2009年03月14日

「アーミッシュのハッカーたち」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "Amish Hackers" の日本語訳である。



アーミッシュのハッカーたち  Amish Hackers

アーミッシュは技術反対論者、すなわち新しい技術の利用を拒否する人たちだという不当な評判がある。よく知られているように、アーミッシュの中でも最も厳格な人たちは、電気や自動車を使わず、手動の道具や馬と馬車を使って農耕をしている。新しい技術を採用することの利点に関する議論では、アーミッシュはそれを拒否するという立派な選択肢を示して、目立つ存在となっている。でもアーミッシュの生活は決して反技術的ではない。実際に私は何度か彼らを訪問してみてわかったのだが、アーミッシュは器用なハッカーあるいは機械職人であり、優秀な製造者であり自作愛好者であり、驚くべき専門的技術を持っている。

第一に、アーミッシュは一枚岩の集団だというわけではない。彼らの習慣は教区ごとにそれぞれ異なっている。オハイオ州のある集団が行っていることが、ニューヨーク州の別の教会では許されなかったり、あるいはアイオワ州のある教区ではもっと奨励されていたりするかもしれない。第二に、アーミッシュと技術との関係は一様ではない。よく調べてみると多くのアーミッシュは、古いものと非常に新しいものを混在させて利用している。第三に、アーミッシュの習慣は根本的には宗教的信念に基づくものであって、技術、環境、社会、文化などに関する結果は副次的である。彼らのやり方には論理的な理由がないことも多い。最後に、アーミッシュの習慣は時代とともに変化している。今この瞬間にも、彼ら自身の速度で世界の変化に適応しつつある。アーミッシュが時代遅れの反機械主義だという見方は、いろいろな意味で都市伝説なのだ。

あらゆる伝説と同じように、アーミッシュの神話もいくらかの事実に基づいている。アーミッシュ、とくに旧派アーミッシュ(カレンダーの写真にあるような典型的なアーミッシュ)は、新しい物を導入するのに時間がかかる。現代の社会では、新しい物にまず賛成するのが標準になっているが、旧派アーミッシュの社会では、まず拒否するのが標準なのである。新しい物がやって来ると、アーミッシュは自動的に拒否するところから始める。それで多くの旧派アーミッシュは、自動車が新しい物であった時に確立した方針のまま、自動車を決して受け入れない。そのかわりに、馬に曳かれた馬車であちこち移動する。ある教団では、馬車は屋根なしの開放型であることを要求する(その乗り手、たとえば十代の若者が内緒の場所で遊び回る誘惑がないように)。別のところでは、屋根付き馬車も認めている。ある教団では、トラクターを農場で使うことを許している。ただし車輪は鋼鉄製という条件がある。これはトラクターで自動車みたいに道路を走るというインチキを防ぐためである。ある集団では、農民が刈取機や脱穀機にディーゼルエンジンの動力を使うことを認めている。ただし、エンジンは脱穀装置だけを動かすものであって、脱穀機を自動推進してはならない。だから、煙を吐いて騒音をたてる機械全体を馬が牽引している。ある教派では自動車を認めている。ただし、車体全部が黒に塗られていなければならない(クロムメッキは不可)。最新モデルに買い換えたいという誘惑を軽減するためである。

これらの差異の背景には、アーミッシュの地域社会を強固なものにしたいという動機がある。前世紀の変わり目の頃に自動車が初めて登場したとき、アーミッシュは気がついた。自動車を運転する人は、地元で買物したり、日曜日に友人や家族に会ったり、病人を訪問したりするかわりに、地元を離れて、買物や観光のため他の町へ出て行こうとする。したがって、遠くへ行くことを困難にして、地域社会に精力を集中させるという目的のために、際限のない自由な移動を禁止したのである。ある教団はこのことを他の教団よりもさらに厳しく実施している。

