2008年10月27日

「科学技術にだまされている?」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "Are We Duped By the Technium?" の日本語訳である。



科学技術にだまされている?  Are We Duped By the Technium?

技術というものが、私たちの精神にとって良くないならば、どうして私たちは技術を使っているのだろう?

技術がもたらす便益に比べて、その便益のためのコストがあまりにも目立っていて、しかも多くの人にとってはあまりにも高価である。たしかに入手できるものが増えた。より多くの物、より多くの知識、より多くの選択を得たはずだ。しかし不思議なことに、新聞の世論調査によると、私たちの持ち物はより少なく、私たちはより賢くなく、より幸せでなくなっているようだ。ある人々にとっての進歩は、現代医学の奇跡によるものであって、今までより数十年長く生きられる程度では不満足ということもある。将来のいつか、科学のおかげで人間が永遠に生きられるようになるだろう。そうすれば、私たちは永遠に不幸なままである。

テクニウム(訳注:文明としての技術。ケヴィン・ケリーの造語)は、かけがえのない資源、古来の生活環境、多数の野生生物を減少させながら成長していて、それなのに自然環境に対して、汚染と舗装と役に立たない無数のがらくたを返しているだけだという感覚を持つ人が多い。さらにひどい話として、この同じ技術が経済力の強い人たちをさらに富ませるために、世界で最も貧しい人たち ---資源が多くて経済力が弱い国--- から収奪しているという考えもある。技術の進歩などというものは、幸運な少数の人々を太らせる一方で、不幸な貧しい人々を飢えさせているだけだ。このようにテクニウムが拡大すると、私たちの人間性が失われ、さらに子どもたちの未来も奪われる。したがって、技術の便益などというのは幻想であり、新しい物に対する私たちの中毒症状を正当化するためのごまかしである。

このような考え方は、技術の欠点に関する物質的な側面にすぎない。多くの人にとって技術とは、宗教的な感覚あるいはあらゆる精神主義的なものを禁止するものと受けとめられている。テクニウムは凶暴な物質主義によって、私たちの生活の関心を物に集中させることで、人生において大いに意義あるものを遠ざけている。しかし、なりふりかまわず人生の意義を見つけようとする中で、売りに出されている唯一の解決策、すなわち技術をより多く買うことによって、人間は技術を激しく、精力的に、とめどなく消費している。「わずかの満足のために多くを求める」というのが中毒の一つの定義である。頭では技術を軽蔑している人が、それでも最新の物を手に入れようとすることもこれで説明がつく。すなわち、技術が人間に良くないことを知りながら、どうしてもやめられなくて使い続けてしまうのである。そうするしかないのだ。

私はこの中毒説に疑問を持っている。その理屈はわかるが、証拠がない。個人的にはそれは違うと思う。技術の普遍性が当然とされているのが私には気になる。その一方で、技術に依存している人々が技術を酷評している。技術がそんなにひどいものだと思うのならば、どうしてみんなはそれを受け入れ続けるのか?私たちは技術を受容しているではないか。一部の人は他の人たちと比べて、より選択的に技術を使っているが、今地球上に生きているすべての人は例外なく、技術をある程度は(弓矢、ランプ、農具など)使っている。さらに重要なこととして、私の経験では、すべての人はより良い物にひきつけられている。

入手可能な最新の技術を性急に取り入れるというのが、昔も今も、人類の一般的な傾向である。これは技術が疫病だと思っている人々についても当てはまる。ネオ・ラッダイト(技術革新反対論者)で最強の技術評論家、カークパトリック・セールとのインタビューを私はくっきりと覚えている。おそらく地球上で最も科学技術的な場所、マンハッタン中心部にある彼の高級アパートでくつろぎながらのインタビューだった。セールは、技術(と文明)が地球と人類にとって最悪のものだと、皮肉ではなく非難した。彼はもちろん最新の技術に囲まれていて、それを手放そうとはしない、絶対に。ここで私はカークパトリック・セールだけを責めるつもりはない。彼の偽善は私たちのものでもあるからだ。増加する技術が絶大なコストを世界に負担させていることをはっきりと理解すれば、技術以前の状態に戻ろうと移動する大勢の人々の群れに参加しないはずがない。


