著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門
この文章は Kevin Kelly による "The Evidence of Progress" の日本語訳である。
進歩の証拠 The Evidence of Progress
分別のある人なら、この地球上に山ほどある害悪を無視することはできないだろう。環境、不公平、戦争、貧困、無知などの害悪、そして、何十億もの住民の身体と精神の不健康も、逃れることができないものだ。また、理性のある人なら、人間の発明や活動によって絶え間なく生じる新しい害悪を見過ごすことはできない。なお、そこには古い害悪を治すための善意による行為で生じる害悪も含まれている。善良な物や人を破滅させることも、絶え間なく続いているように思われるし、実際にそうである。
しかし、善良な物が生じることも、同様に絶え間なく続いている。抗生物質の善良さに異存のある人がいるだろうか?過剰な処方があるとしても。電気は?布は?紙とインクは?ラジオは?望ましい物をあげていくと、終わりがない。これらの物にはすべて不都合な面があっても、私たちはその発明品の善良さを認めて大量に購入している。現在知られている害悪を改善するために、私たちは新しい善良な物を作り続けている。
このような新しい解決策の一部は、解決しようとした問題よりも悪いものであることもよくある。しかし、私が観察したところでは、たいていは時間が経つと、新しい解決策のほうが、新しい問題よりもその数においてわずかに上回るようになる。ユダヤ教指導者のザルマン・シャクター=シャローミはこう言った。「この世界には悪よりも善のほうが多い。でも、はるかに多いわけではない。」意外なことに、複利計算が可能であるとすれば、「はるかに多いわけではない」だけで十分である。そして、文化というものはそれに当てはまる。この世界は、毎日毎日1パーセント(あるいは1パーセントの十分の一でも)ずつ良くなって、善良な物、いわゆる文明を蓄積すればよい。人間が破壊するよりも1パーセントでも多くの物を毎年作り出している限り、人間は進歩する。その増分はごくわずかであって、特に目の前に49パーセントの死と破壊がある状況では、良くなっていることはほとんど感知できない。でもこの小さくてわずかで遠慮がちの増分が、進歩を生み出すのである。
しかし長期的に見て、本当にたった1パーセントでも改善しているのだろうか?4種類の証拠があると私は考えている。まず第一には、普通の人の寿命、教育、健康、資産が長期的には増大していることである。これは計測することができる。概して、人は現在に近ければ近いほど、より長生きするようになり、より多くの知識の集積を利用でき、より多くの物と選択肢を持つようになっている。健康と富裕の指標は、時期によって、地域によって変動している。戦争や紛争のせいで、地域的または一時的に、良好な生活が確実に抑制されているからである。しかし、長期的軌跡(ここで長期的とは数百年あるいは数千年を意味する)は着実に上昇している。
長期的進歩の第二のめやすは、私たちが自分自身の生涯で実際に遭遇しているとおり、技術の発展が波のように押し寄せていることである。たぶん他のどの兆候よりも、この新しさの大波が絶え間なく押し寄せるせいで、物ごとが向上していることを私たちは毎日実感している。機械装置は良くなるだけでなく、良くなると同時に安くなっている。振り返って近い過去を窓からのぞいてみると、その頃には窓ガラスがなかったことに気づく。過去には、機械織の布、冷蔵庫、鉄鋼、写真、あるいは近所のスーパーで通路にあふれているような商品、倉庫一杯の商品が存在していなかった。この豊かさのグラフを逆にたどると、グラフの曲線は減少しながら新石器時代にまでさかのぼる。古代から伝わる手工芸を見ると、その高度さに驚くことがある。しかしその量や種類や複雑さにおいては、実際には現代の発明品と比べて見劣りがする。この判定は明らかである。私たちは古い物よりも新しい物を買う。旧式な道具と新しい道具のどちらかを選ぶとすれば、世界中のどこの人でも、そしていつでも、たいていは新しい物を取る。人間が今までずっとバカであったために、質が劣っても新しい物を選んでいたのか、それとも、技術評論家が言うように、王様や僧侶や会社にだまされ続けて、最善の利益ではないものを選ばされてきたのか。あるいは、本当に高く評価する物を、すなわち、新しくて改良された物を常に選んでいるのか。どのような理由であっても、人間は技術の勢力範囲や種類や能力を常に発展させてきた。技術は着実に向上しているが、他のグラフと同様に過去200年の間に急上昇している。
長期的に見て少しずつ着実に進歩しているという三番目の証拠の一端は、道徳的な分野にある。この分野には計測の指標がほとんどないし、事実についての見解の相違も多い。時間が経つにしたがって、法律や道徳や倫理は、人間が共感する範囲をゆっくりと拡大している。大雑把に言って、もともと人間はまず家族を通じて自己を認識していた。家族の仲間が「私たち」であった。この言い方では、親密な家族という範囲の外にある人は「他人」と見られることになる。今までは、そして現在も、「私たち」の範囲の中の人に対するときと、外の人に対するときとで行動の規範が異なる。しだいに「私たち」の範囲は、家族内から部族内へと拡大し、さらに部族から国へと拡大した。国を越えて、さらに人種を越えるような拡張を続けている途中の状態で、今はちょうど人種の境界を越えつつあるところだろう。このようなことが起こっているという証拠は、たとえば動物と比べて、さらにはロボットと比べて、人間を差別または優遇してはならないとする法律ができていること、あるいはその逆に、動物あるいはロボットの一族(たとえば人工知能など)が人間と平等な地位にあるというような権利の向上があることである。道徳や倫理の最高規範が「自分がしてもらいたいことを他人にもせよ」ということであるならば、人間は「他人」の概念を常に広げているのだ。この共感の拡大についての長期的な時系列の記録を私は見たことがないのだが(もし知っていたらメールで教えてほしい)、一連の法令の歴史的変遷によってこの傾向が明らかになるのではないかと思っている。
四番目のデータは、実際の進歩を証明するものではないが、強力なヒントを与える。そのデータとは、小さくてきわめて単純な生物から、大きくてきわめて複雑で社会的な動物まで、何億種にも及ぶ生命の40億年の道程である。進化が何らかの軌道にのっているという考え方は、科学においては非常に議論を呼ぶところであり、それ以外の何かを証明するための役には立たないかもしれない。でも、この文を読んでいる人はみんな、この長期的な傾向を直感的に把握していると思う―― たとえ、それを科学的に計測する方法が不明であっても、また、それが存在することを説明する方法が不明であっても。進化がある方向に進む傾向があるというのは、一部の理論家が主張するように幻想であるかもしれないが、もしそれが本当であったとすれば、この背景となる「進歩」を参考にして、人間に関するいろいろな事柄の進歩を認知するのが容易になる。その場合、私たち人間の文化は、40億年前に始まった作品の延長線上にあることになるからである。この見方をすれば、人間の健康、物質的豊かさ、技術や道徳などでの進歩は、いま起こりつつある進化という壮大な物語の最新の章である。
より柔らかい概念における「進歩」、たとえば幸福や満足、あるいは精神的な悟りなどについて、長期的な測定ができればすばらしいと思う。しかし、私たちは今のところそのようなものについて、信頼できる長期的な計測方法を知らない。
結局、進歩の測定基準はいずれも、私が最初に述べた不幸について考慮しなければならない。この世界で増加する善から、世界で増加する害悪を差し引かなければならない。そして、私は明言する。その差は増加している。この比率の分だけ、私たちは一方が他方よりも大きいと言うことができるのだ。
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