2009年08月10日

「技術に満足できない理由」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "Why Technology Can't Fulfill" の日本語訳である。



技術に満足できない理由  Why Technology Can't Fulfill

ネット上で知り合ったアーミッシュの男が、この夏の初め頃、自転車に乗って霧の太平洋岸を通って私の家にやって来た。もちろん、ネット上でアーミッシュと知り合いになるなんて、まず考えられないだろう。しかし、その男は私のブログを通じて私に連絡してきたのだ。そして何ヶ月か後に、私の家の戸口に現れた。セコイヤの木の下にある私の家まで長い坂を登って来て、暑くて汗まみれで息を切らせていた。そばにはダホンの精巧な折りたたみ自転車が止めてあった。鉄道の駅からそれに乗って来たのだ。多くのアーミッシュと同様に、彼は飛行機には乗らない。だからペンシルベニアから3日がかりで大陸横断列車に自転車を積んでやってきたのだ。彼がこのあたりに来るのは、今回が初めてではなかった。前回にはカリフォルニアの海岸をすべて自転車で走り、また列車や船から、実際にいろいろな社会を見てきたのだった。

翌週まで、アーミッシュの訪問客は、我が家の予備の寝室に寝泊まりした。そして食事のときには、馬と馬車の旧派アーミッシュ社会で育った興味深い経験談を聞かせてくれた。この友人をレオン・ホフマンと呼ぶことにするが、これは本名ではない。アーミッシュは自分に注目が集まるのを好まないからである。(だからアーミッシュは写真に撮られるのを嫌がる。)しかし、レオンは普通のアーミッシュではない。高校には行っていないが(アーミッシュの正式な教育は中学2年で終わる。)、彼はこの宗派の信者としてはめずらしく大学に行っている。彼は今30代だが、年配の大学生である。医学を学びたいと思っていて、たぶんアーミッシュで最初の医者になるだろう。元アーミッシュで大学に行った人は多いし、医者になった人もいる。しかし旧派アーミッシュ教団に属したままという人はいない。レオンは教団に残っていて、しかも「外の」世界でも生活する才能を享受しているという点で特異である。

アーミッシュは「ラムシュプリンガー」という注目すべき伝統を守っている。それは10代の若者が、自家製のユニフォーム、すなわち男子ならズボンつりと山高帽、女子ならロングドレスとボンネット帽子を捨て、だぶだぶのズボンや短いスカートを身につけて、車を買ったり、音楽を聞いたり、パーティーに参加したりするものである。現代の快楽を永遠にあきらめて旧派アーミッシュ教団に加わるかどうかを決める前に、何年かこのような体験をする。科学技術の世界に親密かつ実際に接するということは、その世界には何があるのか、そして自分自身は何を拒否しようとしているのかについて、彼らは完全に認識しているのである。レオンはずっと「ラムシュプリンガー」の状態にあるようなものだ。ただしパーティーには参加しないし、勤勉に働いているのだが。レオンの父は機械工場を経営している(よくあるアーミッシュの職業だ。全員が農業をしているわけではない)。だからレオンは機械工具の天才である。レオンが最初に私の家に現れたとき、私は浴室の配管工事をしている最中だった。彼は私に代わってすぐにその仕事を済ませてしまった。金属部品について完全に精通していることに私は感心した。そういえば、アーミッシュの自動車整備士で、自分では自動車を運転しないが、どんな車種でも修理できる人がいると聞いたことがある。

