2008年12月09日

「技術は無料になりたがる」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "Technology Wants To Be Free" の日本語訳である。



技術は無料になりたがる  Technology Wants To Be Free

この前の2月、最近のTEDカンファレンスの休憩時間に、私はワイアードの現編集長クリス・アンダーソンと、彼が出版する予定のFREE(フリー)という本の話をしていた。(私たちが話をしているとき、フリッカーFlickrの創設者その人が私たちの写真を撮って、Flickrに投稿していた!すごいだろう?)十年近く前に、私は、"New Rules for the New Economy"(邦題:ニューエコノミー勝者の条件)という本を書いた。その中で、無料の役割と潤沢さの経済について述べた章が "Follow the Free"(無料で売れ)である。私が書いた文章の中で、この短い章ほど誤解されたものはない。それ以来、質疑応答の時間にこんな質問が出なかったことはない。「あなたは無料であることを受け入れるべきだと言っている。なぜあらゆるものが無料になるのか?」

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実際のところ、無料という概念は誤解されやすい。だから、クリスが本を一冊丸ごと費やして、この混乱を解決しようとする快挙を私は称賛する。これについて解説すべきことはたくさんあって、それを聞いたとしても無料の意味を理解する入口に立ったにすぎない。私は十年前にこの問題を片付けたつもりだったが、その後もあの質問がいつも出てくるし、その他にも情報共有の進展、新しい社会の動き、新しい技術による混乱、そしてこの十年間のさらなる研究などを通じて、新しい考えが浮かんできた。その中でも特に、無料であることが技術の根幹に深く関連しているという結論を得た。そんな新しい生焼けの思考の一部をTEDのロビーで、クリスと語っていたのだった。その会話以来、技術と無料の結びつきは私が思った以上に深いことがわかった。私の今の結論を一言で言えば「技術は無料になりたがる」ということだ。

詳しく説明しよう。時間がたてば、ある技術機能の一定量あたりの原価は減少していく。その機能が十分長く存続すれば、その価格はゼロに近づいていく(ただしゼロにはならない)。時間のおかげで、技術機能はどれでも、無料も同然のようになるだろう。

これは私たち人間が作るものほとんどすべてに言えそうだ。食料品や素材(ふつう一次産品と呼ばれる)など基本的なもの、電気器具など複雑なもの、サービスや無形資産にも適用できる。これらのもの(一定の単位数量あたり)の原価は時間とともに減少している。特に産業革命以後はそうである。国際通貨基金(IMF)が2002年に発行した論文“The Long-Run Behavior of Commodity Prices”(一次産品価格の長期的変動) (by Paul Cashin and C. John McDermott, PDF) によれば、「一次産品価格は過去140年間にわたって毎年約1パーセントずつ低下する傾向がある。」すなわち、1世紀半の間、価格はゼロに向かって進んでいるのだ。

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「産業用一次産品の実質価格, 1862-1999」 (Cashin and McDermott)

一つの例として、の価格低下を取り上げよう。時間とともに、その価格のグラフはゼロに向かっていく(下図では実質価格をピンクで示す)。それはゼロに向かい続けているが、その曲線は数学的なパターンに従っている。関数が一定であると仮定すれば、価格は完全に無料という限界には決して到達しない。そのかわりに差が減少する無限級数の形で、どんどん限界に近づいてくる。このように限界に平行するが決して交わらないというパターンを、漸近線に接近すると言う。ここでは価格はゼロではないが、実質的にゼロである。俗に「安すぎて計れない」と言う。ゼロに近すぎて記録すらできないということだ。

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「銅価格の推移」


疑い深い人はこんな質問をする。「人間が作るものすべてがそうなる運命だったら、私のパソコンはどうしてタダではないの?」

ここで、いくつか注意をしておこう。まず考慮すべきなのは、原価は時間の経過(とくに長期にわたる場合)に伴って、インフレやデフレを考慮して正規化する必要があるということである。インフレで世の中のすべての価格が毎年4%ずつ上昇する場合には、ある物が毎年3%ずつ無料へ近づいていたとしても、ドルの価格だけを見ているとそのことに気がつかない。その場合、価格は毎年1%上昇する。したがって、インフレなどの貨幣価値の変動による影響の分だけ、ドル表示の価格を毎年修正する必要がある。ある年に対するインフレ調整後の価格を計算するということは、経済学ではよく行われている。たとえば、昔の価格が外国通貨で表示されていて、それを現在の米ドルに換算する必要があるというようなものだ。この再計算の結果による新しい価格は「恒常ドル」と言う。理論的には、この価格は「実質価格」をあらわすはずである。もちろん日常生活では現在のドルを使っているし、多くの場合にはゆっくりと無料へ向かう低下は目に見えないかもしれない。