旧派アーミッシュが電気を使わずに生活するのも、これと同様に地域社会のための動機がある。町の発電所から電線を引いて家が電化されたとしたら、自分たちも町のリズム、町のやり方、町の関心事につながれてしまうことにアーミッシュは気づいたからである。アーミッシュの宗教的信念は、自分たちは「世界」の中にいるが世界には属さないということを基盤としている。したがって、できる限りの方法で世界とは離れていなければならない。電気につながるということは、世界につながることだ。だから、アーミッシュは世界から離れているために、その便利さを放棄した。今日でも、多くのアーミッシュの家庭では、電線が家に引き込まれていない。彼らは配電網から離れて生活している。

電気も自動車もない生活は、現代にあるはずの多くのものを排除している。電気がないということは、インターネットもテレビも電話もない。したがってアーミッシュの生活は、私たちの複雑な現代の生活とは著しく対照的である。

しかしアーミッシュの農場を訪れてみると、その素朴さは消滅する。いや、農場に着く前から素朴さは消えている。自動車で道路を進んでいくと、麦わら帽子をかぶってズボンつりを付けたアーミッシュの子どもが、ローラーブレードで疾走しているのが見えるだろう。ある学校の前では、キックボードが何台も止めてあるのを見つけた。つまり、それで子どもたちが学校に来たということである。流行のレーザー社製ではなくて、アーミッシュ風のがっしりとした機種だが。その道路には汚れたミニバンがひっきりなしに走っていて、次々と学校の前を通り過ぎていく。それぞれの車の後部座席には、あごひげをはやしたアーミッシュの男たちがたくさん乗っている。これは何なのだろう?

どうやらアーミッシュは何かを利用することと所有することを区別しているのだ。旧派アーミッシュは、トラックを所有することはないが、それに乗ることはある。免許を取ったり、自動車を買ったり、保険料を払ったり、自動車や自動車産業に依存したりはしないが、タクシーを利用することはある。アーミッシュの男の人数は農場の数より多いので、小さな工場で働く人も大勢いる。彼らは外部の人が運転するミニバンを雇って通勤している。というわけで馬と馬車の民でも、独自の条件のもとで自動車を使うのである。(それは非常に倹約的でもある。)

また、アーミッシュは職場での技術利用と家庭での技術利用を区別している。ペンシルベニア州ランカスターの近くで木工所を経営しているアーミッシュの男を以前訪問したときのことを思い出した。暗い建物内部の大部分は窓から自然の光を取り入れていたが、雑然とした部屋にある木製の会議机の真上に一つだけ電球がぶら下がっていた。私がそれをじっと見ているのに気づいた主人は、私が彼の方を向いたとき、肩をすくめて「それはあなたみたいな訪問客のためにつけてある。」と言った。

しかし、大きな木工所のそれ以外の場所には裸電球以上の電気はないけれども、動力機械がないというわけではない。耳が痛いほどの騒音を出しながら動力研磨機、動力のこぎり、動力かんな、動力ドリルなどが動いていて、建物は揺れている。その作業場のあちこちで、ひげの男たちがおがくずまみれになりながら、機械に木材を押し込んでいた。これは手作業で名作を作っているルネッサンスの職人集団ではない。動力機械で木製家具を大量生産する、ちょっとした工場である。しかし、その動力はどこから来るのか?その源は風車ではない。

親方のエイモス(本名ではない。アーミッシュは目立ちたくないのだ。)に案内されて建物の裏に行くと、そこには巨大なダンプカーくらいのディーゼルエンジンがあった。大規模なものだ。エンジンのほかに非常に大きなタンクがあり、それは圧縮空気を貯めるものだと言う。ディーゼルエンジンが燃料を燃やして圧縮機を駆動し、圧縮機がタンクに圧縮空気を注入する。タンクからは高圧配管が工場の隅々まで延びている。配管の先には丈夫で曲げやすいゴムホースがそれぞれの工具につながっている。工場全体が圧縮空気を動力源としている。各機械は空気圧で動いている。エイモスは空圧スイッチも見せてくれた。電灯のスイッチと同じようにパチンと入れれば、塗料乾燥用の送風機が動き出す。