少年時代の交通手段は馬と馬車だけだったこと、複数の学年がいる一部屋だけの学校で学んだことなどを話しているとき、レオンの顔には強い懐かしさが現れていた。今は離れている旧派アーミッシュの生活の快適さが恋しいのだ。私たち外部者には、電気や集中暖房や自動車がない生活は、厳しい罰のように思える。しかし不思議なことに、アーミッシュの生活には、現代の都会よりも多くの娯楽がある。レオンの説明によれば、いつでも、野球の試合や、読書や、近所の人の訪問や、趣味のための時間がある。このことは、マサチューセッツ工科大学の学生、エリック・ブレンダにはまったくの驚きだった。彼は工学の学位を断念して大学を中退し、そのかわりに旧派アーミッシュやメノナイト(メノー派の信者)の集団と一緒に生活することにした。ブレンダはアーミッシュではなかったが、妻と協力して自宅からできるだけ道具をなくし、可能な限り「普通」に暮らそうとした。この話は、彼の著書 "Better Off"(ベター・オフ)に詳しく書いてある。2年以上にわたって、ブレンダは、彼の言うミニマイト(最小主義者)生活様式を徐々に取り入れた。ミニマイトは「何かをするために必要な最小限の技術を使う。」旧派アーミッシュやメノナイトの隣人たちと同じように、彼は最小限の技術だけを利用している。動力工具や電気器具は使わない。電子機器の娯楽がなく、自動車での長い通勤や頻繁な買い物の外出がなく、既存の複雑な技術を維持するための雑用もない状態は、そのかわりに本当の余暇の時間となることにブレンダは気がついた。実際に、手で木を切ったり、馬で肥料を運んだり、ランプの光で皿洗いをしたりするという制約は、彼が今まで経験した中で最高の本物の余暇の時間を生み出した。

それと同時に、困難で骨が折れる手作業には、満足感とやりがいがある。彼には余暇ができただけでなく、達成感も得られた。ウェンデル・ベリーは思想家で農民でもあり、トラクターではなく馬を使って、アーミッシュとよく似た旧式な方法で農場を経営している。ブレンダと同様に、ベリーも肉体労働と農業の成果が目に見えることに大いに満足を感じている。ベリーはまた優れた文章家で、最小主義がもたらす「贈り物」を彼ほど上手に表現することは誰にもできない。彼の著作 "The Gift of Good Land" (良い土地の贈り物)にある話は、最小限の技術で得られるほとんど恍惚状態の達成感を描いている。

この前の夏、とても蒸し暑い午後に、アルファルファの2回目の収穫をした。近隣の人たちが手伝いに来た。私たちはみんな、苦痛と表現するのが適切と思われる状況に慣れてしまった。畑は細い川の岸にあり、一方は山で、その反対側は川に沿って高い木が並んでいる。少しも風がなかった。荷を馬車に積み込む間、暑く明るく湿った空気が私たちを包み込み、身体に張りつくようだった。

馬小屋はもっとひどかった。トタン屋根のせいで気温が高く、空気がこもってよどんでいた。息をせずにすむように、いつもより無口に仕事をした。それは間違いなく悲惨だった。手の届くところには(冷房の)スイッチはなかった。

しかし、私たちはそこにいて仕事をした。それがうれしいくらいだったし、未来学的調和など考えなかった。仕事がすんでから、大きな楡の木の陰で岩の上に座って談笑し、長時間そこで語り合った。愉快な日だった。

なぜ愉快だったのか?それは「論理的推論」では説明できない。この問題を論理で解くには、あまりにも複雑で深遠すぎる。愉快である理由の一つは、やり遂げたことである。これは論理的ではないが、道理にかなっている。その他の理由としては、良い干し草だったこと、そして良い状態で収納できたこと。さらに他の理由は、私たちはお互いを気にいっているし、一緒に働きたいからそうしたのだということもある。

そして、その大汗をかいた6ヶ月後、厳寒の1月の夕方、私は餌をやるために馬小屋へ行った。夕暮れが近く、激しく雪が降っていた。小屋の壁のすき間から北風が雪を吹き込んでいる。馬の寝床を整え、桶にトウモロコシを入れ、屋根裏に登って良い香りのする食料の干し草を投げ落とす。裏口へ行って戸を開ける。馬が小屋に入ってきて、通路を歩いてそれぞれの小部屋へ行く。馬の背中に雪が白く積もっている。小屋は馬の食べる音で満たされる。もう家へ帰る時間だ。私の行く先には楽しみがある。おしゃべり、夕食、ストーブの火、読み物。しかし、この馬たちも、みんな十分に餌を食べて快適であることを私は知っている。私の楽しみはそこにも広がる。そんな夜には、馬に餌をやることは必要に迫られてとか、義務とかではなくなる。決して動物の貨幣価値を考えたりしない。仲間意識のために餌をやり、世話をするのだ。そうしたいからするのだ。外に出て戸を閉めると、私は満たされた気分になった。


