2009年08月27日

「ある方向へ無限に」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "Infinite In Some Directions" の日本語訳である。



ある方向へ無限に  Infinite In Some Directions

私たちはどこへ向かっているのだろう?技術はどこへ行こうとしているのだろう?

不確かな行動について、将来への延長線上で推定して判断することがよくある。ある現象がそのまま継続するならば、それはどこへ通じるのか?農場で抗生物質を日常的に使っていたら、100年後にはどうなるのか?みんなが携帯電話を絶え間なく使い続けていたら、500年後には社会はどこへ向かうのか?テクニウム(訳注:文明としての技術)が今の状態でさらに千年続いたとしたら、それは私たちの望んでいる世界になっているのかどうか?そもそもテクニウムは、このままの状態であと千年続くことができるのか?

未来の衝撃や絶え間ない文化的変化に対する人間の心理的障壁は別にして、技術の発達に物理的な限界があるのか?技術が成長し続けるのに十分なエネルギー、物質、時間、空間はあるのか?あるいは、時間がたつと燃え尽きるろうそくの炎のように、技術は自己限定的なのか?技術の将来を方向づける基礎となる、熱力学の法則に内在する制約はあるのか?技術が永遠に加速し続けることは、物理的に可能なのか?

この疑問に答える一つの方法は、全ての技術が一種の計算だとみなして、思考実験を実施することである。私たちは、計算とは計算機の領域だと考えているが、実際には、それは物質やエネルギーの形式的配置であり、あらゆる物体で発生しうるものである。ティンカートイ(積木的な組立玩具)で、あるいは分子で作った計算機もある。厳密に数学的な意味で、長いらせん状のDNAは、私たちが「計算」と呼んでいる系統的な論理で分子を動かすことによって、遺伝子の染色体の性質を「計算」している。実際に生化学者は、実験室の試験管の中でバクテリアのDNAを操作して、デジタル計算機で解くのは困難な計算機科学の問題を計算している。計算についてのこの考え方によれば、生命体はまさに遅い計算機である。渦巻き状のガス雲も同様だ。宇宙にあるものはすべて、そして宇宙自体も、目には見えなくてもそれぞれ異なる速度と規模で何かを「計算」している。その計算の「解答」をそれぞれのシステムが実行しているのだ。

計算能力というレンズを通して物を見ようとする理由は、純粋な計算というものは、私たちが知っている限り、物質によるエネルギー利用の最も極端な形態だからである。理想的な(実在しない)コンピューター・チップは、一つの粒子を動かす(ある状態から別の状態へ、たとえば0から1へ)のに最小限のエネルギーしか使わない。この熱力学的に理想の最小状態で、計算の理論的限界が決まる。この物質世界からどれだけの「技術」を絞り出すことができるかという理論的限界も決まる。つまり、地球上の物質とエネルギーを一つの理想的な計算機として再構成すれば、この地球規模の計算機は、地球上で生み出すことのできる技術の上限を示している。同様に、宇宙に存在するあらゆる物質とエネルギーによる計算能力の熱力学的限界は、宇宙が保有することのできる技術について理論的限界を決める。

1999年にセス・ロイドは「究極のノートパソコン」("Ultimate Laptop")の理論的能力を計算した。ロイドの理論上のノートパソコンでは、(コンピューター・チップとして現在使われている部品ではなくて)一つ一つの原子が計算を実行する。1キログラムの装置の各原子は、1秒当たり10の51乗回オン・オフする。要するに、これが、可能な限り最も密度の高いコンピューター・チップである。ロイドの想像上のチップはノートパソコンの大きさで、1ビットあたり原子1個という究極の高密度であり、どんな特定の技術的構造にも依存しない。この究極のノートパソコンは現在のノートパソコンと比べて、40桁(1億兆倍とか言うような大きさ)性能が良くなるとロイドは言っている。しかし、技術が絶え間なく現在と同じ割合で向上(ムーアの法則)していくと、わずか250年でその水準の計算密度に到達する。ところで、この究極の計算機の大きな問題は、その中核となるチップは10億度の温度で動作し、太陽よりも熱くなることである。実際にロイドは次のように言っている。このチップは「小さなビッグ・バンが発生しているようなものだ!」民生品の設計を考えると明らかなことだが、私たちの技術はその理論的限界に到達しそうにない。しかし、より小さく熱く強力にという目標は、計算が ――そして技術も―― 目指すであろう方向を示している。灼熱のプラズマ・ノートパソコンには決して到達しないとしても、私たちはその方向に向かって進むのだろう。

