2008年11月23日

「人間は何者であるべきなのか?」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "Who Should We Be?" の日本語訳である。



人間は何者であるべきなのか?  Who Should We Be?

テクニウム(訳注:文明としての技術。ケヴィン・ケリーの造語)は化学反応しない不活性表面ではなく、人生における活発な力である。私たちの精神生活は、言語と文字、見るための道具、法律と公正の概念など―すべて人間が発明したもので形成される。ひとたび発明されたものは、私たちに対して反発する。インターネットをはじめとして、過去10万年の間に人間が作った道具類は、私たち人間を変化させてきた。

人間が何に変化するか?それは少なくとも今後数世紀にわたって継続する巨大な疑問である。私たちは何であるか?何になることができるか?何であるべきか?

人間がウェブやクローン作成などの新しい技術を創造するたびに「それで、私たちは何なのか?」というこの繰り返しが再び始まる。それに答えるために、私たちは人間の性質や伝統、そして新しい技術について深く掘り下げて考える。

・まず、人間としての自分自身の行動を探求して、この新しい物で私たちが何になれるか、また、何であるべきかの答えを得ようとする。動物的進化をふりかえることによって、人間がどんな能力を持っているかを確かめる。あるいは社会史を深く探求し、人間が過去に成し遂げたことを調べる。最良の人間性(みんな自分にとってのリストを持っているだろう)をめざしつつ、自分に向かって言う。私たちはそれをさらに超えられるはずだ、と。つまり、「最良の人間性を超えたもの」が私たちのめざす一つの答えである。

・私たちは夢想を求めることもある。スーパーマン、フランケンシュタイン、特異点、X-メン、SFの異星人などの伝説は、集合的無意識によって将来の人類の変種を想像する試みである。SFに登場する超人や異星人の例をすべて収集して、どのような能力を持っているかを分類して検討することにより、未来の人類に対する願望の輪郭を調べるというような研究は、社会学か何かの大学院生の良い課題だと思う。(そのような収集事例があれば知らせてほしい。)超人類の可能性は非常に広範囲にわたっていて、空想小説業界の何百年かそこらの歴史では、たぶん何か変化できそうな方法を考え始めたところにすぎない。人間の想像力の貯水池は広大であり、私たちがどうなりたいかという願望の主要な水源であり続けるだろう。

・最後に、私たちは技術を探求して、そこにどのような潜在力が隠されているかを調べることもある。人間が技術と融合すると、その潜在力が人間に移転する。私たちが技術を使って遺伝情報を操作したり、人間を延命させたりするときには、技術の力学の一部を吸収せざるを得ない(それは、進化や適応を技術の創造に取り入れるときに、技術が自然の力学を吸収せざるを得ないのと同じである)。新しい技術の中にのみ存在する全く新しい能力または潜在力を発見して、私たちは決心することもあるだろう。そうか、人間はこのようになればいい、と。ありふれた例としては、私はスクロールバック・バーを見て、未来の人間は好きなときに人生を巻き戻し(スクロールバック)できることが不可欠だと思っている。技術が求めるものに耳を傾ければ、人間が何になれるか、何になりたいか、という疑問に対する答えが見えてくるかもしれない。

この可能性の水槽がどんなに広く深いとしても、人間は望みどおりのいかなるものにも自分自身を作りかえることはできないと思う。一部の人々、たとえばトランスヒューマニスト(超人主義者)たちは、人間を作りかえるという課題を真剣に考えている。彼らは、人間性は白いキャンバスであり、技術の力によって人類を、あるいは少なくとも個人を、望みどおりの形に作りかえることができると宣言したりする。一部の人が信じるところによると、特異点において想定される超能力が、この変換を(他の人はそんなものいらないと思っているのだが)可能にする秘密のソースだという。この枠組みの中では、十分に時間をかけさえすれば、知性ができることには限界がないらしい(私はこれを思考主義邦訳)と呼ぶ)。アーサー・C・クラークがこう述べている。「何らかの技術について不可能であると言った場合には、その人はきっと間違っている。」

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世界トランスヒューマニスト協会(World Transhumanist Association)による

しかし同時に、宇宙は限界があるからこそ実在する。実在するものは、物質、物理、法律、その他の基盤によって、ある方向に可能性が制約されているから実在する。そうでなければ、魔法のように何でも起こりうることになる。すなわち、私たちはあらゆることを想像できるが、その一部は現実の制約によって実現を阻止されているのである。

短めの長期的には、人類として進化する可能性について、そのすべてを使い果たした状態に近づいているわけではない。人類にもたらすことができるものが、まだ他にあるだろう。生物的不死、テレパシー能力、完全無欠の記憶、風邪に対する免疫、背中の改良、無痛出産などなど。自分の体がすごい可塑性を持つように操作して、各個人が自分の能力の得意不得意を調節できるようになるかもしれない。

しかし、私たちが何になりたいか(あるいは、何になるべきか)を決めるのは、もっと大きな難問であると思う。現実はトレードオフのある機械だとわかっている。エネルギーや情報を消費するものは何でも、トレードオフが必要である。新しい能力は新しい問題を生み、どこか他のところで新しいコストを負担する。すべての方向に無限というのはあり得ない。

人類がどうなることを望むのかと考えるとき、いくつかの大きな問題が待ち受けている。人間は一つの種のままでいるか、多くの種になるか(なるべきなのか)?どこか人間が向かっているところに集団で行くことが重要なのか?私たちはそもそも人間でありつづけるべきか?人間性(それがどんなものでも)は守り続ける価値があるか?私たちはどこまで進化することができるか、そしてどこまでが人間と呼べるか?そのとき普通の人はまだいるか?あるいは統計上の異常値、極端な変種、将来の巨大なアインシュタインやモーツァルトたちで人間というものを定義しなおすのか?

最後に、次のように主張する人も一部にいる。人間性は能力や才能にはあまり関係がなくて、道徳性に関係がある、また「人間性とは何か」という中核は心に存在する、大いなる道徳性の進化は肉体にではなく社会に現れる、と。何をするかよりも、物事をどのように行うかが重要であるらしい。

何者になることを望むかについて、一つの種として人間はすでに決心しつつある。高齢の新しい親たちは遺伝について定期的にカウンセリングを受けている。彼らの小さな選択は、将来の世代の遺伝子について実際に下流への影響を持つ。環境化学物質も人間の遺伝子に影響するが、その状況は今のところわからない。眼鏡や義肢などの人工装具技術やグーグルも、大きく見れば人間をある方向へ変化させる。

人間は自分自身を作りかえつつある。しかし私たちは、そのときに疑問を問いかけていない。人間は何者になりたいか?人間は何のためにあるのか?人間は何者であるべきなのか?





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posted by 七左衛門 at 14:21 | 翻訳