2009年03月25日

「技術の民族性」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "Ethnic Technology" の日本語訳である。



技術の民族性  Ethnic Technology

何かの技術が発明されて、それがどうして世界中のあらゆる所に広まらないのか不思議である。たとえば、農具の犂(すき)、腰帯機(こしおびばた=織機)、建築の飛び梁、その他何千もの古代の発明は、完成した後、なぜ世界中に普及しなかったのだろう?もしそれが本当に優れたものならば、その便益が情報と同じ速度で他の文化へ波及していかないのはなぜか?価値のある発明であれば、百年か二百年もたつうちに、山や谷を越えて伝わっていくはずだ。考古学上の遺物によれば、交易は着実に移動しているのに、技術革新はそうでないことがわかる。同じような資源、地理、気候、文化の場所であったとしても、技術の分布は常に不均一である。ある技術革新が一箇所にとどまって他の地域に伝わっていかないのに、別の技術が同じ経路を通って追い越して行くことがよくある。まるで技術が民族的な側面を持っているかのようだ。

人類学者のピエール・ペトルカンは、以前、次のように書いた。パプアニューギニアのメールフラクテ・デュベレ部族とイアウ部族では、鋼鉄製の斧やビーズ玉を何十年も使っていたが、「歩いてたった1日の距離」にいるワノス部族はそれを使わなかった。

このような話は今日でもある。日本での携帯電話の利用は、たとえば米国と比べて、はるかに広く、深く、早く浸透している。その機器はどちらの国でも同じメーカーが作っているのに。同じように米国での自動車利用は、たとえば日本よりも広く、深く、早い。この差が生じる理由は、二つの国の技術的インフラストラクチャーの状態を見てもわからない。他の例をあげてみよう。クレジットカードの普及状況は、先進国の間でもかなりの差がある。しかし、この不均等はプラスチックや電気や銀行の欠如が原因ではない。

この傾向は新しいものではない。道具が生まれてからずっと、人間はある技術を他の技術よりも好んで使ってきた。効率的だったり生産的に思える変種や新たな発明があったとしても、独自性にこだわってそれを避ける。「わが一族ではそんなやり方はしない」とか「われわれの伝統ではこういうふうにするものだ」とか。新しい方法が実際に役に立つものであっても、それが正しいとか安心だとか思えなくて、人間は明らかに改良された技術を避けることがある。技術に関する人類学者、ピエール・ルモニエは歴史におけるこのような断絶を研究して、次のように述べている。「何度となく、人間は技術に対して原料効率や進歩の論理に合致しない行動を示している。」

パプアニューギニアのアンガ部族は何千年もの間、野生の豚を狩猟してきた。野生の豚は人間と同じくらいの重さがあり、その豚を殺すためにアンガ部族は木の枝、蔓(つる)、岩、そして重力などを利用して罠(わな)を作る。年月をかけてアンガ部族は、罠の技術を自分たちの土地に合わせて改良し、変更してきた。大きく分けて三つの方式を考案した。一つは深い溝の中に鋭い杭を並べて木の葉や枝で覆って偽装したもの。一つは低い障壁に守られたおとりの餌の陰に鋭い杭を並べたもの。もう一つは、落とし罠、すなわち重い物を通り道の上につるしておいて、豚が通ると落ちるようにするというもの。

この種の技術上のノウハウは、西パプアの高地の村から村へ容易に伝わっていく。ある地域の知識は、他のすべての地域でも知られるようになる。(何世紀もかからずに、少なくとも何十年か経てば。)このあたりでは何日も移動して離れた所に行かなければ、知識の違いを感じることはできない。アンガ部族の大部分の集団は、3種類の罠のどれでも必要に応じて仕掛けることができる。ところが、ランギマール族という集団では、共通の知識である落とし罠を無視している。ルモニエによれば「この集団の人たちは落とし罠を作るのに必要な物品を10個くらい容易に列挙することができる。その働きを説明できるし、その絵を描くこともできる。しかしその仕掛けを使いはしない。」川の向こうに、近接するメニエ族の家々が見える。彼らは非常に良い技術であるこの種の罠を使っている。そこから徒歩で2時間離れた所にいるカパウ族も落とし罠を使う。それでも、ランギマール族は使わないと決めている。ルモニエが書いているように、「完全に理解した技術を自発的に無視する」場合があるのだ。

ランギマール族が後進的というわけでもなさそうだ。ランギマール族のはるか北では、アンガ部族の一部がかえしのない木製の鏃(やじり)を作っている。殺傷力の高いかえしという、ランギマール族も使う重要な技術をあえて無視している。アンガ部族は「かえしのある矢を敵から射られて、その優位性に気づく機会が数多くあった」はずなのに。このような民族独自の黙殺は、入手可能な木の種類や狩猟による獲物の種類では説明がつかない。

技術には単なる機械的な性能以外に、社会的な側面がある。私たちが新しい技術を受け入れる理由は、それが人間にどう役立つかということが大きいけれども、私たちにとってどういう意味があるかということも理由になる。そして、その同じ理由で技術の採用を拒絶する場合もある。その拒絶が私たちの独自性を強化したり創出したりするからである。

技術の分布状況を研究者が調査すると、現代でも古代でも、必ず民族固有の導入傾向が見つかる。社会学者の研究によれば、サーミ族のある集団は、トナカイを捕らえる2種類の投げ縄のうち一方を受け入れないが、別のラップランド人は両方の投げ縄を使うという。また、効率の悪い水平式の水車がモロッコ全域で広く使われている。水車に関する力学は同じはずなのに、他の場所では世界のどこにも存在しない。フランスでは、ある地方(オート・コルビエール)の農民は、除草剤を使いながら葡萄畑を耕しているが、それ以外の地方では除草剤を使うだけである。フランス人のルモニエが述べているように「技術に関するこのような無原則な変異は、主として、対象となる行為に適合しない論理による要因に基づいて発生するものと思われる。」すなわち、技術は見かけ以上のものだということである。

現代西洋社会では、技術に関する決定は集団ではなく個人が行う。採用したいもの、したくないものを自分で選択する。社会が認める技術という民族的選択の上に、個人的選好という階層を追加しなければならない。私たちはどんなものを利用するか、あるいは拒否するかによって自分の独自性を主張する。ツイッターをするか?大きな自動車を持っているか?オートバイを持っているか?GPSを使うか?サプリメントを服用するか?レコードを聴くか?このような小さな技術的選択を通じて、独自性を表現している。自分の独自性に無意識であることも多いので、私たちは正確な理由に気づかずに、同じはずの技術を場合によって採用したり却下したりする。全部とは言わないまでも、技術的選択の多くは技術の便益だけで決められてはいない。むしろ、技術に関する選択には、社会的な利用によって形成される無意識の意味づけや、あまり気づかない社会や個人による関連づけなどが影響している。

技術は今後も民族や社会ごとに独自の選好を示し続けるはずだ。集団あるいは個人は、単純な理由でいろいろな種類の技術を拒絶する。その理由とは、みんなが受け入れているから。あるいは、自己概念と衝突するから。あるいは、苦労して何かをすることが嫌でないから。サイエンス・フィクション(SF)を今どき手書きで創作している作家を私は知っている。少なくとも最初の草稿は手書きだ。効率や生産性は、将来には、敬遠すべきものになるのかもしれない。





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posted by 七左衛門 at 11:52 | 翻訳