訳 :堺屋七左衛門
この文章は Kevin Kelly による "Cloud Culture" の日本語訳である。
クラウドの文化 Cloud Culture
「一つのマシン」(訳注:地球上のネットや通信システム全体)がある一方で、クラウド・コンピューターも多数存在する。それぞれのクラウド・コンピューターは、計算機の集合体が一つの計算機として働くものである。「一つのマシン」はすべてのクラウドが集まった巨大クラウドである。毎日の日課として、いつものようにあなたはネットに接続する。あなたの機器はクラウドへの最初の入口だ。ウェブによるアプリケーションを使って、ウェブ上ですべての仕事をする。よくあるウェブアプリとしては、電子メール、グーグル・ドキュメント、グーグル・カレンダー、フェースブック、フリッカー、その他ソーシャルネットワークサイトなどが提供されている。最も重要なことは、クラウドは目に見えてはならない。自分の音楽や、学期末レポートや、ショッピングカートなどが分散的サーバーファームに保存されていることに気づかれてはならない。情報や活動がすべて手許の入れ物にあるように感じられなければならない。

実際のところ、それは本当に起こっていることらしい。ピュー・インターネットと米国人の生活プロジェクトが最近発表した「クラウド・コンピューティングの利用に関する報告書」」(Pew Internet & American Life Project report on Use of Cloud Computing (PDF))によれば、ほとんどの人は気づいていないようだが、米国のネット利用者の3分の2がクラウド・アプリケーションを使っているという。
米国のネット利用者の69パーセントは、何らかの形でクラウドコンピューティングを使っている。最大の用途はウェブメール(回答者の56%)および個人用の写真保存(34%)である。
私たちの情報行動が今よりずっとクラウドに向かって進むことは想像に難くない。もし全面的にクラウドに移行してしまったら、クラウドでの生活はどのようなものだろう?世間で言われているように、本当に気がつかないうちにこの移行があるとすれば、私たちの行動はどのように変わるだろう?クラウドで人間はどのように変化するだろう?
今のところ、クラウドは利用者のためではなく、主に企業のために作成され運営されている。あるいはもっと正確に言えば、クラウド・コンピューティングの最初の顧客は企業である。ウェブサービスを提供する会社である。クラウド・コンピューティングは、グリッド・コンピューティングとかユーティリティー・プログラミングとも呼ばれている。アプリケーションのプロバイダー、サプライヤー、メーカーなどの小さな業界が出現しつつある。グーグルやアマゾン・ウェブ・サービスなどの有名なクラウドの他にも、グリッドレイヤー、アプタナ・クラウドなどが存在する。アプタナ社のアプタナ・クラウドに関するマーケティングのページに、企業の視点から見たクラウド・コンピューティングについて、かなり役に立つ記述があるので引用してみよう。
ウェブサイトをどこにホスティングするか、ウェブサーバーをどのように設定するか、そして付加サービスをどのように選択するかなどについて心配する必要はありません。クラウドを利用すれば、このような心配や悩みをすべて誰か他人に、さらに言えば、どこか他の場所に押しやることができます。そのすべてをインターネット上で、動的かつ完全な管理の下でお客様に代わって処理します。要するに、バックエンドで必要なすべての技術をお客様に代わって処理するサービスを提供します。電気や電話の料金と同じようなものになるのです。
これが裏側にある仕掛けだ。私たちにとってはどうだろう?クラウドによる文化とは何か?私の予感では(まだ証拠はないが)、ウェブからクラウドへ進んだ結果としては、もともとウェブが始まったときの変化以上のものがありそうな気がする。そこで、クラウド的な世界に広がると思われる文化の動向を探り出してみた。
常に「オン」。常時接続のせいで「オン」が見えなくなった。接続しているのが通常の状態になったので、接続するために何かする必要がない。空気のようなものだ。行動経済学者が示すとおり、通常の状態というものは著しい効果を生じる。「オン」が通常であるために、あらゆるものが接続されていて、しかも常に「オン」であるという感覚を持つようになった。すべてのエージェントが常にオンであると思うようになった。すべてのサービスが常に利用可能になった。あらゆるものについて、1日24時間、週7日へ向かう流れが続いている。常にオンになっていないものは(一部の例外を除いて)不利である。常にオンというのは、私たちの生活が記録され、分析され、要約され、そして「オン」になっているということだ。クラウドが常にオンであればあるほど、私たちの自己はクラウドの中にのめり込んでいく。