さらに重要なのは、機能の単位がはっきりと決まっていなければならないことである。1トンの銅の実質価格を時間の経過とともに追跡することは、比較的容易である。なぜならば50年前の銅1トンは、今日の銅1トンとほとんど(ほとんどという意味は後ほど説明する)同じだからである。この金属の塊は、以前よりも今のほうがもっと価値が高くなったかもしれない(あるいは低くなったかもしれない)が、その機能、その用益、その本質は同じままである。たまたま、銅の実質価格は無料に向かって進んでいる。

しかし、物の機能は時間の経過とともに変化する。不変のように思える一次産品でさえも、時間とともに変化することがある。銅その他の金属の純度は高くなっている。とうもろこしの栄養価は上昇している。一次産品が50年前の品質であれば、今日では確実に不合格だろう。消費財については、革命的な進化を遂げている。今のノートパソコンは数年前のノートパソコンと同じように見えるかもしれないが、実は同じではない。同じノートパソコンという名前だが、それは本質的に全く新種の技術である。名前は同じままでその性能が変化しているせいで、時間の経過による価格の推移には混乱が生じている。3年前に購入したパソコンの実質価格を追跡したいのであれば、イーベイでの中古品の価格を調べるのも良い方法だろう。中古と新品の差による減額を控除すれば ―あるいは今でも同じ銘柄の新品を買うことができたとしてもかまわない― パソコンのその機種の価格は、迅速にゼロに向かっていることは明らかである。

カリフォルニア大学バークレー校の経済学者 ブラッド・デロングは、商品の効用の長期的変動について研究している。彼は次のように書いている

「今日の都市での生鮮食料品卸売価格は、消費者支出の4パーセントを占める。100年前はそれが20パーセントだった。」


だから一見すると、一定単位の「食料品」が実質ドルではどんどん低下しているようだ。しかし、彼は付け加えている。

「しかし、家計に占める食料品の割合の低下は5分の1ではなく、実際には2分の1である。」


なぜそうなるのか?よくある話だ。近ごろの食料品のように単純なものであっても、通常には気がつかないうちに、価値が増加しているのである。

「その相違は、今日では多くの準備が家庭の外で行われていることである。あらかじめ混ぜる、刻む、下ごしらえする、合わせる、冷凍する、加工するなどしてあるおかげで、食事を作ることは100年前と比べると、ずっと時間のかからない仕事になった。食事を作る作業の大部分も市場への支出に含まれるようになったので、今日の食料品代はかなり多いように見える。100年前には、これらの作業の多くは家庭の中に隠れていて、市場での交換を通じて記録に現れることはなかった。多くの場合、今日の米国人はエドワード朝時代の裕福な英国人と同様に、調理人を抱えている。ただし前世紀の奉公人に相当する人たちは家庭の外で仕事をしていて、資本と機械を集中した生産工程を使っているナビスコのような会社で働いている。」


言い換えれば、容易に定義できるサービスや製品はコモディティー化して、ゼロに向かって価格が低下する。コモディティーの定義は、一つには他の品物の基本的な材料であること、また一つには効用が一定不変であることである。商品の単純さや複雑さは、コモディティーであるかどうかの決定的な要因ではない。効用関数が利用に対して一定であれば、その価格はゼロに向かう。1分の電話での音声通話はきわめて高度で技術的に複雑な商品であるが、その効用は一定(1分間の音声による会話)である。したがってそれは急速に無料に向かって進む。

一定でないもの ―そして無料でないもの― は電気通信である。消費者や製造者は、音声の品質を向上させたり、新機能(通話の転送など)を付加したり、今まで電話と組合せることなど考えられなかったあらゆるものを欲しがっている。だから1分間の基本的な音声というコモディティーが無料になっても、あなたの電話料金請求書は高くなる一方である。すべての成功した高級品は、時間が経過するにしたがって、その用途およびそれに依存する他の商品によって規定されるようになる。そうなるとそれはコモディティー化する。

