2009年02月13日

「技術の均一化」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "Consequences of Technological Convergence" の日本語訳である。



技術の均一化  Consequences of Technological Convergence

思考実験をしてみよう。私があなたを2009年の地球上のどこかの都市に念力で移動させたとする。技術的なインフラストラクチャーだけを見て ――言語や文字なしで―― どの都市にいるかを知るためには、かなりの困難があるだろう。文化が違っていても、たいていの場合、都市化のためにはみんな同じ技術を採用しているので、どこの場所も同じように見える。今日の世界の若者たち(地球上の人口の大部分であり、都市の主要な住民である)は、みんな似通った服装をして、同じ道具や機器を使い、同じ音楽や映画の流行を追い、同じ教育方法によって同じことを学んでいる。若者が好む生活様式はどこでも共通である。

すべての文明は、全世界がだいたい一つの系統の技術に向かって収束しつつある。

今までは必ずしもそうではなかった。そう遠くない昔には、中国のどこかの都市で使われている技術はフランスのそれとはかなり異なっていた。マリ共和国とも、リマとも異なっていた。さらに中世には、建物の設計、熱の発生、食品の処理、衣服の製作、通信の伝達などの方法は世界各地でまったく異なっていた。しかも、どの都市の、あるいはどの国の技術が、他より優れているとは決めにくい状況だった。ただ異なっているだけであった。

今日では技術が均一化してきて、都市生活を構築する方法は世界中でほとんど同じになっている。ある場所が他と比べて「進んでいる」とか「遅れている」と思うようになった。カリフォルニアは太陽光利用で進んでいるとか、米国は通信回線の速度で遅れているとか。あるいはアフリカの携帯電話の利用は急激に進歩していると言ったりする。技術的進歩の大きな流れの中で、特定の国が少し脇道にそれることはあるが、全体としては一つの方向に向かっている。

この現代の文化的な均一性に対する例外がいくつかある。世界のところどころで、特定の技術について独自の文化的な傾向がある。たとえば次のようなものである。

・日本での携帯電話の使われ方は、西洋諸国とは異なっている。

・ブラジルでの高度に進歩したエタノール燃料利用体制は独特である。

・韓国における通信回線の整備状況は、著しく進んでいる。

・南アジアおよび東南アジアでのスクーター大流行は、他にほとんど例がない。

・中国では薬草による医学が西洋医学と併用されている。

これらの例を見れば、現代においても技術は文化的な特色を持ちうることがわかる。これが意味するところとして、三つの解釈が考えられる。

(1) 先進的技術も、従来の技術と同じパターンをたどる。現代の技術には有機的で著しい柔軟性(原子ではなく理性に支配されている)があり、技術が進歩する過程は、従来と同じようにさまざまに多様化していく。上述のような初期的な小さな変化の延長線上に、文化ごとに異なった、今後の百年間に勃興するはずの技術を想像することができる。たとえば、日本の技術、イスラムの技術、ブラジルの技術といった具合に。

(2) あるいは、上述の例は重要でない小さな変動だという考えもある。それは孤立した繁栄にすぎない。面白くて便利だが、深く根付いたものではなく決定的ではない。ブラジルで、国全体にわたってエタノールによる代替燃料システムを構築しているという事実は、文化による選択ではなく、偶然に起こった便宜的なものである。百年ほど昔のブラジルには、大規模な砂糖農園(奴隷労働による)があって、それで砂糖が安かった。十分に安いので、それを発酵させて燃料にした。1927年という早い時期に、すでにブラジルでは砂糖から作ったエタノールが自動車の燃料になっていたのである。1938年までに砂糖によるエタノールは自動車燃料の5%を占めていて、さらに第二次世界大戦中には42%に達した。ブラジルではその技術が実証されていたために、ガソリン価格が上昇すると、自国製燃料の割合を増やしていったのである。エタノール自体がとくに「ブラジル的」なわけではない。同様のことが日本での携帯電話利用にも言える。個人的な空間がない国において、携帯電話は公共空間の中で「個人的」になる手段を提供した。携帯電話がとくに「日本的」なのではない。他の文化の一部でも、たとえば米国の十代の若者たちは同じような電話の使い方をしている。中国の薬草による医学は、西洋医学に出会う以前の長くて貴重な時代を通じて発展してきた。この方法は中国特有のように思えるかもしれないが、その考え方の多くは急速に現代医学にも取り入れられている。したがって、この技術は中国に関心のない患者にも使われるようになるだろう。別の言い方をすれば、中国だけが主導権をとる必要はない。この解釈によれば、常にいくつかの表面的な流行があるだろうが、長期にわたるものや重要なものはないということである。