何でもある。世の中の多くの物がそこに存在するようになるので、クラウドにある物とない物の区別が消滅する。最初のうちは、クラウドとはサーバーのクラウドであるが、次にサーバーとすべてのノートパソコンのクラウドになり、次にはそこにすべての携帯電話が加わり、次にすべてのテレビも含まれるようになる。クラウドが発展すると「ネットワーク効果」が働いて、さらに多くの装置、多くのセンサー、多くのチップを巻き込んでさらに魅力的になっていく。クラウドにあらゆる種類ものが存在するようになるまで、その拡大が続く。カメラやマイク、その他データを生成するものは、何でもクラウドに移行していく。したがってクラウドは、何か欲しいものがあるとき最初に訪れるべき場所になる。いつもそこで見つけられるとは限らないが、必ずそこが出発点になるだろう。
もっと賢く。クラウドは今のウェブより賢いとは限らないが、そうなる可能性は高い。ウェブはハイパーリンクされた文書の集まりだと考えることができる。そして、クラウドはハイパーリンクされたデータの集まりだと考えることができる。究極的には、何かをクラウドに置く第一の理由は、そのデータを深く共有するためである。手軽なバックアップのためでもなく、いつでも読み書きできるためでもない。クラウドでそういうことも可能ではあるが、それだけでなく、双方向性のある部品とデータを組合せて、各要素がもしかして単独で存在するときよりも、ずっと賢くて強力にするためである。クラウドとは、データや行動の基本的な見方を共有する道具、それも、より賢くなるように共有する道具だと考えても誇張し過ぎではない。クラウドは、言ってみれば「巣の集合精神」による道具である。
切り離せない依存。「常にオン」に加えて優れた性能があるせいで、私たち人間の側では、この上ない依存性を持つようになるだろう。奇妙なパラドックス(逆説)がある。計算機が持ち上げられないほどの重さであるので、周辺装置は人間の身体の近くに置かれる。また、計算が見えないクラウドの中で起こるので、それによって装置はさらに心理的に人間に近づく。装置が賢くなると、より親しく感じられる。私の友人は、10代の子どもがひどい約束違反をしたので外出禁止にした。子どもの携帯電話を取り上げた。あきれたことに、子どもは病気になってしまった。まるで手足を切断したかのような具合だった。まあ、ある意味では切断したのも同然だ。それで私は「黄金の羅針盤」(The Golden Compass) という本と映画のことを思い出した。その話の世界では、子どもたちには霊的な保護者としてデーモンという生き物がついている。この実体のない生き物は子どもの肩にのっているか、あるいは近くに浮いているかして、子どもに助言したり、慰めたりする。この世界での最も恐ろしい拷問は、デーモンと引き離されることだ。未来には、クラウドやクラウドの知性が私たちにとって、「黄金の羅針盤」のデーモンになっているだろう。クラウドによって得られる助言と慰めから引き離されることは、恐ろしくて耐え難いことだろう。
きわめて高い信頼性。いかなる機械も(そして身体も)完全ではない。しかしクラウドは、あなたが使っている単独のコンピューターよりも信頼性が高い。クラウドが故障で停止する事故件数は、その稼働時間の累計を考えるとかなり少ない。Cloud Computing Incident Database(クラウド・コンピューティング事故データベース)によると、2008年に11件の事故報告があった。非常に安定している私のMac(マック)でも、今年のうちにそれ以上の回数のフリーズがあった。クラウドの信頼性の数値が示すものは、クラウドがバックアップと見られるようになってきたということだ。人生のバックアップ。オフラインで、重要な物のコピーをどんなに多く持っていたとしても、それをオンラインに、すなわちクラウドに置くまでは安心できない。クラウドにあるというだけでは安心できないかもしれないが、クラウドの信頼性は私たち自身の信頼性よりも優れていように思われる。ウィキペディアの信頼性についての世論は、信用がどこに存在するかについての私たちの態度を変えつつある。クラウドのある生活では、いずれか一つの情報源よりも、すべての情報源の集合を信用するようになるかもしれない。