GPSは数年前まで珍しい高級品であった。それは高価だった。その技術は地図サービスや携帯型端末などに広がっていき、それは不可欠なものになった。基本的なサービス(私はどこにいる?)は、コモディティー化して無料になるだろう。しかし、基本サービスは無料に向かって低下しても、従来の機能の他に多くの高度なGPS機能が追加されていく。したがって、位置検索サービスに対して、たいていの人々は、今の価格よりもさらに多くのお金を払うだろう。「私はどこにいる」という情報は無料でどこでも手にはいるようになるが、他の新しいサービスは最初のうちは高価なのだ。

この話が過激すぎるとは誰も思わないだろう。大学1年生の経済学みたいなものだ。しかし、人間が作るものすべて ―物理的かつ物質的な商品、たとえば飛行機や高層ビルなども含めて― がコモディティー化しやすい、それも非常に速く、などと指摘し始めると疑念が生じる。

1998年頃、 "New Rules for the New Economy"(ニューエコノミー勝者の条件)という私の記事が「ワイアード」に掲載された直後、KLMの幹部に講演するためアムステルダムに招かれた。このオランダの航空会社の中間管理職の誰かが私の記事を見て、他の社員も詳しい話を聞くべきだと思ったのだろう。歴史ある欧州の航空会社の人に何を話したらよいのかわからなかったが、その仕事場所はアムステルダムだというので喜んで引き受けた。私の出番は夕食会の後の講演だった。KLM社員たちの予定は、アムステルダムの運河めぐりツアーをして、飲んで、それから私の話だ。無形の経済における新しい無料の動向についてかなりの時間をかけて説明した。私は自分の本から引用して話した。

馬鹿げて聞こえるかもしれないが、遠い将来、ほとんど何もかも(少なくとも一定期間は)無料配布されるようになる。冷蔵庫、スキー、レーザー・プロジェクター、洋服、何でもそうだ。チップとネットワークに深く組み込まれて、ネットワーク・バリューを提供できるようになりさえすれば、その現象が起こる。
(ケビン・ケリー著、酒井泰介訳「ニューエコノミー勝者の条件」より)


そして最後に将来の予測の話をした。KLM社員たちが無料について考えるための、非常に役に立つモデルだと思われる話をした。飛行機の座席を無料にしたらどうなるか。ある航空便に搭乗することが無料になる。あるいは、ほとんど無料になる。または、まるで無料「であるかのように」なる。乗客はその航空便の他のもの全部にお金を払う。食事、手荷物託送、映画、税金、そして、もしかしたら予約にも。予約なしで乗りに来て、荷物は持たず食事は不要でヘッドホンも使わないという人は、空席があれば、税金と空港使用料の負担だけで飛行機に乗ることができるだろう。いずれにしても1マイル当たりの航空輸送コストは無料に向かっている、と私は説明した。彼らはこの考え方に慣れておくべきなのだ。さらに私は言った。この見方は極端すぎると思うかもしれないが、このような価格設定を考えなければならないようになる。きっと競合他社がそれを始めるだろうから。

礼儀正しい拍手があり、その後、銀髪の紳士が親しげに私の肩を抱いて自己紹介した。迫力のある人だった。何も言わないうちから、魅力的で説得力があると感じた。KLMの社長だか会長だか、そういう大物だったはずだが、はっきりとは覚えていない。彼は私の耳にこうささやいた。「お若い先生、これほどばかげた講演は聞いたことがなかったよ。」彼はこのオランダ式のやり方で、本気で言っているのだった。私は感情を抑えた。ばかげたことを言っているつもりはなかったが ―挑発的ではあっても― きっと私の想像力が、最終的には行き過ぎていたのだ。つまり、私の考えがかなり極端に思えたということである。それが本当に起こるという証拠はなかった。たぶん私はカリフォルニアに長く住みすぎていたので、もっと外国の事情を知っておく必要があったのだ。彼の正直な意見に対してできるだけ丁寧に感謝の言葉を述べ、さっさと荷物をまとめて会場を後にした。