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私たちはだまされている、という説もある。輝きにうっとりとしているだけで、中毒というほどではない。技術はある種の黒魔術によって、私たちの判断力を弱めている。この説によれば、メディアの技術がユートピアの正面を見せておいて、テクニウムの真の色を隠している。光り輝く便益が私たちの目をくらませて、強力な新しい悪徳を見えなくする。私たちはある種の呪文をかけられている。しかし、それは合意に基づく幻覚であるはずだ。なぜならば私たちはみんな同じ新しいもの、たとえば、最も良い薬、最もかっこいい乗り物、最も小さい携帯電話などを欲しがるからだ。そして、それは非常に強力な呪文であるに違いない。その呪文は人類全員に、人種、年齢、地域、貧富を問わず作用する。つまりこの文章を読んでいる人は、みんなこの魔法にかかっている。大学のキャンパスで語られるイケてる理論によれば、私たちは技術を売り歩く会社に、とくにその会社の経営者たちにだまされている。しかし、それは社長たちがこのごまかしに気がついているというだけのことだ。私の経験では、彼らもまた私たちと同じボートに乗っている。本当のところ、彼らにそんな陰謀をたくらむ能力はない。

イケてない理論では、技術はそれ自身の調和のために私たちをだますのだという。技術はメディアを使って、技術がまったく慈愛に富むものだと考えるように私たちを洗脳し、技術の欠点を人間の意識から消してしまう。テクニウムが自分自身の計略を持っていると信じている私は、このイケてない理論がもっともらしいと思う。この擬人化は、まったく気にならない。しかしこの論理でいけば、技術的な文化に接することが少ない人ほど、だまされている程度が少なくて、はっきり見えている危険に気がつきやすいということになる。衣服を着ていない王様を見た子どものようなものだろう。いや、狼の衣装をつけた王様か。でも実際には、文化に毒されずメディアの呪文にかかっていない人々は、古い物を捨てて新しい物を手に入れたがることが多い。彼らはテクニウムの圧倒的な力を目にすると、「今すぐ、それを全部私にくれ」と言う。そして、技術に触れるようになった人が、テクニウムの呪文の影響を受けて、ものを見たり信じたりすることが多い。これは私から見れば、つじつまが合わない。

理論はあと一つだけに絞られた。大きな欠陥と明らかな不利益のある技術を、私たちは自ら進んで選んでいる、という説である。その長所のほうが、はるかにではなくてもわずかに大きい、と無意識のうちに計算したから選んだのだ。すなわち、私たちは技術的な新奇性に対するコストに漠然と気づいているが、あえてそれを容認し、さらにその代価を払うことを自主的に選択したのである。

技術のコストは容易には見えないものであり、もっとはっきりと、正確に、そしてよく検討すべきだと思う。テクニウムの呪文が私にかけられていると言ってもよい。技術のコストを明るみに出す方法は、革新的な技術によって得られると私は考えているのだ。リアルタイムでの監視、高度な分析、過酷な確認試験、公正な外部性の計算などの技術である。私はこれらのツールこそが進歩だと考える。進歩というのは今はあまり流行らないが、人類の歴史の現時点において、進歩のために技術のコストを正しく計算しておく必要があると思う。そして、技術のコストを計算することが一般的になれば、進歩は再び流行するようになるだろう。

全体のコストを正しく計算すると、時には、新しいものの受容をやめることもあるだろう。しかし、それで多くの人がテクニウムから遠ざかることになるというのは疑わしい。なぜならば私たちはすでに、毎日それを(あまり正確ではないが)計算しているからである。たとえば、自動車を使うことの社会的コストを知りながら、それでも(自分の、または他人の)自動車を利用している。技術の欠点を明らかにするような進歩があれば、技術の受容を調節することもできるだろう。また、そのような進歩によって、私たちが技術を自ら進んで受容したということが確かめられるかもしれない。中毒ではなく、呪文でもないということが。





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posted by 七左衛門 at 23:03 | 翻訳