しかし、同様な計算で、逆の傾向を示すものがある。ロイドの論文よりも数十年前に、物理学者のフリーマン・ダイソンは、宇宙の中で技術がどれだけ遠くへ、また、長く進歩することができるかの詳細を計算するという、同じような思考実験を実施した。技術が消費するエントロピーとエネルギーについて、将来への延長線上で推定するという同様の手法で、ダイソンは、テクニウムがより広がってしかも速度が遅くなれば、テクニウムは限りなく成長することができるという結論に達した。1979年の有名な論文"Time Without End"(終わりのない時間)で、ダイソンが計算した結果によれば、宇宙が拡張し続けて、さらに背景放射の温度が低下していく限り、生命およびその産物、すなわちテクニウムは決して終わることのない十分なエネルギーを得るだろう。驚くべきことに、技術的文明が連続的に拡大するためには、無限のエネルギーを必要とはしない。「銀河系にあるエネルギー資源は、人間社会と比べておよそ10の24乗倍くらい大きい社会を永久に維持するのに十分である」とダイソンは書いている。しかし、銀河系規模の技術が拡大することの代償は、その「計算」速度が遅くなることである。銀河系が回転をやめ、星が光るのをやめると、宇宙で最も熱い物質と最も冷たい背景放射との温度差によって、利用できる自由エネルギーが減少する。しかし、社会による計算が銀河間通信を通じて広範囲に広がり、また、作業の周期が遅くなれば、理論的には技術は永遠に前進し続けることができる。ダイソンは次のように総括している。「宇宙の温度が低下し自由エネルギーの蓄えが減少するとき、知識や記憶という資源が増大していれば、生命と知性は不死になる可能性がある。そして、もしかしたら、宇宙のさまざまな部分に存在する知的生命は、知り合いの範囲を常に広げながら知識をやりとりして、情報伝達のネットワークを永遠に活かしておくこともありうる。」この見通しは予言ではなくて、可能であることの最大限度を示そうとする賭けである。ダイソンの計算は、テクニウムの絶え間ない拡大が不可能ではないことを示している。したがって少なくとも近未来の間、たとえば太陽の寿命の間は、宇宙では継続的に技術が進化する可能性がある。

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テクニウム(および生命)の複雑さは、あらゆる物質のエントロピーを継続的に低下し減少させることによってゆっくりと築き上げられている。技術はエントロピーと廃棄物の流れを凝縮する仕掛けであり、それによって、エネルギーおよび物質は自分自身を再整理して、狭い範囲における大きい複雑度となる。現代のノートパソコンは電池で動作する。その電池は大きな発電機で充電される。発電機は大量の石炭を燃やす。石炭は光合成による太陽電池の集光器(すなわち植物)を何十億個も圧縮した化石である。それは何年もかけて光を集めて、燃焼可能な炭素を蓄積したものである。このように漏斗状の集中が次々と連なって、太陽での熱核融合(訳注:原文では熱核分裂)から始まり、(太陽と比べれば)微小な装置での持続的な複雑さに至る、大きい落差の定常的な流れを凝縮させる。実際にわずかな量の複雑さを作るためには、エントロピーとエネルギーの幅広い大量の流れが必要である。最初のエネルギー差が少なければ(恒星から遠くにある惑星上のように)、その落差は小さく、さらなる構造を作るために必要とされるエネルギー捕捉量は大きくなる。