しかし、無料の限界を広げようとする私の性癖は、この出会いでは治らなかった。その少し後で、自動車会社の人たちに講演をした。自動車の製造原価は近ごろでは、そのほとんどがシリコンの電子部品やコンピューター・チップ、そして組立作業の労務費が占めていて、実際に車体を作るための鉄鋼やゴムではない。高級品としての付加価値 ―GPSナビゲーション、音響システム、防犯装置、自動制御ブレーキなど― は、すべてシリコンの中にある。自動車は基本的に「車輪のついたチップ」だということになる。自動車も空の旅と同じように、ソフトウェアやデジタル機器がみんな一緒に進んでいる方向、すなわち無料へ向かって進んでいる。基本的機能だけで余分なものが付いていない自動車を無料で配ることを想像してほしい。その自動車を動かすための燃料、保険、点検、修理、その他にもカーナビ、オーディオ、衛星放送などの付属品やアップグレードやサービスをメーカーから買うことを約束した客には、自動車が無料になるのだ。5年間の契約をすると電話会社が無料の携帯電話をくれるというようなものである。こんどは、5年の契約をすれば無料で自動車がもらえるわけだ。もちろん、すべての自動車が無料になるわけではない。しかし少なくとも1台は無料になるだろう。そしてその1台はすべての自動車メーカーの販売競争に見直しを迫ることになる。その講演後に、私に近寄ってきてばかげた話だと言う人はいなかったが、私の構想が当然だと言う人もいなかった。

2〜3週間前に、あるシリコンバレーの企業家が、電気自動車を作るための出資を獲得したと発表した。その電気自動車は、自分の会社から電気を購入した顧客に無料で提供するのだという。この話がうまくいくかどうか楽しみだ。ところで、無料の原理が飛行機に対して有効であるのは周知の通りである。私がKLMで講演してから数年後、ライアンエアーが欧州に嵐を巻き起こした。一部の切符をたったの36ドルで売って、ライアンエアーは欧州内の飛行機の座席が「無料であるかのように」提供した。乗客は実質的に空港税だけを払う。実際には、市内から遠く離れて不便な空港まで行き来するバス代のほうが、国際航空運賃より高いと多くの旅行者は文句を言っている。KLMを含む国営航空会社による昔のような独占体制と比べると、2桁の数の飛行機の座席が「無料」になった。ライアンエアーは1985年に開業したが、業界の破壊者として変身を遂げたのは90年代後半になってからである。サウスウエスト航空に触発されて、また、欧州での航空規制緩和に後押しされて、低価格の大量輸送機関へと改革した。本当の急成長は、予約システムをウェブへと大胆に変更した2000年に始まった。その変更で旅行代理店を経由する場合の費用と時間を省略し、よく移動する若い旅客に直接販売できるようになった。(つい最近まで航空便を予約しようと思えば、旅行代理店に依頼しなければなかったのが嘘みたいだ。)ライアンエアーは「無料」方式をよく理解している。まず最初に、自社の顧客を無給の旅行代理店に変えてしまった。次に、同社は基本的な座席を提供するだけで、その他のものは有料にした。旅客はほぼ無料の座席を得るが、それ以外は無料ではない。来るべき世界を示すかのように、ライアンエアーは2006年から預託手荷物を有料にした。結果として、輸送した旅客マイル数は過去10年間で25%増加した。そしてKLMは?彼らはエールフランスとの合併を余儀なくされた。

ライアンエアーが座席を無料であるかのように提供して成功している一方で、それと同時に特別料金の高級ジェットタクシーが成長著しいことも留意しておく必要がある。商用航空便に支払う額の何倍もの金額で(年間10万ドルにもなるらしい)、小さく窮屈な飛行機で、同じ目的地に自分の予定に合わせて飛ぶというジェットサービスを依頼することができる。個人用ジェット旅行は、今、最も急成長している航空分野である。無料のものが拡大するのと同時に、高額なものも拡大している。

これは重要な問題である。航空機で、携帯電話で、あるいは自動車で提供されているサービスは複数存在する。自動車や航空機において、純粋な移動という側面は商品の一つにすぎない。自動車はAからBへ人を運ぶが、それと同時にプライバシー、速い移動、動くオフィス、娯楽施設、社会的地位、デザインの満足なども提供する。消費者としてはそれらの特質について、無料で手に入れたいものとお金を払って手に入れたいものとの釣り合いを考えればよい。無料で移動できる自動車を手に入れて、カーオーディオとナビゲーションシステムにはお金を払う、とか。あるいは自動車にお金を払って、オーディオとナビゲーションが無料かもしれない。無料の航空便で有料の手荷物、あるいは有料の航空便で無料の手荷物、どちらにする?このような選択ができるということは、消費者が王様になることである。なぜならば、無料が欲しい場面を自分で選んで決めることができるからである。