アーミッシュはこの空圧システムを「アーミッシュの電気」と呼んでいる。最初は、空圧はアーミッシュの作業場のための工夫であったが、非常に便利なのでアーミッシュの家庭にも空圧が取り入れられるようになった。実際に、道具や器具を「アーミッシュの電気」用に改造することを全くの家内工業で行っている業者がいる。改造業者は、たとえば、頑丈なミキサーを買ってきて、電気モーターを抜き取る。そしてそのかわりに適当な寸法の空圧モーターと空圧コネクタを取り付ければ、完成!アーミッシュのお母さんは、電気なしの台所でもミキサーが使えるようになる。空圧のミシン、空圧の食器洗い乾燥機(プロパンガスの熱による)などもある。本物のスチームパンクのオタクさ加減を示すために、アーミッシュのハッカーたちは電気器具の空圧版製作を競い合っている。みんな中学2年までしか教育を受けていないのに、彼らの機械に関する技能はまったく素晴らしい。空気圧オタクの能力を誇示したがっている。私が会った機械職人は誰もが、空圧のほうが電気より優れていると言う。空圧機器は力が強いし、丈夫だし、何年か酷使すると焼けてしまう電気モーターより長持ちするからだそうだ。それが本当かどうか、あるいは言い訳にすぎないのか、私にはわからないが、とにかくみんなが何度もそう言っていた。

厳格なメノナイト(メノー派の信者) が経営する改造工場を訪問した。マーリンは背が低くてひげをはやしていない男だ(メノナイトはあごひげをはやさない)。馬と馬車を使うが、電話は持っていない。自宅の裏にある作業場には電気を引いている。空圧部品を作るのに電気を使っている。この地域の多くの人たちと同様に、彼の子どもたちは彼と一緒に働いている。何人かいる男の子は、プロパンの動力で金属車輪のフォークリフト(ゴム車輪でないのは、道路を走れないようにするため)を使って、重い金属の山を運んで走り回っている。空圧モーターや、アーミッシュが愛用する灯油の調理用コンロのために、精密に機械加工した金属部品を作っている。要求される加工精度は1000分の1インチである。そのために、何年か前には、40万ドルもする巨大なCNC(数値制御)フライス盤を買って、裏庭の馬小屋の後ろに据え付けた。この大規模で巨額の機械は、配達用トラックほどの大きさである。これを彼の14歳の娘がボンネット帽子をかぶって操作している。その女の子は計算機で制御する機械を使って、電気がなくて馬と馬車による生活のための部品を作っている。

アーミッシュの家に「電気がない」とは言えない。私は次々と電気を見つけることができた。物置の後ろで巨大なディーゼル発電機を動かして、牛乳(アーミッシュの主要な換金作物)を保存するための冷蔵装置に電気を供給していれば、小さな電気冷蔵庫を我慢するなんてどうでもよくなる。そして、たとえば充電式の電池もある。電池で動作する計算機、懐中電灯、電気柵、発電機による電気溶接機などがアーミッシュの農場で使われている。アーミッシュは電池で動作するラジオや電話を(家の外の物置や作業場で)使っている。あるいは法令で必要な馬車の前照灯や方向指示器にも電池を使う。頭の良いアーミッシュの友人が30分もかけて説明してくれたのだが、自動車でそうなっているのと同じように、馬車が曲がり終わったら方向指示器が自動的に元に戻るという巧妙なしくみを作ったそうだ。

今日では、太陽光発電パネルがアーミッシュに普及してきた。太陽電池があれば、電気を得るのに配電網に接続する必要がない。それがアーミッシュの一番の心配だったのだ。太陽電池は、最初は水くみポンプのような雑用に使っていたが、ゆっくりと家庭の中に忍び込んできている。多くの新技術がそうであるのと同様に。

