訳 :堺屋七左衛門
この文章は Kevin Kelly による "Literature-Space Vs. Cyberspace" の日本語訳である。
文学空間とサイバー空間 Literature-Space Vs. Cyberspace
この記事は、ウェブで文章を読むことについての議論の応酬の一つである。エッジとエンサイクロペディア・ブリタニカが実施したフォーラムのほかに、ニューヨーク・タイムズがオンラインで読むことの意義についての長い記事を掲載して、議論に参入してきた。この問題は、新しい技術に関する他の多くの問題の判断材料となるカナリヤみたいなものだと私は思う。これは本当に新しいものなのか、そして、もしそうならば従来とどう違うのか?
そのような観点から、以下にスヴェン・バーカーツ (Sven Birkerts) に対する私からの回答を示す。これは私の回答に対して彼が答え、私がそれに答える、というように続いているものなので、この文章だけでは意味がわからないかもしれない。そして私の回答のあとに、この議論に対するある若い読者の反応を示しておく。明らかに心に響くものがある。
ウェブ文化評論家のスヴェン・バーカーツは、とても説得力があって、私は彼の言うことを何でも信じてしまう。なぜならば、その素晴らしい文学的優美さにあやかりたいと思うからである。その文章を読むと、彼が書物から得たという完璧な感覚を私も得たいと切望する。そうでない人がいるだろうか?しかし私自身の読書体験を振り返ると、スヴェンのような禅の境地には達していない。
彼の記事を初めて読んだとき、スヴェン・バーカーツは、読書の例外主義、すなわち、読書こそはすべての善が宿る神聖な行為であるという主張に賛成していて、インターネットに反対しているのだと思った。しかし、彼はその対比をさらに分析して、私たちはまさにインターネットにおいても読書しているのだということを正しく理解させてくれている。バーカーツの説によれば、読書それ自体が素晴らしいのではなく、書物が素晴らしいものであるらしい。書物とはみんな知っているとおりのものである。繰り返しになるが、問題は、オンラインでの読書がとくに珍しいものではないということだ。私はPDF形式で多くの本を読んでいる。そしてコンピューターでノンフィクションの本を読むとき、ウェブページから書物のページに移ったことに気づかずにいることも多い。書物はウェブの一部になっている。
さて、キンドル(電子ブック)はどうなのだ?キンドルで本を読んでいるときには、ウェブで読むのと比べて、あるいはペーパーバックを読むのと比べて、何か違いがあるだろうか?
私たちが議論しているのはウェブ 対 小説 の問題だとスヴェン・バーカーツは言う。うーむ、ここは良い小説と言ってほしい。力強く時代を超越した物語だ。つまり、ウェブ 対 書物 という議論は結局のところ、ウェブ 対 素晴らしい物語 なのだ。私はこの対比によって議論が大いに明確になったと思う。
素晴らしい物語は、私たちをウェブ以外の世界にひき込むことができるのか?たぶんできるだろう。スヴェンの不正確な命名では「読書空間」と呼ばれるこの場所は、サイバー空間と同じではないのか?違うかもしれない。素晴らしい本を音声で聴くことによって、その場所に行けるか?私はそう思う。素晴らしい映画を見ることによってそこへ行けるか?たぶん、そうだろう。
スヴェン・バーカーツと私の食い違いが少し見えてきた。スヴェンは書物と読書についての話をしてきたが、そのとき実は文学の話をしていたのだ。それは恐らく書物と読書に限らないものである。私にとっての書物と読書はたいてい文学ではないので、私は彼が何を議論しているのか理解できなかったわけだ。
バーカーツは次のように言っている。「私の根本的な前提は、サイバー空間と読書空間は対立する感覚だということである。」私の今の理解では、これは「サイバー空間と文学空間は対立する感覚だ」ということになる。この言い方のほうが証拠(または反証)を見つけやすいと思う。
物語は私たちの潜在意識に強く組み込まれている。だから、私たちがはいりこんでいる物語空間が、ウェブでの読書空間とは別のものであっても、私は驚かない。これは検証可能な命題である。私たちが物語を読んでいるときと、ウェブサーフィンをしているときで、脳の働きが違っているのか?もし同じであれば、それこそ私は驚いてしまう。だが、それだけのことであれば、すなわち物語とウェブとで異なる働きをするだけであれば、ウェブから抜け出して物語に没入するための方策は簡単なことだ。ただ単により多くの物語を読み、聞き、あるいは見れば良いのである。
しかし、ニック・カーの命題に戻ろう。彼の主張は私が理解する限りでは、次のような内容である。この文学空間の外でウェブサーフィンをすると、そのあいだの脳の働きを変えるだけでなく、物語に関して人間が持っている配線接続が何らかの形ではずれてしまって、その後、文学空間に容易には戻れなくなる。
その心配は理解できるし、そんな話を聞いたこともあるが、私としては今すぐその証拠を提示してほしい。そのような変化が起こる、または起こる可能性がある、という科学的証拠を私は今まで全く見たことがない。ひょっとするとどこかの研究室にあるのかもしれない。もしそうであれば教えてほしい。
カーとバーカーツに対して、私は説明を求めたい。あなた方が話題にしていることの十分に正確な定義を提示してほしい。間違っているかどうかを検証できるように。