しかし、複雑度の増加とテクニウムは、それがなければ暗くなっていく宇宙にあって、一部分を照らす一筋の光にすぎない。フリーマン・ダイソンが「豊かさと複雑さにおいて宇宙は限りなく成長すること、すなわち、生命の世界は永遠に生き続けることを発見した。」と言うとき、その無限の豊かさはごく一部の空間に限られている。

この「限りのある無限の技術」という逆説は、次のように説明できる。新しい可能性を切り開くようなあらゆる技術的境界は、同時に制約事項を固定してしまう。技術は動作する基準(交流110ボルト(米国の場合))を決定する。あるいは、意思を伝達する言語(アスキー)を決める。あるいは技術的慣習(右回りのねじ)を決める。そしてそれがうまく働く限り、私たちはその制約を守り続ける。その原動力は進化にある。生物学的には私たち人間は、原始的な爬虫類の脳や、何十億年も続くクレブス回路や、時には最適化されていない原始タンパク質を保持している。私たちはそのような制約を次世代に繰り越す。なぜならば、それがうまく働いていて、変更することが「高価」だからである。つまり、何らかの他の可能性は達成されないということだ。一見したところ、DNAは限りない数の生命体の可能性を開拓しているのに、実際にDNAが作ることができる身体的形態は無限でも無数でもない。宇宙における多数の原子の配列方法が天文学的数字であるということに比べると、宇宙に存在する可能性のあるすべての身体的形態の範囲という観点では、DNAに基づく生命体の数は非常に小さい。また、DNAに支配される生命体の進化の過程を通じて、いかなる時点から見たとしても、それ以前とその時点とを比べれば、制約は増加し、絶対的な可能性は減少している。生命や技術における成功は、絶対世界における可能性を否定する。事実上、新規性は、絶対的な可能性のうち「不可能」である部分の範囲を拡大する。

実際に、ビッグバン以来、不可能は拡大し続けている。全く最初に量子が集まって特定の物理的な素粒子になったとき、その物質化のせいで、素粒子が結合してできる原子の可能性の範囲は減少した。また、その他の実現しなかった可能性を「不可能」の領域に閉じこめた。物理学が反物質よりも物質を好むようになった時点で、反物質の絶対的可能性は完全に閉ざされた。実在の原子が優勢になったとき、いろいろな物質の反応を支配する特定の種類の化学ができて、それ以外の化学は不可能の領域に閉じこめられた。宇宙ができた最初の時期に元素の周期性が決まったとき、炭素と水の特別な地位も定められて有機分子による可能性が拡張したが、それと同時に「不可能」の領域も拡大した。

複雑度が次々と上昇する各段階は、原子の創造に始まって、そこから銀河、星、生命体、知性、技術などのシステムへと流れ込む。これらは現実世界では可能性を切り開くものだが、それと同時に絶対世界の潜在的な可能性を閉ざしている。この可能性の減少は、しだいに狭くなる経路に沿って革新を進めていく傾向があり、それは必然性の源であるとも考えられている。理論家のスチュアート・カウフマンは次のように述べている。「生物圏および宇宙全体は、到達していたかもしれない可能性の全領域のうち、驚くほど小さな領域の中に力学的に捕捉されているのだろう。」

絶対的な無限の潜在可能性の観点では(これを神の視点と呼ぶことにしよう)、進化や技術における革新は、次にできることの選択範囲を狭めている。絶対世界での実際の可能性は縮小している。人間が技術を複雑にすればするほど、次に発明できることについての制約が増加する。しかし、テクニウム自体の観点では(これを自己中心的な技術の観点と呼ぶことにしよう)、人間が達成した革新のおかげで、他の発想を考案することが容易になる。人間が技術を複雑にすればするほど、技術の発展する余地が広がる。何も技術がない最初の時点から考えると、可能な技術の空間は常に増加し続けている。新規に作られたその領域は、私たちの以前の発明が自ら生み出したものである。技術の観点では、領域は拡張している。フリーマン・ダイソンがその著書の題名で示しているとおり、"infinite in all directions"(すべての方向へ無限に)である。(邦訳『多様化世界 ―生命と技術と政治』)しかし、絶対的な視点では、テクニウムはある特定の方向へ無限に拡張している。