アーミッシュは使い捨ておむつを使う(当然だ)。化学肥料や農薬も使っている。そして、遺伝子組換えトウモロコシの重要な推進者でもある。これはヨーロッパでは「フランケン食品」と呼ばれているものだ。アーミッシュの長老たちに、このことについて尋ねてみた。なぜ遺伝子組換え作物を栽培するのか?その答えはこうだった。トウモロコシは茎の根もとをかじる害虫の被害を受けやすい。時には茎ごと倒れることもある。最新の500馬力の収穫機では、この倒伏がわからない。ただ単にあらゆるものを吸い込んで、トウモロコシを箱に吐き出すだけだ。アーミッシュはトウモロコシを半手動で収穫している。切断装置で切り取ってから、脱穀機に投入する。しかしここで茎の破片が多く混ざっていたら、手でより分けなければならない。これは面倒で汗まみれになる重労働である。だからアーミッシュはBtトウモロコシを栽培している。この遺伝子組換え作物は、害虫の敵であるバチルス・チューリンゲンシスの遺伝子を持っている。それにはトウモロコシの害虫に対する致死毒性がある。混ざっている茎が少なくなれば、収穫を半自動化できて生産量も増加する。息子が農場を経営しているというアーミッシュの老人は、Btトウモロコシを栽培しているからこそ、息子たちの収穫を手伝うことができるのだと言っていた。老人はもう年だから、重いトウモロコシの茎を放り投げたりすることはできないと息子たちには言っているそうだ。他の選択肢は、高価な最新式収穫設備を購入することだ。でも、誰もそんなものを買いたくない。だから、遺伝子組換え作物があれば、アーミッシュは古くて、実績があって、借金する必要のない設備を使い続けることができる。そしてそれによって、家族がみんな一緒に農業を続けられる。アーミッシュが直接そう言ったわけではないが、遺伝子組換え作物は家族経営の農業に最適な技術だと彼らは考えているのである。

人工授精、太陽光発電、ウェブなどの技術については、アーミッシュの間でも論争が続いている。彼らは図書館でウェブを利用している(所有ではなく利用だ)。公共の図書館の利用区画から、アーミッシュが事業のためのウェブサイトを作ったりすることもある。だから、アーミッシュのウェブサイトなんて冗談みたいに聞こえるが、かなりの数のウェブサイトが存在する。クレジットカードのような、ポストモダンの新手法についてはどうだろう?クレジットカードを持つアーミッシュもいる。おそらく最初は仕事用だったのだろう。しかし、やがて宗教指導者たちは、お金の使いすぎと、その結果として利子による破滅という問題に気づいた。農民が借金漬けになり、家族がそれを助けなければならないので(それが社会と家族の役目だから)、本人だけでなく地域社会にも影響を及ぼすようになった。そこで試行期間のあと、長老はクレジットカードの禁止を決定した。

あるアーミッシュの男は、電話やポケットベルやPDA(そう、彼はそんな物も知っている)の問題は、「会話でなく、通報を受け取るだけ」であることだと言っていた。これはまさに私たちの時代の正確な縮図を示している。長く白いあごひげと、それに対照的な若く明るい目の、ヘンリーは私にこう言った。「もし私がテレビを持っていたら、きっと見るだろうね。」これ以上単純な話があるだろうか?