携帯電話やその他電子機器の無料契約についても同様に考えることができそうだ。無料の携帯電話を手に入れて、通話時間にお金を払う。あるいは、いつかそのうち、高価な有料電話機で通話が無料というものができるかもしれない。あるいは、電話機も通話も無料で、対人的機能や地理的機能が高価なものだったり。

ほとんどすべての製品やサービスは、いろいろな機能の組合せとしてバラ売りすることができる。その場合には組合せの一方が無料であって、他方は高価なままにしておく。カミソリとカミソリの刃、プリンターとインクカートリッジ、銀行と預金口座などはそんな組合せの既存の例である。しかしネットワーク経済の展望として、無料の選択は、今 ―あるいは、もうすぐ― 私たちが想像できるあらゆる分野で得られるようになる。食品、衣料品、薬品、住居、交通、そしてメディアも。「無料なんてあり得ない」分野、たとえば宇宙旅行、医療、不動産などでも、すべて無料の選択が出現するだろう。物体をロケットで軌道へ打ち上げるためのキログラム当たりのコストは、最終的にほとんどゼロ「みたいに」なることに私は喜んで賭けたい。特注の薬1回分あたりの価格もゼロに近づくこと(ただし自分のDNA情報は有料だが)、また、賃貸不動産にも無料の選択が出てくることも保証する。

しかしすべての産業で、そして主要な製品やサービスで、無料の選択(ZPO : zero-price option)が期待されるとはいえ、抱き合わせになる機能に対する価格はまちまちで、たいていは高価になるだろう。どこかで冷蔵庫が無料になったとしても、条件付きの機能(食料品をすべて某食品スーパーで買うとか、電気代を前払いするとか、献立調査に参加するとか)は決して無料にはならない。私はこれを「無料不確定性原理」だと考えている。ある一面の価格をゼロに決定すると、それ以外の面をゼロにすることはできない。一度に同時にゼロにできるのは一つの機能だけである。

はっきりさせておくと、ZPOの普遍性はコモディティーの領域内に存在する。それは消費者のための選択肢の一つである。ZPOがどこでも手に入るわけではない。どこかの特定の会社が何かの機能についてZPOを提示するだけである。

ではグーグルはどうなのか?グーグルの製品は、次から次へとどれも無料である。無料の電子メール、無料のカレンダー、無料の文書作成プログラム、無料のデザインツール、無料の地図、そしてもちろん無料の検索。これは「無料不確定性原理」に反するのか?いや、これらの製品の一つ一つに、それぞれ動機があり無料範囲の設定がある。他の生産者と同じようなビジネスの機会がグーグルにもある。グーグルは無料の商品を提供し、高級なサービスは有料にしている。検索は無料だが、企業向けのカスタム検索は有料である。あるいは、グーグルは顧客としての対象を読者から広告主へと切り替えている。グーグルの目には、検索の主な利用者は広告を掲載して料金を払っている会社であると映っている。あるいは、グーグルはデスクトップ版のような追加機能やサービスを開発し、それを販売しようとしている。少なくともしばらくの間、それらのサービスがコモディティー化するまでの間はそうである。

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無料の選択(ZPO)というのは、以前は非常に珍しかったが、今ではネットーワーク効果によって普遍的になりつつある。前世紀にはZPOは普通は無視されていた。なぜならば、それを実行するために必要な条件が異例で特殊なものだったからである。ZPOはネットワークの能力に呼応して爆発的に拡大し、一夜にして無限に向けて価値が上昇した。ネットワークへの参加者が線形的に増加するとき、ネットワークの価値は指数関数的に増加する。そのためにグラフは無限大へ「向かっているように」見える。参加者の数が多いために、コモディティー化が可能になり、流動的になり、迅速になる。無料へ漸近する曲線と無限大への指数関数的増加は、座標軸が異なるだけで事実上同じものである。この組合せによって生まれたのが、「新しい経済で最も重要な二つの数は、ゼロと無限大だ」というドットコム・ブーム当時の冗談である。ゼロ価格と無限上昇。そこにはいくらかの真実がありそうだ。