このような二重性は、「可能性の保存」と考えることもできる。いかなる方向への革新も、今まで手が届かなかったいくつかの可能性を切り開く。時間が経つと生命体や人工物は、ある可能性の段階から、隣接する次の可能性の段階へと進んでいくと考えられる。しかしそれと同時に、次の可能性への移動は、他の可能性を閉ざすような本質的で複雑な制約を生み出す。("Ordained-Becoming" を参照されたい。)したがって、現実の可能性が達成されると、絶対的な可能性は減少する。生命体や技術が複雑になればなるほど、その進路にはより多くの制約ができ、また、より多くの潜在的可能性が無視されるようになる。たとえば電気のように可能性を開く発明があれば、その発見で今新たに可能となる発想の大陸が開けてくるが、そのような概念が、現実の電荷、実際の電流、特定の電圧というように物理的に具体化するので、電子を別の方法で利用する別の形態へ到達することが困難になる。

進化が生命の系統樹のようなものであれば、生命の起源の巨大な幹は、時間の経過とともに次第に細く複雑になる。幹から枝になり、それが小枝になり、さらに細い末端の枝になり、葉柄になる。進化の系統樹が長ければ長いほど、枝はどんどん細くなり、ついには限りなく細い髪の毛のようにになる。この図式における細い枝は、特定の生命体あるいは技術である。このとき進化の枝は、つねに分割し網目状になり、扇形に広がり樹木のような形になる。この限りなく細い枝の集団は、一定の方法で空間を埋めつくし、無限に絡み合うクモの巣状になる。

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デイヴィッド・ヒリスによる生命の系統樹

ある特定の時代の技術は、存在する可能性のあるもの全てを実現することはできない。それ以前の技術の履歴や、技術を規定する基準などによって技術の能力は制限されている。「存在しうるもの」の世界では、テクニウムによる可能性は相対的に小さい領域だけしか占めることができない。たとえば、霊的な存在を信じることによって初めて達成できるような深遠な技術については、私たちの現代の科学技術ではもはや扱うことができない。この障害があるために、テクニウムは一連の隣接する段階をたどって、そのような霊的な技術に到達することができない。たぶん「到達不可能」な技術は、隣接する技術であっても普通ではない組合せ、すなわち、同じ世界に同時には存在しないような技術の組合せを必要とするのだろう。

それでも、重要な点においてテクニウムは生物の進化と異なっている。知性は、近くのものとは似ていない遠くにある可能性に行くために、隣接する可能性を跳び越えていくことができる。約40億年前には、生命は一つ一つ段階を踏んで、可能性を進んで行かなければならなかった。先を見ることもなく、次の可能な形態を跳び越えることもなく。遺伝子を持って生まれてきた生命体は、DNAやホメオボックス遺伝子や発達の履歴に内在する、厳しい制約に束縛されていた。生物の複雑度が大きければ大きいほど、次の可能性という選択肢によってより多くの制約を受けていた。