自己の拡張。私の持ち物はどこにあるのだろう?自分の発言をさがすのに、グーグルで自分のメールを検索するとしたら、すなわち自分の記憶についてクラウドに依存するとしたら、どこまでが「私」で、どこからがクラウドなのか?私の人生におけるすべての画像、すべての興味の断片、すべてのメモ、すべての雑談、すべての選択、すべての推薦、すべての考え、すべての願望 ―もしこれらすべてがどこかにあるならば ―しかし具体的にはどこかわからない― それは私の自分自身に対する考え方を変えるだろう。それがなくなったとしたらどうなるか?あちこちに分散した私の特徴がなくなるだろう。マクルーハンが言ったこと、すわなち道具は私たち自身の拡張である ―車輪は足の拡張、カメラは目の拡張― という説がもし正しいとすれば、クラウドは人間の魂の拡張である。あるいは、そう言ってよければ、人間自身の拡張である。
法律上の紛争。著作権に関する争いなどは、クラウドでの生活で発生する法的紛争と比べれば大したことではない。誰の法律が優先するのか?あなたの居住地の法律なのか、サーバーの所在地の法律なのか、国際回線交換をする場所の法律か?その仕事がすべてクラウドで行われるならば、税金は誰が徴収するのか?異なる法制度ごとに存在する明らかな断絶は、クラウドの発展にとって脅威である。このような摩擦は、複数のクラウドの発達をも促すだろう。さまざまな法体制ごとに別のクラウドが存在するとしたら、それは全世界レベルでは競争的関係にあっても、地理的地域ごとに見れば、各地域内ではほとんど選択の余地がないことになる。しかし法律上の問題は、国同士の間だけではない。そのデータは誰のものだろう。自分か、クラウドか?あなたの電子メールや電話がすべてクラウドを経由するとしたら、その内容に誰が責任を持つのか?クラウドとの新しい親密な関係の中で、中途半端な考えや奇妙な妄想などを思いついたとき、それはあなたが本当に信じていることとは別に扱うべきなのか?常にオン、すべてがクラウドという時代にあって、正義と公正に携わる政府の行為の権利(および義務)はどのようなものか?
プライバシーの共有。プライバシーは終わった。正確に言うと、私たちが考えるようなプライバシーは終わった。自己の拡張のせいで、人間に必要な親密さのレベルを扱うのには、従来とは異なる方策が求められる。人間の関係を表す方法は、公と私、あるいは友人と非友人というような二区分ではなく、より微妙でより複雑にならざるを得ない。中国人は、いとこについて、その類型ごとにそれぞれ別の呼び方をする(自分より年下、自分より年上、母の兄の息子、父の姉の息子、など)。私たちが知っているエージェント(媒介物)、以前知っていたエージェント、知らないことがわかっているエージェント、などについて、クラウドはそれぞれ異なる関係を発生させる。共有はクラウドの基本的な動作である。ある種の共有は、以前私たちがプライバシーと呼んでいたものに似た形になるだろう。クラウドを共有してあらゆることができるようになって、しかもそれと同時に、共有の概念や能力を進化させずに従来のままでいることは不可能である。
社会主義2.0。クラウドは集合的である。ソーシャルメディアはある種の社会主義である。オープンソースソフトウェアプロジェクトは、一種の共産主義的な仕組みである。医療記録を共有したり("Patients Like Me")、個人の遺伝子情報を共有したり("23andme")、家族の写真アルバムを共有したりするとき、その人は共同体を養っているのだ。なぜならば、データを共有することで商品の価値が増加するからである。ウィキペディアやリナックスそしてウェブ全般の成功は、集団の力に偏見のない世代を生みつつある。しかし古い社会主義モデルやトップダウンの共産主義ソーシャルメディアなどと違って、個人が均質化することを強要されてはいない。そのかわりに、この社会主義2.0の出現にあたって、個人は(誰でも百科事典を編集できる!)集団の力によって解放されている。今現在のこの動きについて、うまく言い表す言葉がない。そこで社会主義というような非常に重い文化的な荷物を持った言葉を使い続けている。それはそれとして、集合的なクラウドの世界で生きることは、集団の力の地位を高めていくだろう。
他にもいろいろあるはずだ。私が言及しなかったことで、思いつくことがあれば、コメントまたは電子メールで知らせてほしい。
この作品は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。