もし技術が無料になりたがるとすれば、その衝動はどこから来るのか?各商品を取り巻くテクニウム(訳注:文明としての技術。ケヴィン・ケリーの造語)の内部の通信ネットワークから生まれると私は考える。正統派の経済学の教えるところでは、生産者は価格を最大化しようとするが、競争の結果として「最大を最小化する」ことになる。競争が「完全」になればなるほど、低価格化への推進力は強くなる。過去20年での主な発明は、通信および市場原理についての大幅な改良であり、それは市場の「完全化」を加速した。容易な逆オークション、あちこちにある少額のオークション、値引きの検索、価格調査サイト、決済取引のアウトソーシング、即時の見積もり、常時接続などの革新 ―これらの条件はすべて、製造に関わるシステムから余分なものを全部はぎ取り、そして価格を容赦なく押し下げる。この均一な世界では、無料へ向かう当然の圧力から逃れる避難所はない。

さらに、この通信ネットワークのおかげで、他人から学ぶことがすごい勢いで広まっている。ある物をより効率的に作る方法についてのニュースは、ほとんど瞬時にその発明者からテクニウム全体へと伝わっていく。オンラインの特許情報やリバース・エンジニアリング技法などのツールによって、またその他に労働者の流動性の増大によっても、学習成果を見境なくやりとりすることが容易になっている。さらに、企業の連携や協業を促進する先端技術の出現によって、発明すること、さらにその発明を流通させることがより速くできるようになる。そして、より迅速により深い効果を得るために、次々と低価格への競争圧力が生じる。最後に、ネットワークを容易に作ってすばやく参加者を集められることで、完成品の市場は拡大する。より大量に生産したり消費したりすれば、効率向上と価格低下の学習周期は速くなる。ネットワーク技術のこれら五つの特質 ―完全競争市場、価格の透明性、革新の共有、企業間の協業、市場の拡大― が絶え間なく技術を無料に向かって後押ししている。

しかし、無料への果てしない圧力がある一方で、技術が実際に無料に近づくことを示唆するような、技術に内在するものが何かあるのだろうか?

自然な状態では製造物は高価である、と多くの人が特に根拠もなく考えている。技術は生まれながらに高価で金がかかるもので、絶え間ない努力によって初めて安くなると信じられている。この見方によれば、たしかに、すべてのものは当然に高価であり、天才と汗がなければ高価なままだということになる。常に努力し、有利な法律制度を適用し、技術的に警戒することによってのみ、費用と希少性の水準を自然な姿よりも低くすることができる。そうしないと、商品の価格は自然な高い状態に跳び上がって戻ってしまう。災害や災難がそのシステムを破壊して、あらゆる物が入手不可能な本来の価格に戻るなどということは、あってはならないのだ。

同様の類似点が人間の体にもあって、これは直感的に理解できる。常に一定の食物と妥当な維持管理がなければ、人間の肉体は弱っていき、病気になって死んでしまう。エネルギー的には、細胞組織の詰まった肉体の自然な状態は死である。すべての複雑系と同様に、人間の体も放置すればエントロピーへ、無秩序へ、そして消滅へ滑り落ちる。生命の活性を保つためには、高揚するエネルギー、食物、介護、修理や世話などを絶えず注入する必要がある。

しかしそれが真実だとしても、人間の体の自然な状態は健康だというのも真実である。人間の複雑な生体システムは病気と闘い、死を逃れ、良好な健康状態を追求している。人間の体を構成する多くの複雑な生物組織 ―リンパ腺、神経、消化器、骨格、循環器、頭脳など― これらはすべて協力して働いて、私たちの体をエントロピーの無秩序を越えて自立した状態に保持している。いろいろな意味で、この自立した状態という良好な健康は自然な姿である。 あるいは少なくとも死と同じ程度に自然な状態である。システム全体がこの自立した状態になるような仕組みになっていることは、たしかに生体がエクストロピック・システム(進化し続けるシステム)であることのしるしだ。本質的には、死ではなくて健康こそが人間の本来の姿である。

技術についても同様である。製造物は高価格のエントロピー的(無秩序化する)体制を好むのではなく、無料のエクストロピー的(進化し続ける)世界を好む。いつまでも高価格で希少というのは、不自然で長続きしない。しかし豊富で無料なのは、すべての製造物の理想的な状態である。テクニウムはその力を合わせて、無料という場所に向かって製造物を導いて行く。そこでは製造物が最大の価値を発揮することができる。高価格ではなくて無料こそが、技術の本来の姿である。