レオンはこれと同じ方程式について話していた。より少ない娯楽、より多くの満足。アーミッシュの共同体においては、いつでも他者を容認する姿勢が明確である。想像してほしい。必要ならばあなたの医療費を隣人が払う。あなたがお金を払わなくても何週間のうちに家を建ててくれる。より重要なことは、同じことをあなたが彼らに対して行ってもよいのだ。最小限の技術を使っていて、保険やクレジットカードのような文化的革新の重荷がない生活では、隣人や友人への日常的な依存が必要である。入院費は教会の信者が払い、またその人たちがいつも見舞いに来てくれる。火事や嵐で小屋が壊れたら、建て直してくれる。経済的、物質的、あるいは行動について問題があれば、仲間が相談に乗ってくれる。その共同体は、可能な限り自立的であろうとする。そして、それが共同体であるから、そのように自立的なのだ。アーミッシュがその若者たちに対して強い魅力を発しているのはなぜか、そして、ラムシュプリンガーの後でアーミッシュから離れていく人数が、今日でもごくわずかしかいないのはなぜか、私にはわかるようになってきた。レオンが同じ教団の同世代の友人300人を観察したところでは、その中で、技術的に制約のあるこの生活から去っていった人は2〜3人だけで、しかもその去っていった人たちは、平均的な米国人と比べて、やはり制約のある生活様式を選んでいる。

しかしこの親密さと相互依存の代償として、選択の幅が限られることになる。教育は中学2年生までしか受けられない。男子は職業の選択肢がわずかしかない。女子は家庭の主婦以外には選択肢がない。私はレオンに尋ねた。アーミッシュの生活の美点、すなわち、安心な相互扶助、満足感のある実践的な作業、頼りがいのある共同体の社会基盤などがずっと続くと思うか?たとえば、すべての子どもが高校1年まで学校に行くようになったとしたらどうなのか?手始めにそう問いかけてみた。そうすると、彼はこのように答えた。「中学3年生くらいになるとホルモンが増加するので、男子は、ときには女子も、机の前に座って書き物をするのが嫌になる。子どもたちは頭だけでなく手も使う必要があるし、何かの役に立ちたいと思っている。その年ごろの子どもは実際の仕事をすることでより多くを学ぶのだ。」

そのとおりだ。私にはその気持ちがよくわかる。私は息苦しい高校の教室に押し込められるのが嫌で、「実際の仕事」をしたいといつも思っていた。その一方で、高校で読んだ本のおかげで、小学校のときには想像もしなかった可能性に気づいて心が開かれ、私の世界はその頃から決して止まらず広がり続けている。テクニウム(訳注:文明としての技術)は可能性を拡大する。技術指向の教育(現代の教育がそうだ)は選択肢を最大化する。他方では、アーミッシュの最小主義は、満足感と達成感、そして安心な家族と社会の絆を最大化することを意図的に目指している。それはうまく行っている。

1960年代の終わり頃、百万人ほどの自称ヒッピーたちが小さな農場へ押し寄せて、質素な生活をする共同体を一時的に作った。それはアーミッシュとあまり違わないものだった。私もその運動に参加していた。ウェンデル・ベリーは、私たちが耳を傾ける聡明な指導者の一人だった。何万箇所もの米国の田舎での実験では、現代社会の技術を放棄した(それが個人主義を破壊すると思われたから)。手で井戸を掘り、自分で粉を挽き、蜂を飼い、日干し煉瓦で家を作り、ときには風車や水力発電機を動かしたりもして、新しい世界を再構築しようとした。一部には宗教を創始した人もいた。私たちが発見したことは、アーミッシュが知っていることと似ていた。すなわち、この質素さが共同体では非常にうまく働くこと、そして、解決策は技術を全く使わないのではなくて少しだけ使うことである。当時、適正技術と言っていたものだ。この光り輝く計画的で意図的な適正技術の採用は、しばらくの間は深く満足できるものだった。

