2009年10月04日

「技術の意義に関する私の探求」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "My Search for the Meaning of Tech" の日本語訳である。



技術の意義に関する私の探求  My Search for the Meaning of Tech

私は今までの人生の大部分で、ほとんど物を所有しなかった。30歳まで私は放浪者だった。安いスニーカーと破れたジーンズを身につけて、アジアの辺境を歩き回っていた。私がよく知っている都市は、中世的豊かさで満ちていた。土地には農業による緑があった。そのころ私が何かを触ると、それはほぼ確実に木か繊維か石でできていた。手を使って食事をし、山あいの谷を通って足で歩き、どんな場所ででも寝た。ほとんどお金を持たず、品物はなおさら少なかった。個人的所有物は、寝袋といくつかのカメラがすべてだった。

アジアを離れて1年たったとき、安い自転車を買って、荷物籠をいくつか借りて、その自転車でアメリカ大陸を西から東へ横断した。東海岸に着く前に、自転車以外の物はすべて捨てた。その旅行で印象に残っているのは、ペンシルベニア州東部の整然としたアーミッシュの農場を走り抜けたことであった。私は、アーミッシュが所有について選択的であることを尊敬している。私自身の生活が複雑な技術と無縁であることは、アーミッシュの生活と同様だと思う。私は自分の生活において、技術を最低限にとどめるように意識している。

それから数年後、私は32歳でカリフォルニアに来て、とうとう自動車を持った。始めたばかりの事業の自動化に使うために、友人の計算機(モデム付の初期のアップルU)を借りた。そして、すぐにオンライン生活に没頭するようになっていた。世界初の、消費者によるパソコンソフト批評の雑誌を編集した。それから、新しく勃興したインターネットのための、最初の一般向けポータルサイトを開設することに関与した。1992年には、雑誌「ワイヤード」 ―デジタル文化公認の広報誌― の創刊と編集に手を貸した。それ以来、私は新技術導入の最先端付近をうろついている。今では私の友人は、スーパー・コンピューターや遺伝子薬学、検索エンジン、ナノテクノロジー、光ファイバー通信など、新しい物をいろいろ研究開発している人たちだ。私は、技術の持つ変革力をすっかり受け入れている。

でも、5人家族の我が家には、テレビがない。私は、ポケットベルもPDA(携帯情報端末)もカメラ付携帯電話も持っていない。ノートパソコンを持って旅行することもない。最新必携の道具を入手するのが、私の周囲の人たちの中で最後になることも多い。技術から一定の距離を取るためには、精神力が必要だと思う。

それと同時に、私は、クール・ツールズ(Cool Tools)という毎日更新のウェブサイトを運営している。そこでは、消費者のための厳選された技術を広い範囲にわたって紹介している。精巧な工業製品が川のように私の事務所を流れている。その多くは決して消えることがない。超然とした態度を取りながら、私は、技術の選択肢をわざと手の届く範囲にとどめておこうとしている。

この明らかな矛盾のせいで、私と技術との逆説的な関係について考察するようになった。過去1年半にわたって、私は、技術の歴史、技術評論家たちの議論、技術の未来予測について、さらに、少しだけだが技術哲学の書物についても研究してきた。すべて単純な疑問に答えるためである。新しい技術が出現したとき、どのように考えるべきなのか?

それは、近ごろ私たちを悩ませる多くの疑問の核心である。人間の文化において技術が存在感を増すことの本質について、当惑しているのは私だけではないだろう。物事について考える最良の方法は、それについて書くことだと思う。だから、当たり前以上のことを考えるために、私は技術の持つ意味について本を書く。

原稿を書いたらここに掲載する。このサイトの目的は、私の投稿から対話を生むことである。まとまりきっていない考え、覚え書き、自問自答、初期の草稿、他人の記事への反応などを掲載することで、私が本当に何を考えているかを見つけ出していきたい。

この18ヶ月の間に、私は何度か考えを変えてきた。そして、新しい洞察を得ることで、また考えを変えることを期待している。正直なところ、私は自分の偏向を明らかにしておきたい。

私は今50代である。今でもたくさん旅をして、増加しつつある世界の人口といくらか残された原野を見ている。豊かな国、発展途上の国、いずれも多く訪れている。私は古代史、秘教史、経済史、現代史など多くの歴史書を読んだ。見たり読んだりしたものに基づいて、私は、大規模な物事には進歩があると考えている。さらに、技術は全体として良いものだと感じている。そして最も重要なことだが、私の個人的見解の根底には、神への強い信仰がある。それは、私の疑問の構成を見れば、間違いなく明らかなことである。

これらのことは、近ごろの教養ある人々にとっては、偏った考え方ではない。そして私の課題は、私の結論(それが得られたとき!)を、証拠と説得力のある議論とで裏付けすることである。

私はこのサイトを「テクニウム(The Technium)」と名づける。これは技術という大きな領域をあらわすために、不本意ながら私が作った言葉である。それはハードウェアだけでなく、文化、法律、社会の組織、そしてあらゆる種類の知的創作物を含む。要するに、テクニウムとは人間の知性から湧き出るものすべてである。形のある技術だけでなく、それ以外の多くの人間の創作物も含む。技術の範囲をこのように拡張して見たとき、それは独自の原動力を持った完全なシステムだと私は考えている。

このサイトで、私はテクニウムを研究しようとしている。テクニウムは何を求めているのか?なぜ人間はそれを受け入れるのか?それは(もし神がいるとして)どのように神と関連があるのか?テクニウムの進行速度と将来の進路について、人間はどのような統制ができるのか?

コメント欄や電子メールで、読者諸氏の反応を知らせていただきたい。とくに、独自の考えや見過ごしていた事実を知りたいと思う。政治的公正はあまり気にしない。正確さと正直さには関心がある。(人が何を考えたり言ったりしているかよりも、実際に何をしているか、ということに関心がある。)

私へのメールはkk at dot org のアドレス宛に送ればよい。





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posted by 七左衛門 at 14:26 | 翻訳