無料が持つ自己強化や自己創造という特徴のせいで、技術はこの方向に移動しようとする。この力については、私の経験を紹介すればよくわかってもらえると思う。25年前、検索は非常に高価だった。オンライン検索ではある会社が独占していて、その料金は1時間当たり100ドルに達していた。1981年に、オンライン検索の方法を学ぶために、私は短期講習を受講した。検索はとても高価なので、勇気を持ってログオンする前に、詳細な計画を練っておかなければならなかった。当時の検索利用者たちと同様に私も、時計にあわせて1分ごとにお金が飛んでいく中で検索するのは、神経がすり減って疲れるものだということがわかった。その費用のせいで、たとえば自分の名前とか、昔の同級生とか、つまらないことを調べるような余地はなかった。検索は時間がかかるし、図書館でするように真っ当な検索だけに制限された。検索するたびに多額の費用がかかるので、結局、検索を使って何もできなかった。

その頃と違って、今では検索は無料だ。何でも好きなものをさがすのに検索を使えるだけでなく、無料で豊富な検索機能は、便利なコンテンツ連動型広告や注釈付き地図、信じられないほど便利な買物ツール、その他多数の消費者利益、そして産業全体とまでいかなくてもビジネスに関する何百もの新しい発明の基盤となっている。検索は無料になって制約から解放された。その価格が低下するにつれて、テクニウムのより多くの場所で使えるようになり、その才能が明らかになった。検索が無料に近づいてくると、それが高価なときには使えなかった用途に、さらに、それが高価なときには見えなかった用途に使えるようになった。検索が無料になると、テクニウムの世界では不可欠なものになり、他の技術の能力を解放するのに役立つようになった。また、他の技術が無料に向かうことを推進する要因となった。このように技術は健康と似ているのだ。無料の技術は自己強化と自己創造の循環を通じて、他の技術の無料化を可能にする。

以前、ジョージ・ギルダーは、技術の微細化には自己強化の正帰還ループがあると言っていた。小さな半導体チップは動作時の熱の発生が少なく、そのためより速く動作し、そのため熱がより少なく、そのためより小さくすることができる、これがさらに続く。技術の無料化についても、同様に自己強化の正帰還ループがある。ほとんど無料の商品であれば、それをどんどん使って実験することができ、それによってその商品の新しい種類を開発することができ、それによってその商品が多量で低価格になり、それによってより多くの種類ができ、それによってさらに目新しい機能ができる、これがさらに続く。この循環は技術と商品の間で複合的に作用し、相互に影響する。無料に向かって、また新しい能力と可能性を与える方向に向かって、技術の世界全体に対して止められない勢いをもたらす。

フリーな技術という場合に不思議なことは、無料という意味の「フリー」は、実は余計なものだということである。別のところで私は論じているが(たとえば、2002年のニューヨーク・タイムズ・マガジンで音楽の将来について書いた私の記事を参照されたい。)、「フリー」な音楽の大きな魅力は、お金がかからないというだけではない。フリーな音楽(その他のフリーなもの)の重要性は、フリー(free)という単語の英語でのもう一つの意味である「自由」ということにある。フリーな音楽は海賊行為ではない。フリーなデジタル・ダウンロードによって、音楽愛好者たちはこの音楽を使って、突然、何でも好きなことができるようになった。物が「フリー」になる以前は、いくら望んでも不可能なことであった。デジタル音楽が「フリー」だというのは、視聴者が音楽をアルバムからバラバラに取り出し、試聴し、自分独自の曲目リストを作り、他の作品に埋め込み、愛情を込めて共有し、改作し、色の付いた絵で表現し、変更し、混合し、携帯し、抽出し、新しいアイデアで活性化することを意味する。フリー化によって音楽は流動的になり、他のメディアと「フリー」に相互作用するようになった。この自由という意味においては、「フリー」であることの合法性の疑わしさは二次的なものである。音楽はこのフリー化によって解放され、新しいメディアに生まれ変わったようなものであり、その疑問は重要でない。

技術は無料になりたがる。無料になれば自由も拡大するからである。技術に内在する才能、能力、便益は、それがほとんど無料になって初めて、制約から解放される。この無料への流れは、テクニウムの各種族ごとに存在している制約を解放し、他の多くの種族の技術と可能な限り相互作用し、新しい交配種と大規模なツールの世界を生みだし、人間がより多くの選択と使用上の自由を得られるようになる。技術が発展して豊富で安くなると、その技術にとって最適な居場所、すなわちそれ自身が生き延びられて、しかも他の技術のコモディティー化を支援できるような役割が容易に見つかるだろう。技術が無料に向かうとき、永続するものだけが解放される。それはすなわち選択と可能性だ。





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