しかし漠然とした決断では、アーミッシュが携帯電話を受け入れるかどうかの問題だけで終わらせることはできない。すでにアーミッシュは、住宅へ通じる私道の端に小屋を建てて、隣人たちと共有の留守番電話を置いている。小屋は電話の利用者を雨や風から守り、また自宅を通信網の電線から隔離しておくことができる。しかし、戸外を歩いて行かなければならないので、うわさ話や雑談ではなくて、本当に必要な通話だけに利用するようになっている。携帯電話は新しい仕掛けだ。電話線のない電話である。電線で世界につなぎとめられなくても、仕事上の電話をすることができる。あるアーミッシュの男は私に言った。「自家用電話ボックスの中でコードレス電話を使うのと、電話ボックスの外で携帯電話を使うのと、何が違う?何も違いはない。」さらに、携帯電話は女性たちに愛用されている。アーミッシュは自動車を運転しないので、遠くに住む家族と連絡を取るためである。しかし宗教指導者たちは、携帯電話が小さいので人に気づかれずに持つことができるということに注目している。それは個人主義を阻止しようとする人々にとっての心配事である。10年前に私が「ワイヤード」の編集長だったとき、アーミッシュの携帯電話に対する見解について、ハワード・ラインゴールドに調べてもらった。1999年1月に発行した彼の報告では、アーミッシュの携帯電話に対する態度は、まだどちらとも決まっていないことが明らかになった。10年後の今でも、アーミッシュはまだはっきりとは決めていないし、まだ試行錯誤しているところである。アーミッシュは、技術が自分たちの役に立つかどうかを見極めようとしている。予防の原則、すなわち無害であることが検証できるまで新しい技術を使わない、というのではなく、有害であることが検証できるまでは、アーミッシュの先駆者たちが熱心に試用するのを待っている。

通信網から離れていて、テレビもインターネットも本もないのに、アーミッシュは不思議に情報に通じている。彼らが知らなくて私が教えてあげるようなことはごくわずかであるし、彼らはすでにそれについて意見を持っているのである。そして驚くべきことに、その教会で一人も試用したことがないような、全く新しい物はほとんどない。よくある導入の形態は次のようなものである。

イヴァンはアーミッシュのアルファギークである。彼は新しい機器や技術をいつも最初に試してみる。彼は新しいフロービット変調器が本当に役に立つということを理解している。どうすればそれがアーミッシュの方針に適合するかという理由を考え出す。それから宗教指導者の所へ行って提案する。「これを試してみたい。」指導者はイヴァンに言う。「よろしい。これについてお前のしたいことを何でもして良い。ただし、これが役に立たない、あるいは他人に害を与えるという決定がなされたら、それをやめる覚悟をしておきなさい。」こうしてイヴァンはその技術を使い始める。隣人や家族や宗教指導者は、それを熱心に見守っている。彼らはその利点と欠点をはかりにかける。それが社会にどんな影響を与えるか?アーミッシュの携帯電話利用はこのようにして始まった。携帯電話についてこんな逸話がある。最初に携帯電話の使用許可を求めたアーミッシュのアルファギークは、請負業者でもある二人の聖職者だったという。宗教指導者は許可を与えるのをためらったが、妥協策を提案した。携帯電話は運転手付の自動車の中に置いておくように。自動車は移動する電話小屋というわけだ。そうすれば、社会がその業者を見守っている。これはうまくいきそうに思えたので、他の先駆者たちもその方法を採用した。しかし、いつまでも、何年たっても、指導者はダメだと言えないでいる。

おなじみのアーミッシュの馬車を作っている工場を訪問した。外見上、馬車は単純で古めかしい。しかし工場の製造過程をよく見ると、きわめてハイテクで、驚くほど複雑な装置なのである。軽量のグラスファイバーを使って手で成形し、ステンレスの金属部品とすてきなLEDライトを取り付ける。工場主の10代の息子、デービット君が工場で働いていた。早いうちから親のそばで働いている多くのアーミッシュと同じように、その子はとても落ち着きがあり、しっかりしている。アーミッシュは携帯電話をどう扱うようになると思うか、と尋ねてみた。彼はツナギの作業服の中に手をもぐり込ませて、携帯電話を取り出した。「アーミッシュはたぶん受け入れると思うよ」と言って微笑した。彼は地元の消防団で活動していて、それで携帯電話を持っているのだと付け加えた。(なるほど!)彼の父親が話に口を挟んで、携帯電話を受け入れたら、「道路を通って我が家につながる電線がなくなる。」と言った。

