著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門
この文章は Kevin Kelly による "Will Spiritual Robots Replace Humanity by 2100?" の日本語訳である。
2100年までに精神的ロボットは人類にとってかわるだろうか?
Will Spiritual Robots Replace Humanity by 2100?
2000年4月にダグラス・ホフスタッター(『ゲーデル・エッシャー・バッハ』の著者)が「2100年までに精神的ロボットは人類にとってかわるだろうか?」という問題についての討論会をスタンフォード大学で開催した。参加者には、ビル・ジョイ、レイ・カーツワイル、ハンス・モラベック、ジョン・ホランド、そして私などがいた。問題は重大なものだった。
私は、問題を構成する一つ一つの言葉を分析して、問題に答えることにした。
2100年:
長期的に考えるとき、特に技術については、人間の世代を単位として考えると非常に有益であると思う。大雑把に見て、1世代は25年に相当すると考えている。文明は約1万年前に始まっている(最古の都市エリコは紀元前8000年頃にできた)。ということは、エリコやその他の世界中の都市に現存する文明は、約400世代を経ているのだ。400回の母から娘への生殖の繰り返しがあった。文明を持った400世代の人間とは、そんなに長いものではない。私たちは、他にすべきことがあまり多くなければ、きっと400世代の名前をすべて覚えていられることだろう。400世代を経て、最初と比べると私たちは違う人間になっている。ほんの8世代ほど前に自動人形やロボットを思いついた。2世代前に最初の電子計算機を作った。ワールド・ワイド・ウェブ(WWW)ができてから2000日もたっていない!2100年というのは、人間の寿命が今のまま変わらないとして、わずか4世代先である。2100年に人間がロボットに変身するとしたら、文明を持った人間は、たったの400世代だけ存続したことになる。これは生物の歴史の中で、最も短命な種だろう。
人類:
これからの世紀における中心的な課題、重要な問題は、「人工知能とは何か?」ではなくて、「人類とは何か?」ということだろう。人類は何の役に立つか?来世紀のUSAトゥデーのような新聞には、「人類とは何か」という疑問が何度も形を変えて見出しになるだろう。映画や小説、会議、ウェブサイトなどは、すべて「私たちは何者か?人類とは何か?」という重要な問題に取り組むだろう。何でも可能であって、しかし何も確かなものがないという、豊かで長い好景気が続くと、人間の正体に関する疑問のほうがその答えよりも多くなるだろう。男であること、女であること、父であること、米国人であること、あるいは人間であることの意義は何か?これからの1世紀は、壮大な地球規模での百年にわたる自己認識の危機と言えるかもしれない。2100年になる頃には、今現在の私たちが人間とは何かをわかったつもりだったことに、みんな驚いているのだろう。
とってかわる:
とってかわるというのは、自然界では非常にまれな事態である。今、2百万種の生物が存在するのは、新しい種の多くが古い種にとってかわらなかったからである。そのかわりに、既存の生命体を織り交ぜたり、すき間を埋めたり、また、他の種の成功を足場にしたりしている。既存のものにとってかわるよりも、新しいすき間を開拓するほうがはるかに容易である。種の絶滅は、たいていは侵害者によって起きるのではなく、他の要因、たとえば気候変動、彗星、自ら招いた混乱などによるものである。人類が何かにとってかわられたり、絶滅したりすることはありそうもない。人間が何であるかを私たちが知らないという前提で、私たち人間の役割は変化しそうではある。人間が消滅するよりも、人間が自分自身を再定義することのほうが、はるかに可能性が高い。
ロボット:
ロボットは人間の子どもだというハンス・モラベックの説が、大筋では私は気に入っている。人はどうやって子どもを育てるだろうか?子どもが必然的に自立するように訓練する。子どもが私たちの管理下を離れなければ、私たちはがっかりするだけでなく、非情になるだろう。革新的で、想像力豊かで、創造的で、自由であるためには、子どもはその作者の管理を離れる必要がある。それは私たちの想像上の子ども、ロボットについても同じである。10代の子どもの親で、心配することもなく、まったく不安もないという人がいるだろうか?技術の能力は、その制御不能性、すなわち、人を驚かせたり物を生み出したりする固有の能力に比例するということに、人間が気づくまでには長い時間がかかった。実際のところ、ある技術について心配することがないとすれば、それはまだまだ革新的ではないのである。強力な技術には責任が求められる。ロボットの生成力には、重大な責任が伴う。人間は、ロボットという子どもが良い市民になるように躾をすることを目指すべきである。それは、私たちがロボットを自立させたときに、ロボットが責任ある判断をできるようにするための価値観を教え込むということである。
精神的:
私たちが想像できる最も精神的な出来事は何だろうか?ET(地球外生物)との検証可能な接触という事態があれば、それは既存の伝統的宗教の基盤を揺るがすだろう。ETが何と答えたとしても、神の問題についての論争を再燃させる。映画「コンタクト」は神学者がスターである唯一の映画だと思う。しかし私たちはETと接触するのに、SETI(地球外知的生命体探査)プロジェクトを待つ必要はない。ETを作ればそれが可能になる。すなわち、ロボットを作るのである。このようにしてETは別の名前、AI(人工知能)と呼ばれるようになる。AIが人造人間であると心配する人たちもいるが、それは全く間違っている。AIは人工の異星人というほうが近い。すでに電卓は、算数に関してはこの部屋にいる誰よりも頭が良い。どうして私たちはそれが脅威に感じないのか?なぜならば、それは「別のもの」だからである。異なる種類の知能。人間より優れているが、特にうらやましいとは思わない知能。最も賢いAIを含めて、人間が作る知能は「別のもの」なのだ。意識の種類という可能性の空間の中でも、私たちの知っている1種類(人間)の他に、2百万種類の知能がありうる。それぞれが独特で、電卓とイルカほどの違いがある。人間の知能の複製品を作る理由は何もない。その従来版を作るほうが容易だからである。次の世紀に人間が努力するのは、(人工も天然もあわせて)既存のあらゆる知能を使って、すべの可能な新しい知能を作ることである。このような新しい知能に出会うことが、今すぐ想像できる最も精神的な出来事であると私は考えている。
だろうか:
技術には独自の計略があると私は思っている。私がいつも自分に問いかけている疑問は、技術が何を望んでいるか、ということである。技術が人間の子ども、それも十代の子どもであるならば、一般的に十代の子どもが欲しがるものを知ることが役に立つだろう。私たちが技術と呼んでいるシステムにおける生来の衝動、固有の偏向、内在的な傾向は何か?技術が欲しがっているものがわかったとき、その欲求すべてに屈服する必要はない。若者の要望にすべて応える必要はないが、それでもすべてに反対することもできない、というのと同じだ。技術が望むいろいろのことは起こる『だろうか』?私は起こると思う。私たちが技術に関して知っているのは、技術はより小さくなろうとしていること(ムーアの法則)、より速くなろうとしていること(カーツワイルの法則)、そして私の推測だが、技術は人間がすることを何でもしたがっているということである(ケリーの法則)。私たち人間は、他の生き物に、そして、しだいに他の知性にも、多大な価値を見出している。ロボットだって、人間を重要だと思わないはずがない、と私は思う。ロボットは人間がすることを何でもできるだろうか、あるいは、人間がすることをしたがるだろうか?それは違う。人間は、人間がしたくないことをロボットにさせようとしていることが多い。それならば人間は何をするのか?ロボットのおかげで、人間は初めて「何でもしたいことをする」と言えるようになるのだ。
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