知性の進化は、このような状態を全く変えてしまった。知性は隣接する進化の段階とはまるで違う可能性を想像することができる。知性を持った生物は、DNAに基づく知性であっても、より多くの選択肢で進化を誘導することができる。知性は技術という身体を通じて自由を作る装置なのだ。80億年、すなわち地球の2倍の長さにわたって、生命が進化してきた惑星を想像してみよう。その期間に、その惑星の生命体は、地球上で見られるよりも何億種類も多くの風変わりな生物を生み出しているかもしれない。このような活発で豊富な生命体の中には、地球上では知られていない独創的な生命体がいるかもしれない。もしかしたら温血植物とか、都市規模の高層ビルのような巣を作る生物とか、空気より軽い飛行船みたいな生物とか。そして、何百何千もの非常に賢い生物もいるだろう。しかし、もしもそのような生物がどれもみんな、想像力を発揮して意図的に遠く離れた可能性へ飛び移ることができず、あるいは過去の可能性に逆戻りすることができないとすれば、その豊かな世界全体は、そこでの生物学固有の性質に制限されている。それは技術のない世界であり、限定された自由意志の世界である。「遺伝子による専制が30億年続いてきた。その専制が1万年のうちに一つの種、すなわち人類によって、不安定な状態で屈服させられたばかりである。私たちは、記号言語と文化を発明することによって、専制を打倒した。……私たちは、選択する自由と失敗する自由を遺伝子から奪い返した。」とフリーマン・ダイソンは書いている。

自由意志は複雑さによって拡張される。原始的細胞は、その動作について、単純な細胞小器官が持っているよりも多くの選択肢を得た。光感知器と運動のための鞭毛を持つ生命体は、その動作について、原始的細胞よりも多くの選択肢がある。キリンは竹よりも多くの自由度を持つ。多くの器官を持ち高度に構築されたものであればあるほど、より多くの方法でシステムが失敗したり変化したりする。多くの変化があればあるほど、より多くの選択の自由度がある。

宇宙にある物はすべて、ある程度の自由意志を持っている。量子粒子でさえも。素粒子はどちら向きにスピンするかを「決めて」いる。宇宙線はいつ崩壊するかを決めている。無意識に、しかしたしかに選択している。「ゲーム・オブ・ライフ」というセル・オートマトンの実演模型を発明した数学者のジョン・コンウェイ、そのほかフリーマン・ダイソンなどの科学者たちは、次のように主張する。素粒子のスピンや崩壊は、ごく微量の自由意志があるとしなければ説明がつかない。コンウェイが共著者となっている2009年の論文、"The Strong Free Will Theorem"(強い自由意志の定理)では、こう述べている。「人間に自由意志があるならば、素粒子にもこの貴重な財貨の持ち分が少しはある。……確かに、この(素粒子の)自由は、人間の自由についての究極的な解釈であると考えるのが自然である。」そして、コンウェイは精巧な数学的証明を構築する。素粒子の決定については、ランダムな偶然性では説明がつかないし、また決定論でも説明がつかない。したがって、残る可能性は自由意志による選択である。素粒子が自由意志を持つのであれば、それが大量に集まった物質はすべて自由意志を持つはずだ。

進化によって物質の複雑さが蓄積されて、物質の自由意志は増加する。最小の量子粒子にある基本的な自由意志が拡大して、進化した生物では行動の選択肢が増加する。食べ物へ向かって進むことを選択する虫は、この世界では目新しいものだった。不活発な化学の世界では決して見られなかった水準の選択であった。複雑度が増加する曲線 ("the arc of increasing complexity") は、自由意志の兆候が拡大する筋書きでもある。技術の出現によって自由意志の程度は、物事のあり方を変えるほどの新しい水準に上昇した。自意識の強い知性であれば、技術という道具を使ってソースコードをいじって、自分の遺伝子のプログラムを作り直し、表現型を変えたり、基質を変えたり、本質的にその履歴を書き換えたりできるだろう。また、自意識によって明らかになったことは、自意識が自由意志を持っているという重要な事実である。

人間が技術の進歩を加速するにつれて、自由意志を表現する新しい方法が急速に発展する。人工知能が安価でどこにでもあるようになると、その結果として、高度な自由意志を既存の環境に注入することになる。もちろん人間はロボットに知能を与えるが、その他にも、自動車、椅子、ドア、靴、書籍などに選択のためのわずかな知性を埋め込む。先天的不活性という束縛から無生物を解放し、「間違いをする自由を奪い返す。」ちょうど人間が自分でそうしたのと同じように。超個体規模の知能が全世界的なインターネットから出現することは、たぶん起こりそうだから("Evidence of a Global SuperOrganism"(地球規模の超個体が出現する証拠)の記事を参照されたい)、超個体に埋め込まれた自由意志と自由の規模と様式は、今までの地球に存在しなかったものである。それは、そして私たちは、新しい種類の間違いをすることができそうだ。