しかし、それはほんのわずかの間だった。ひところ私が編集していた「全地球カタログ」では、何百万もの単純な技術的実験の野外教本を掲載した。鶏小屋を建てる方法、自分で野菜を育てる方法、自分でチーズを作る方法、大量の藁を使って家を造り、その自宅で子どもを勉強させ、在宅で仕事を始める方法などを何ページにもわたって掲載した。技術を限定的に使うという初期の熱狂が、心配や不安という感情に必ず負けることを、私は間近で見ることになった。数百万人のヒッピーは、自分たちの用意したローテク(低レベル技術)の世界から徐々に離れていった。一人また一人、ドーム型テントを出て郊外の住宅の車庫や屋根裏部屋へと去っていった。私たちみんなが驚いたのは、彼らの「スモール・イズ・ビューティフル(小さいことは美しい)」という技能が、「小さいことは新規事業である」という企業家に変身したことである。「ワイヤード」世代や、ゆったりとして長髪のコンピューター文化(オープンソースを考えるとよい)などの源流は、70年代のヒッピー文化にある。「全地球カタログ」の創始者でヒッピーの、スチュアート・ブランドが述懐している。「『自分のやりたいことをせよ』というのは、『自分で事業を始めよ』と容易に言い換えられる。」私が個人的に知っている何百人だったか、その正確な数がわからなくなるほどの人たちが、共同体を去って、最後にはシリコンバレーでハイテク企業を興した。今ではほとんど陳腐な表現だが、裸足から億万長者へ。スティーブ・ジョブズ風に。

前世代のヒッピーたちは、アーミッシュ的な生活様式にとどまっていなかった。その共同体での仕事に満足と魅力を感じながらも、選択肢という妖精のほうがもっと魅力的になったからである。技術が夜も昼も手招きすることに影響されて若者たちが可能性を捨てるのと同じ理由で、ヒッピーは農場を去っていった。今にして思えば、ソローがウォールデンを去ったのと同じ理由で、ヒッピーは去ったのだ。彼らはやってきて、そして、人生を最大限に経験するために去っていった。自発的な質素さは、一生のうちに一度は経験すべき可能性であり、選択肢であり、選択結果である。それは技術に対する優先順位を整理する助けになるものではない。しかし私の見解では、質素さの最大の可能性は、多数の局面の中の一つ(瞑想や安息日のような反復する状況であっても)だと考える必要がある。過去十年の間に新しいミニマイト(最小主義者)の世代が生まれ、今は都会で生活している。同じ考えの生活者たちとの一時的な共同体に助けられて、都市に身軽に住んでいる。彼らは、アーミッシュの熱心な相互扶助と手作業、そして都会での絶え間ない選択の両方を得ようとしている。

それはすばらしい実験だ。私も自分で一から家を建てたり、蜂を飼ったり、共同生活をしたりした場所を離れた。私がそこを離れたのは、選択肢が限られているからである。そのかわりに、毎日、機会が増加していく場所、拡大する巨大都市へ来た。それでも、私はミニマイトの古い習慣をまだ持っている。最大の善をなすために必要な最小限の技術をいつも見つけようとしている。私は、ある種のミニマイトの考え方が都市でも通用するという希望を持っている。

私自身にローテクから高度の選択肢への遍歴があるおかげで、レオンやベリー、ブレンダ、そして旧派アーミッシュたちの社会に、今でも私は深く魅了され感銘を受けている。彼らの強く結ばれた相互扶助は、現代性という永続的な誘惑に対して、確実に対抗しうることに私は感心している。これは他の文化ではなかなかできないことであり、すばらしさの証明である。

