訳 :堺屋七左衛門
この文章は Kevin Kelly による "The Missing Near Future" の日本語訳である。
欠落した近未来 The Missing Near Future
サイエンス・フィクション(SF)は現在のことを心配するという娯楽である。SFは今日の問題に立ち向かうために、未来を物語の舞台としている。まだ発明されていない驚異の物体が登場していても、その未来の物体は、現在の読者が認識できるような方法でしか理解できない。何十年か前のSFを読んでみれば、そこでは今日の発明品 ―たとえば計算機やら何やらに対する見方が、なんとも古くさいことがわかる。このように、昨日から見た明日の展望というのは、笑いを誘うものである。過去において新しい道具を入手しても、そこには新しい背景の脈絡がない。今日の最先端のSFでも同じことがある。未来の読者は笑うだろう。残念ながら創作した時代という偏向は消すことができない。
優れた脚本家はこのことを理解している。現代SF界の偉人、ウィリアム・ギブソンは、最近の彼のSF作品の大部分が今この場を、すなわち、彼の詩的表現である「いつも異質な現在」を舞台とする理由を次のように述べている。
現在の瞬間はいつも、私が想像しうるどのような「未来」と比べても、限りなく奇妙で複雑であるのが当然だと思う。私の仕事は(とにかく当面は)いつも異質な現在のすごく不思議な断片を(SFで言うところの)「世界」へ、すなわち「未来」なるものへと移すことだろう。
もちろん、全員がいつも異質な現在に満足しているわけではなく、いつも異質な未来を望んでいる人もいる。最も望ましいのは、真の「異質さ」が存在する遠い未来だろう。そこでは今日の信念や仮定が本当の検証を受けることができる。SF文化の中心としての地位を継承したハリウッドは、映画的な遠い未来が好きらしい。そこで、私たちはたとえばスタートレック、宇宙空母ギャラクティカ、スターウォーズ、ファイヤーフライなど遠い未来の冒険物語をどんどん見ることができる。しかし現状のあらゆる種類のSFでは、近未来については空白のままである。
読者としては異星人が存在すると信じることもできる。舞台が現代に似ていれば、なおさらである。もしかしたら現代そのものの変種かもしれない。私たちは遠い未来にも同様に容易に納得してしまう。いつか、何らかの方法で、浮かぶ巨大都市や空中のハイウェイやインスタント食品その他いろいろのものができると確信している。今、都市間に高速列車を走らせる資金がなくても、また遺伝子組み替えによる耐虫性とうもろこしを許容できなくても、あるいは21世紀の大規模な発展のために歩調をそろえることができなくても、私たちは上記のようなことを確信できる。10年以内に再び月へ行くことがありそうもないとしても。
近未来 ―ここでは西暦2020年以降としておこう― は空白である。なぜなら近未来についての望ましくてもっともらしい展望がほとんどないからである。多くの物語や「世界」やシナリオでは、たとえば2050年が悲惨な時代だという。核戦争による自己破壊、致命的な伝染病、世界的な洪水、ロボットによる人間性崩壊、異星人の侵略、独裁者による終末など、よりどりみどりだ。いずれも、もっともらしいものではあるが望ましくはない。
遠い未来の有利なところは、どのようにしてそこにたどり着いたか、どのようにして近未来を通り過ぎて行ったかという説明を聞かなくてもよいことである。十分に遠いので、創作者はパント・キックでそこを通過することができる。しかし近未来については私たちの文化から抜け落ちているので、それはなかなかの難問なのである。
計算機科学者で発明家のダニー・ヒリスは1956年生まれだが、子どものころ、未来とは「ずっと先」の2000年だと思っていた。しかし成長してからも、未来はやはり2000年に定着してとどまっていて、まるで新しいものはその限界を越えて進むことができないかのようであることに気づいた。1999年になって未来がたった1年先になるまで、未来が年ごとに縮小しているような感覚だったとダニーは表現している。今では2000年を通り過ぎてしまったので、未来は事実上消滅した。遠い遠い未来は別として。
主要なSF作家や未来学者、それに賢くておバカで明日の展望を大量生産するのにいつも忙しい人たちが、この消滅をもっと現実的にしてくれる。この一派の人々の一般的認識では、物が非常に速くて複雑な動き方をするので、2050年以降の未来は想像することが物理的に不可能なのだそうだ。この不連続を特異点と呼ぶ。未来派の人たちの多くは、特異点は優れた知性や多くの富、大いなる健康と不死をもたらすに違いないもので、それは非常に望ましいと信じている。しかしその予測は、今私たちが考えている人間像を打ち砕くことによって発生するものであり、したがって他の多くの人々はそのような未来には断固として反対するだろう。他の人たちは、さらに、特異点という未来は望ましくないだけでなく、ありそうもないと思っている。
いずれにしても、近未来は空白のままである。私たちは次の世紀にふさわしい進歩の筋書きを持っていない。地球上の何十億もの人が「そうだ、それが私の望むところだ」と言えるような今後50年の展望がない。発展途上諸国の数十億人は、自分たちが明日何がほしいか知っている。きれいな水、無償教育、自治、安価な消費財、そして、子どもたちへの期待。しかし、そのほかに何がある?先進国の十億人が望むものは?きれいな環境、有意義な就業の機会、そして……?