配電網から離れていても近代化するため、一部のアーミッシュは、電池につないだディーゼル発電機にインバーターを取り付けて、配電網から離れた交流電源110ボルトを作っている。まずは、電気コーヒーポットのような特殊な機器に電気を供給している。ある家では、居間の一部を事務所にしてコピー機を置いているのを見た。現代の機器をゆっくりと受け入れることがこれから100年続いたら、アーミッシュは今の私たちと同じ物(ただしその頃には、もう使っていない物)を持つようになるだろうか?自動車はどうだろう?たとえば、一般社会では個人用ジェットパックを使っている時代に、旧派アーミッシュは内燃機関の旧式なポンコツ自動車を運転しているだろうか?あるいは電気自動車を受け入れているだろうか?18歳のアーミッシュであるデービッドに、将来何を使うようになると思うか、尋ねてみた。意外なことに、いかにも10代らしい答えが返ってきた。「もしも馬車をやめることを宗教指導者が認めてくれるなら、僕は欲しいものがある。黒のフォード460 V8だ。」それは、500馬力の強力な車である。しかし黒だとは!馬車作り職人である彼の父が、再び割り込んできて言った。「もしそうなったとしても、馬と馬車を使うアーミッシュは必ず存在する。」

デービッドは、その通りだと言った。「僕が教団に入るかどうか決めるとき、自分の将来の子どものことを考えた。子どもたちが何の制約もなしに育つのか。そんなことはあり得ないと思った。」アーミッシュは「現状維持」という言葉をよく使う。彼らはみんな現状が動き続けていることを知っているが、現状は変わってはならないものでもある。

私の印象では、アーミッシュは私たちよりも約50年遅れた生活をしている。新しい物を何でも採用するわけではないが、新技術を受け入れるとしても、他のみんなが使い始めて約半世紀ほどたってからになるようだ。それまでに便益と代償が明らかになり、技術は確実になり、また安価になる。"Living Without Electricity"(電気のない生活)という本で見つけた、この図を見てほしい。アーミッシュの技術導入が遅延する傾向のヒントがわかる。

american-amish-tech.jpg
Stephen Scott & Kenneth Pellman(1990) "Living Without Electricity", Good Books

アーミッシュは着実に、自分たちの速度で技術を受け入れている。彼らはゆっくりとしたオタクである。あるアーミッシュの男は、ハワード・ラインゴールドに、こう言った。「私たちは進歩を止めたいのではない。その速度を落としたいだけだ。」しかし、彼らのゆっくりとした導入方法は参考になる。

(1) 選択的である。「反対だ」と言う方法を知っていて、新しい物を拒否することを恐れない。採用する物より禁止する物の方が多い。

(2) 理屈ではなく経験で新しい物を判断する。注意深い監視の下で先駆者に楽しませて、新しい物を開拓する。

(3) 選択肢から何を選ぶべきかという基準がある。技術は家族や地域社会を強化し、また、外の世界から遠ざけるものでなければならない。

(4) 選択は個人的ではなく社会が共有する。社会が技術の進むべき方向を決定し実施する。

この方法はアーミッシュに対してはうまく行っているが、他の人々にも有効だろうか?私にはわからない。誰もそれを実際にやってみたことがない。アーミッシュのハッカーや先駆者たちから私たちへ向けての教訓があるとすれば、「何ごとも、まず試してみよ。必要に応じて、後から断念せよ。」ということである。私たちは最初に試すのは得意で、断念するのは苦手だ。個人としては別だが。アーミッシュ方式を実現するためには、集団として断念することに上達しなければならない。社会的な断念。(社会運動のように)数が多いというだけでなく、相互扶助に基づいた断念。それが起こっているという証拠はまだ見たことがないが、もし社会的な断念が出現したら、それがアーミッシュ方式の兆候と言えるだろう。





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posted by 七左衛門 at 22:22 | 翻訳