しかしアーミッシュやミニマイト、そしてスモール・イズ・ビューティフル時代のヒッピーたちには、一つの特徴がある。それは自己中心的ということである。彼らが最小限の技術で達成しようとする「善」とは、基本的には、一定不変の自然を実現することである。この農業的な善で満足する人間は、変化しない人間である。アーミッシュにとって自己実現とは、農民か、職人、または主婦という伝統的な限定の範囲内で行わなければならない。ミニマイトやヒッピーにとっては、人工的援助に制約されない自然の範囲内で実現しなければならない。たとえば、鋳物の手押しポンプのほうが、馬でバケツの水を運ぶよりも優れていることは、ウェンデル・ベリーも認めるだろう。その家畜化された馬(鉄の発明にも匹敵する)は、多くの古代の農民がしていたように人間が自分で農具を引っ張るよりも大いに優れている。ベリーは農具を動かすのに馬を使うが、彼にとって馬の力による工夫を越えるものは、人間の性質と自然の仕組みの満足に反する。1940年代にトラクターが導入されたとき、ベリーは書いている。「作業の速度は向上するかもしれないが、品質は向上しない。たとえば、インターナショナル・ハイ・ギア社製の9号草刈機を考えてみよう。これは馬が引く草刈機であり、それ以前のもの、すなわち草刈鎌から始まってインターナショナル社の前の機種に至るまでの製品群と比べて、あらゆる点で確かに改良されている。……私は草刈機を1台持っている。私は自分の畑でその草刈機を使っていた。それと同時に、近所の人がトラクター草刈機を使っていた。私は草を刈ったばかりの自分の畑から、その人がトラクターで草刈りをした畑に入ってみた。トラクターの仕事は速いが、より上手に仕事をするわけではないと、私は躊躇なく言うことができる。他の道具についても実質的にはそれは正しいと私は思う。すき、耕耘機、馬鍬、条播機、種まき機、散布機など。……トラクターの導入によって農民がより多くの仕事をできるようになるが、より良い仕事ができるわけではない。」

ベリーにとって、技術は1940年に絶頂に達したのである。ほぼそのころに、これらすべての農機具は最高に改良されていた。彼の目には、そしてアーミッシュにも、小さな家族経営の農場における精巧な循環的方法、すなわち、作物を育てる農民が動物に餌をやり、その動物が肥料と動力と食物を生み出して、より多くの作物を育てるということが、人間や人類社会や環境の健全さと満足のために完璧な方法であると思えたのだ。人類の長い歴史の中で、すなわち、今後の1万年および過去の1万年の間で、人間の発明と満足の頂点が1940年であると信じるというのは、うぬぼれとか自信過剰とまでは言わないにしても、まったく愚かなことだ。ちょうどこの時期は、ウェンデル・ベリーが馬と一緒に農場で成長していた少年時代であることは偶然ではない。1940年は人間の自己実現のための技術的完成の終点ではありえない。なぜならば、そこで人間の本質が終わったわけではないからだ。

私たち人間は、馬を飼い慣らすのと同じように、人間性を飼い慣らしてきた。人間性とは、5万年前から栽培している適応性のある作物であり、今日でもまだ生育している。人間性の畑は、決して一定不変ではない。過去百万年のどの時期と比べても、現代では人間の身体が遺伝的に急速に変化している。人間の知性は、人間の文化によって書き換えられている。誇張ではなく、また比喩でもなく、私たちは、1万年前に最初に農業を始めた人類と同じではない。ぴったりとかみ合ったシステムである馬と馬車、薪での炊事、堆肥による園芸、最小限の工業などは、完全に人間性に適合しているのだろう ――昔の農業の時代には。この伝統への情熱を私は「自己中心的」と言っている。なぜならば、その情熱は人間性、すなわち欲望、願望、恐怖、原始的本能、至高のあこがれなどが、人間自身によって、また発明によって改変されることを無視しており、さらに新たな人間性による要求を排除しているからである。

このような転換を否定し、人間性が不変だとする伝統主義者は多い。個人的な観点から、あるいは、ある世代の観点から、そう考えているらしい。しかし、至る所にある文章、通信技術、化学、広範囲な娯楽、旅行、有り余る食品、豊富な栄養、そして新しい可能性などが毎日詰め込まれている現代文化に育てられた人なら誰でも、私たちの祖先とは異なる存在なのだ。私たちは違う考え方をする。それはもっともなことだ。私たちの人格は遺伝的特徴を越えて決まるからである。狩猟採集生活をしていた祖先と比べれば、私たち以前に生きてきた人々や今ともに生きる人々が蓄積した知識、習慣、伝統、文化などを元にして私たちは形成されている。同時に、私たちの遺伝子は全速力で走っている。私たちは、医療介入や遺伝子治療などいろいろな方法で、遺伝子の加速をさらに促進する。また、計算機や通信などによって、人間の文化も走らせている。実際のところ、テクニウムのあらゆる傾向、とりわけ進化性の増大は、将来、人間性がより速く変化することを示唆する。人間の変化を否定する多数の伝統主義者、その同じ人々が、不思議なことに、変化しないほうが良いと主張している。