地球規模の知能の恩恵を受けなくても、人間は技術を使って、新しい種類の間違いをする方法を知るだろう。実際のところ、人間がどのようにして全く新しい種類の間違いをするようになるか、と私たち自身に問いかけてみることが、新しい選択肢と自由の可能性を発見するための、おそらく最良の測定基準である。人間の遺伝子を操作することは、新種の間違いをする準備であり、したがって新しい水準の自由意志を示すものである。地球の気候を操作する地球工学も、新しい選択の領域を示すものだろう。また、携帯電話や有線電話を通じてすべての人を他のすべての人に即時につなぐことは、失敗のための新しい選択肢や可能性を解放するものである。

私たちは遺伝子による運命と格闘して、今では思い通りに自分自身を作りかえる能力を獲得しつつある。しかし進化やテクニウムの教訓によれば、私たちはあらゆるものになれるわけではないし、選択したものにもなれない。私たちの未来の進路には制限がある。テクニウムは多くの要因によって制約されている。システム固有の偏向のせいで、私たちが考えたことをすべて実現できるわけではない。さらに、たぶん人間は可能なものをすべて考えられるわけではない。より複雑な物を作れば、技術の進路はますます一定の方向に束縛されるようになる。新規性の地平を切り開くために、可能性をもたらす技術を発明すると、そのたびごとに他の新規性の経路が手の届く範囲から締め出されている。長期的な技術の進路は、ある意味では、テクニウムと進化の性質の中に(そして人間独自の歴史に)深く埋め込まれた固有性と必然性に導かれている。注目すべきことだが、テクニウムで起こることは事前に決められている。

だが、それと同程度に注目すべきことは、技術は自由意志と選択の力を拡張し続けている。私たちは今、多くの能力を持っている。そして、多くの発想を開発するにつれて、将来にはその先の進路を自分で決定するための能力をより多く持つようになるだろう。しかし、複雑度の性質と自然の複雑度のせいで、何にでもなれるという選択肢は全くない。私の予想は先に述べたとおりで、短期的にも、そして非常に長期的にも、人間の選択肢が拡張したとしても、進化や生命や知性には制約と限界がある。

フリーマン・ダイソンは、知性と技術の長期的動向について、誰よりも多く書いている。そこで彼の文章を再び引用する。「どれだけ深く未来に進んで行っても、そこでは必ず新しいことが起こり、新しい情報が到来し、探求すべき新しい世界があり、拡大し続ける生命や意識や記憶の領域がある。」世界の本質は楽観的であるという点で、私はダイソンの意見に賛成する。しかし、知性があらゆる方向に無限であるというダイソンの主張は誤りであると思う。

生命や知性は、ある特定の方向に拡大する傾向がある。だからこそ、過去においてよりも今のほうが、進歩がより見えやすく認知できるのだ。可能性を制約したり閉鎖したりすることで、人間が進んで行く方向が決まり、人間の行動が明瞭になる。自由度が高くなり、自由意志が現れ、より多くの選択肢(限られた範囲であるが)があり、さらなる専門化とより多くの進化がある方向へ向かって、人間は進んでいる。これらはすべて、無数の可能な選択肢があった中で(それはすでに閉ざされている)、ある特定の方向を示している。もし私が正しければ、将来には、人間はある意味でより大きな進歩を遂げているだろう。なぜならば、私たちの進路はますます明瞭で具体的になるからである。選択の樹形図でどんどん細くなっていく枝を考えると、人間の将来はますます狭くなると同時に、量においては拡大する。これは私たちが向かっている先にある二重性だ。テクニウムは、ある方向には無限である。





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posted by 七左衛門 at 22:44 | 翻訳