ニューヨークタイムズの最近のオンライン記事「ほんとに読書してる?」("RU Really Reading?")では、ウェブで読むことがどのように違ってくるか、または違わないか、および脳の配線接続に対する影響があるかどうかについて、実際の研究の手がかりを示してはいるが、研究結果そのものではない。その概要は次のとおり。
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インターネットで読むことが、読む能力にどのような影響を与えるかについて、識字能力の専門家たちが調査を始めつつある。デトロイトの低所得家庭の、大部分はヒスパニックと黒人である小学6年生から高校1年生までの700人以上に対する最近の調査では、この生徒たちは本も読むが、他のどの媒体よりも多くウェブで読んでいることがわかった。
神経学の研究によれば、読むことを覚えると脳の神経回路が変化するという。科学者はインターネットで読むことも、同様に脳の配線接続に対して、本を読むのとは異なる影響を与えるかもしれないと推測している。
ある識字能力の専門家たちは、読むということ自体の定義を見直すべきだと言っている。動画や写真を見て解釈することも、小説や詩を読み解くのと同じくらい重要かもしれない。
この記事を通じて、私たちは読むことの意味について、よく理解する必要があることがわかる。
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さて、読者のジェレミー・ハッチ (Jeremy Hatch) は、読むことについての考えを書いて私に送ってきた。自分自身の習慣に関する彼の意見は、ウェブで読むことが何であるかという疑問を解明していると思う。
僕はまさにシリコンバレーで育った若者です。ウェブとともに成長したので、ウェブがない世界なんてほとんど知りません。生まれてこのかた、専門的能力や社会性や知能の発達に不可欠なものとして、電子機器やウェブを使ってきました。言うまでもなく、そのおかげで私の生活は計り知れないほど豊かなものになりました。それを使わずには生きていられません。
この議論全体を読んで、非常に驚いたことがあります。書籍1冊分の文学作品(または1冊分の議論)を画面上で読み、夢中になり、徹底的に楽しむことができるというのに、誰もまだそのことを認めていないのです。現代の作品だけでなく、古典でも同様です。ウェブや最新技術を利用しているにもかかわらず、というよりも、それを利用するからこそ可能なのです。
4年前に僕は2台目のPDAを買いました。前のPDAは、もう何年も使った、古くてボロボロの緑色画面の機種でした。この新しい能力を手に入れた僕は、村上春樹の名作「海辺のカフカ」を買って、それは決して短くない物語ですが、むさぼるように読みました。プロジェクト・グーテンベルクから取得した僕の古典のリストには作品が満載されています。トルストイの自伝三部作(ホガース版の翻訳)のほかに、ド・クインシーの「告白」、そしてロバート・ルイス・スティーブンソンの旅行記などを読んだことを思い出します。モンテーニュやセネカも読みました。
長い文章に集中する能力は、文章を掲載する媒体による機能ではなくて、読む人の個人的規律と読書の目的にもとづく働きです。楽しみのために、すわって「戦争と平和」を読むのならば、手に持っているものが紙であろうとプラスチックであろうと、それに集中するはずです。何時間も続けて、もしかしたら丸1日楽しく集中したいと思うでしょう。それに対して、未読のRSSフィードを読んで消化するためにすわっているとしたらどうでしょうか?これについては、「紙の経済社会」において、未読の雑誌や新聞を読み終えるという行動との類似性を指摘しておきたいと思います。この場合には、短時間にまとめて注意力を使うはずです。こちらに5分、あちらに20分、そして特に興味のある長文の記事があれば1時間という具合です。
僕の経験では、ウェブによる集中力低下は、無視したいときには全く無視できるものです。また、ウェブのおかげで、開架式の図書館という発明をはるかに超えるほどの綿密な調査や熟考が可能になっています。どんな世代にも欠点があるものですが、僕たちの世代の欠点として、長時間の思索や瞑想、綿密な調査、真に優れた文学作品への熱中などがすべて欠如していることはないと思います。ここに挙げたものは、いずれも職業上の成長にも人間としての成長にも必要であり、決して忘れ去られることはないでしょう。
ジェレミーの経験は私の経験と非常に近いものである。文学空間は、サイバー空間と直交し、また読書空間とも直交していると思う。紙の書物と同様に、オンラインの書物に夢中になることができる。また、オンラインと同様に、紙の上でもいろいろと考えをめぐらせることができる。媒体(メディア)自体が一つの伝達内容であるのは確かだが、私たちが住んでいる世界は、インターメディア、すなわち媒体の媒体という世界である。そこでは、ある媒体が他の媒体に流れ込んでいて、媒体間の境界がわかりにくくなっている。書物はサイバー空間にも文学空間にも存在する。書物というのは思った以上に大きいものかもしれない。あるいは小さいかもしれない。確実なのは、書物の定義を再検討する過程に私たちがいるということである。
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