すべての人が農民になるように生まれついているわけではない。すべての人が馬とトウモロコシと季節のリズム、あるいは、村の規則遵守に対する永久かつ厳重な監視に理想的に適合しているわけではない。アーミッシュのやり方のどこに、数学の天才や、生まれつきの医者や、1日中新しい音楽を作曲して過ごす人に対する支援があるのか?ベリー氏自身は、農業による満足感を補うために、随筆を(紙と鉛筆を使って)書いている。書籍の印刷、流通、編集者、書店の店員という大規模な技術システムが、彼の努力に報いている。家族以外の誰も彼の本を読まなければ、彼が著述という仕事にこれほど従事することはなかっただろう。

アーミッシュが達成できないこと、それは可能性である。技術は可能性を召喚する。テクニウムにおける変化の曲線は、選択範囲や選択肢、および可能性の拡大に向けて弧を描いて進んでいる。この可能性の拡大の中でも重要なものは、新しい人間のあり方である。もしも、私たちが若いころから、常時有効の「グーグル内蔵電話」などという付属機能を使って記憶を拡張していたとすれば、人間には新しい器官ができるわけだ。しかし、その新しい身体の器官をどのように満足させるかを私たちは知らない。本当のところ、テクニウムが自分で新しい選択肢を爆発的に拡大させるにつれて、達成感を得ることが難しくなる。何を満たそうとしているのかわからないときに、私たちはどうすれば満足することができるのか?一杯になってあふれる前に、私たちは自分の大きさ、すなわち生来の潜在力をどうすれば知ることができるのか?

人間が何者であるかを発見するために、私たちは技術を発展させている。アーミッシュは一定不変の人間性を規定することによって、驚くほどの満足を見出している。この深い人間的な満足感は、実際的であり本能的で、再生可能で、とても魅力的なので、アーミッシュの人数は世代ごとに倍増している。しかし、アーミッシュやミニマイトは、人間が何者であるかを実際には発見していないし、発見できないと思う。彼らは人間性の発見と引き換えに、満足を得ているのだ。彼らは技術に対して意図的な制限を加えることによって、余暇と快適性と確実性という魅力的な組合せを最大限に活用している。それに対して、テクニウムは不確実な可能性を向上させようとしているのである。

人間性についてのミニマイト的な狭い定義や、就くことができる職業の制約は、自分たち自身を制限するだけでなく、他人にも制限を加えている。あなたが今、ウェブ・デザイナーになっているとすれば、それは他の何万人もの人々が可能性の領域を拡大してきたおかげである。農業や家内工業の枠を越えて、新しい専門知識や新しい物の考え方を必要とするような、複雑な電子機器の世界を彼らが開発したのだ。あなたが会計士であるとすれば、数え切れないほど多くの創造的な人々が、過去に会計の論理や道具を考案してくれたのである。あなたが科学者であれば、あなたの実験器具や研究分野は誰か他の人が作ってくれたのだ。あなたが写真家、高度なスポーツ選手、パン職人、自動車整備士、あるいは看護師であれば、あなたの可能性は他の人々の働きによって得られたものである。他の人々が自分の可能性を拡張すれば、あなたの可能性も広がっているのだ。

アーミッシュやウェンデル・ベリー、エリック・ブレンダ、そしてミニマイトたちが、人間を拡張するために、少なくとも正しい方向に拡張するために、技術を爆発的に発展させる必要はないと考えていることは、私は十分にわかっている。結局、彼らは最小主義者なのだ。発展した技術によって自由が得られるという展望はほとんど幻想だ、と彼らは思っている。彼らの目から見れば、技術が生み出すものは、偽の選択肢、無意味な選択、あるいは本当の選択肢だが実は罠であるものなのだ。これは検討してみる価値のある議論である。そこにはいくらかの真実がある。テクニウムは自律的なシステムである。テクニウムは、自分の勢力範囲を拡大するような選択肢を人間に選択させようとする傾向がある。このことは一種の罠のようにも思える。そして人間によるその他の多くの選択は問題にならない。

