ここで言う可能性は「技術」と呼ばれるものである。弦を振動させる技術は、バイオリンの名演奏家の潜在能力を切り開いた(作り出した)。油絵具とキャンバスの技術は、何世紀にもわたって画家たちの才能を発揮させてきた。フィルムの技術は、映画制作の才能を引き出した。字を書くこと、法律を制定すること、そして数学などのような柔らかい技術は、人間が良いものを作ったり良いことをするための潜在能力を拡大した。私たちは、友人や家族、一族、国、社会などの集団として、はっきりした役割がある。各個人をスターにさせる、すなわち各人が独自の貢献を最大限にできるようにしてやることである。

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しかし私たちが他人の可能性を拡大することができずに、減退させてしまうならば、それは罪である。だから、他人の創造性の範囲を拡大させることは、義務である。もしもピアノの技術ができる以前にバッハが生まれていたとしたら、私たちの世界はどんなに貧弱なものであるか想像できるだろうか?あるいは、もしも油絵具を発明する前にフィンセント・ファン・ゴッホが生まれていたら?あるいは、もしもヒッチコックが成長する前に、誰も映画の技術を発明していなかったら?現代においても、子どもたちにとって ---私の子も含めて--- もしかしたら、その才能に適した理想的な技術がまだ発明されていないために、彼らの潜在能力が妨げられていることがあるかもしれない。たぶん、現代のシェークスピアが名作を創造する前に、小さな道具が必要なのだ。そのようなものを作る可能性がなければ、子どもは能力の発揮を妨げられる。そして、そのために人間全体の創造性が減退する。したがって私たちは技術を強化する道徳的義務を負っている。私たちが技術の種類や範囲を拡大すれば、選択肢が増える。私たちが可能性を拡大すれば、みんながスターになる機会を広げることができる。

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posted by 七左衛門 at 23:14 | 翻訳