今世紀における進歩を想像することは非常に困難である。なぜならば私たちは、進歩に内在する複雑な副作用や副産物、そして新しいものすべてに潜在する予期せぬ結果などについて、前世紀に学んでいるからである。今では私たちは進歩を見ることができない。見えるものはコストだけである。
技術によるコストは、その新しい複雑さのせいで最近になって大きくなったのか、それともその複雑さのために今見えるようになっただけなのか、よくわからない。おそらく両方だろう。
ここでの難問は、コストという複雑さを含まないとして、技術的、社会的、そして道徳的な進歩の道程や展望が、現在ではありそうもないということである。さらにコストを含めたとすれば、進歩は望ましくないものになるだろう。
そのせいで私たちの社会は見えなくなっている。人々は、進歩は見えなくても存在するものと思いこんでいる。進歩が実在するものとして行動している。未来のほうが今日よりも良くなるつもりで、未来に投資したり、何かを始めたり、明日に向かって学習したりする。しかし、どこへ向かっているか、あるいはどこへ向かうつもりなのかについても、人類共通の展望はない。実際に私たちの行動が望ましい方向へ向かっていると称するための、合意された計測基準がない。それは望ましい方向がないからである。見えない中で混乱するというのが近未来の標準的な筋書きである。私たちは大きな目標がないままに、一歩また一歩、よろめきながら進んでいるようなものだ。一部の哲学者はこれがポストモダンの立場だと断言する。私たちに期待できるものは「目標のない人生(Living Without a Goal)」しかない、だからそれに慣れたほうがよい、という。
この立場には危険なところがある。社会を一体化するような進歩や向上の展望がないときには、指導者たちは社会をまとめるために不安を取り入れようとするのである。BBCのドキュメンタリーシリーズ「テロとの戦いの真相(The Power of Nightmares)」は、米国で最近起こったことを論じている。技術がすべてを解決するという期待(「進歩」の輝かしい日々)が消えたとき、国家を統一するための手段として、共産主義への不安がそれに取って代わった。共産主義が内部から腐敗して崩壊すると、テロリズムへの不安に交代することになった。この誇張された不安が過去の十年を支配した。しかし妥当で望ましい向上の展望がない限りにおいては、何十億の人々が賛同できるような、別の不安を見つけなければならないのである。
こういうわけで、何かより良い方向への道筋を明言する道徳的要請があると私は考える。あいまいなポストモダニズムの混乱を放置するのではなく、複雑さとコストの実体から逃避するのでもない。さらに、全員が合意することも期待しない。
それが可能かどうかはわからない。ポストモダン論者が主張するように、過去に引き戻される展望かもしれない。しかし八十億の人間と地球上に無数にいる自然の同居者たちのために近未来の進歩という筋書きを探り出すことができれば、私たち人間は互いに、また将来の世代に対して、より良く行動できると思う。
もし妥当で望ましい進歩についての案があれば、ぜひ聞かせてほしい。
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