しかし、テクニウムが真の選択肢を拡大しているという証拠は豊富にある。歴史を通じて、人々が農村から、にぎやかな選択のある都会へ向かう一方的な流れがある。この絶え間ない人口移動は、今日では驚異的な速度で進んでいる。毎日200万人以上の人々が、絵のように美しくて心の安まる農村での、制約の多い選択から逃げ出して、現代の科学技術による生活が提供する選択肢を選んでいる。この人たちがみんな魔法をかけられているはずはない。地球上に住む人々の50パーセントをだますとすれば、よほど強力な魔法だ。

都会へ移住する百万単位の人々は、みんなと同じ理由で(この文章を読んでいるあなたと同じ理由で)、テクニウムに参加している。自分の選択肢を増加させるためである。自分の持つすべての潜在能力を発揮する機会を増やすためである。いつか誰かが、きっと、あなた独自の隠れた才能のために最適な道具を発明するだろう。あるいは、あなたが自分で道具を作るかもしれない。最も重要なことで、アーミッシュやミニマイトと違うところは、あなたが、誰か他の人の才能を発揮させるのに役立つ道具を発明しうることである。私たちの使命は、テクニウムにおいて自分自身の才能を見出すだけではなく、他人の可能性を拡張することでもある。私たちは、多くの人々の可能性の数を増やすために、この世界の技術の量を増加させる道徳的義務がある。より多くの技術があれば、自己中心的に自分自身の才能を発揮することもできるが、それだけでなく、他の人々や、自分の子どもたちや、未来の人々の才能を発揮させることもできる。

アーミッシュはこのことに少し気づいているが、彼らの今のような自己依存の生活様式は、その飛び地を取り囲む大きなテクニウムに強く依存している。彼らが草刈機を作るための金属は、自分で採掘したものではない。アーミッシュが使う灯油は、自分で掘削して精製したものではない。彼らの屋根にある太陽電池は、自分で作ったものではない。彼らの衣服の木綿は、自分で綿花を栽培して織ったものではない。彼らは自分で医者を教育し養成しているわけではない。よく知られているように、彼らはいかなる種類の軍隊にも参加しない。(だがその代償として、外部の社会で世界第一級の奉仕活動をしている。アーミッシュやメノナイトほど、頻繁に、また専門知識と情熱を持って、奉仕活動をする人々はめったにいない。)要するに、彼らは今の生き方について、外部の社会に依存しているということだ。このところ増加しつつある都会に住むミニマイトたちも同様に、発展するテクニウムに依存している。もしも、アーミッシュがエネルギーを全て自分で生成し、衣類に使う繊維を栽培し、金属を採掘し、木を切り出して製材しなければならないとしたら、それはちっともアーミッシュではない。そんなことになったら、彼らの社会は文明化できそうにない。

彼らが最小限の技術を採用していることは、一つの選択肢ではある。しかし、それはテクニウムのおかげで可能となる選択肢なのだ。彼らの生活様式は、テクニウムの内側にある。外ではない。

私が新しい技術を奨励するとき、私はアーミッシュやレオンやミニマイトのために働いている。そのほか、発明し、発見し、可能性を拡張している人は誰でも同様である。新しい技術が絶え間なく大量に発生することで、技術の推進者である私たちは、最小主義のためにより適切な道具を発明することができる。たとえ彼らが私たちに同じことをしてくれなくても。とはいえ、アーミッシュやミニマイトは、私たちが何を受け入れるかの選択について重要なことを教えてくれる。自分の生活に維持管理の面倒が増えるだけで、本当の恩恵をもたらさないような多くの機器は不要である。避けることができる技術であれば、それを受け入れるのを遅くしたい。他人の選択肢を閉ざすようなもの(武器など)は欲しくない。そして、私には限られた時間と注意力しかないことがわかっているので、手に入れるのは最小限のものだけでよい。

これは次のようにまとめることができると思う。私たちが求めているものは、みんなのために最大量の選択肢を生み出す、最小量の技術である。





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