(3) 上述のようなわずかな相違は、テクニウム(文明としての技術)の強大な均一性によって圧倒される。上記の五つの例は、技術が均一化して地球規模の利用へ向かう過程に見られる、民族的な技術表現の最後の名残である。民族の違いは創造性の源泉であり、変革の推進力であり続けるだろうが、何でも本当に良いものであれば、急速に世界全体に広まるだろう。

私の直感では、私たちは2と3の中間の進路に向かって進んでいると思う。ほとんどの場合について、技術は世界中が同一の利用形態に均一化するだろうが、時折、ある集団あるいは集団の一部が、少しだけ魅力的な新種の技術や技法を考案して完成させることはありそうだ。しかし、その集団が枝分かれを維持して孤立したままで、さらなる変革を生み続けることはないだろう。国際社会が優位を保ち圧力をかけるせいで、新技術が成功して世界標準となることを妨げるからである。(ここで言う技術の均一化は、テレビ、映画、本、インターネットなど、メディア中心の技術が融合するという話と混同してはならない。それはそれでたぶん起こるのだろうが。)

ある意味では、これは技術の問題というよりもグローバル化の問題だが、この両者が一致する点もある。マーケティング、会計、文化の要請、社会の期待や地位などがすべてグローバル化するとすれば、技術もそれと同じことである。

もしそうならば、この考察から四つの重要な予想が得られる。

第一に、世界中の技術革新が一つの流れに均一化するならば、ある地域はその流れに対して遅れているとか進んでいるとかいう考え方が強まってくる。そうすると、技術は生物の発達順序に似てくる。子供の身長と同じように、ある対象の発達が基準より進んでいたり、基準より遅れていたりする。基準から外れているという意識のために、その「遅れている」者に対しては、遅れを取り戻す圧力がさらに増すだろう。世界中が追いついてくれば、その状態を持続する圧力が増加し、発展はますます世界中で均一になるだろう。このように、世界的な技術の均一化は自己増強性がある。

第二に、技術革新が発達に似た順序で発生するということは、技術の発達が決定論的であるということを示唆する(証明されたわけではない)。発達の過程が一つしかないとすれば、その一つの過程は必然であるように見られがちである。均一な過程をたどることが決定論的だとは限らないが、やはりそのように感じてしまう。したがって、それが必然で不可避な技術だという考え方を容易に受け入れるようになる。

第三に、均一な技術発達の順序があるということは、可能性のある技術を(それと気づかずに)抑圧するだろう。なぜならば、それが有効なものであったとしても、決まった過程に適合しないからである。民族ごとに異種がありうる場合と比べて、異端的な考えや技術(ここでは、おそらく有効であるけれども、基準に合致しないものをいう)が発達したり深化したりする余地は少なそうだ。技術の均一化は、急速に異端的技術を排除し、異説が今よりもひどい扱いを受けるようになるだろう。本当に代案となる技術、たとえばより優れたインターネットのアドレスシステム、ハイパーリンクのかわりになる技術、ネットワーク構成の枠組みなどを考えることさえも不可能になる。

第四に、均一化を企てる力に対する強い対抗力はなさそうである。したがって、均一化は時間とともにより強化されると思われる。たぶん百年か二百年もすれば、技術の発達状況は世界中であまり変わらなくなるだろう。この意味でウィリアム・ギブソンの言葉を言い換えると「未来は均等に分配されている」ことになる。この均一性の結果として、いま地域ごとにある変種は、おそらく今後は個人ごとの変種になると思う。ある世界標準の技術があまりにも傑出すると、人々はそれを自重したり断念したりすることがあるだろう。(ネオ・アーミッシュに関する投稿(邦訳)を参照されたい) 彼らは未来を自分で再分配している。しかし、彼らはその「再分配」について、アーミッシュと同様に、それは世界規模の均一化の大海の中での個人的選択だと考えるだろう。あらゆる人がすべての技術を(しかも全く同じ技術を)利用できるとして、そのすべてを使う時間がある人はいない。そうすると向かう方向はただ一つ、テクニウムの中で自分の個人的な一部分だけを取り出す、すなわち「分配する」ことになるだろう。このようにして、世界の文化は技術の均一化に向かって進むのに対して、何十億人もの技術の利用者は個人的選択に分化して、可能な技術の中から小さな、そして、より特異な選択に向かって進んでいく。あなたの独自性は、あなたが何を使わないかということで示されるようになる。





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posted by 七左衛門 at 00:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳    
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