著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門
この文章は Kevin Kelly による "The Evolutionary Mind of God" の日本語訳である。
進化する神の精神 The Evolutionary Mind of God
神について人間が作成した記述で、矛盾のないものは存在しない。人間が思いつく程度の神の定義は、必ず複数の無限を必要とする。たとえば全能、全知、あるいは永遠の存在というように。しかし、ある存在が「すべての方向に無限」であるとき、その無限性は交錯し、互いに矛盾するようになる。子どものなぞなぞで、神様は自分で持ち上げられないほど石を重くすることができるか、というものがある。これは無限性が相互に対抗するときに、無限の能力が混乱することを示す単純な事例である。
神に特有の矛盾は、神学者が他にも多く指摘しているが、たいていはこの無限次元の闘争に起因する。ある存在が無限に公正であって、しかも無限に慈悲深いことはありうるのか?どうすれば限りない知を持ち、しかも自由意志を持つことができるのか?そして、もしも神を無限より小さなものとして定義すれば、ごく少数の次元だけで小さいとしても、それは誰も尊敬しようとは思わない神になってしまう。私たちはわずかな知性しか持たないが、それでも人間は、さらに偉大な神、すなわちすべての方向に無限な神を想像することができる。たとえ、そのように定義した神が矛盾に満ちたものであったとしても。(この議論で神というのは、何も飾りがなくて、宗教的衣服という余分な重荷を除いた状態とする。)
しかし、神を抜きにした世界の記述というのも、また矛盾に満ちている。発端がなくて、どうして存在が始まるのか?世界が決定論的であるならば、その最初の動きは何が決めたのか?無限の空間の中で、何でも有限なのはなぜか?
少なくとも限りのある人間の知性にとっては、神の実在も神の不在も、いずれもありえないという結論になってしまう。この二つの可能性は、もちろん、まったく人間の理解を超えている。そして、そこに内在している、人間にとって明らかな矛盾は、人間よりも優れた知性で解決されるのだろう。
たしかに、神の実在を主張する一部の有神論者は、矛盾に反論するために、神は言葉では表せないと言っている。すなわち、神は人間にとって不可知であり、したがって定義がないのだという。これは、神不在の現実性を少なくとも定義可能であると主張する無神論者にとっては、責任回避のように見える。無神論者は、自分の見解の矛盾に対して、人間の無知と無能は科学で克服できると主張する。最近の強烈な広報活動と注目を通じて、無神論者は、現代文化の暗部から外に出て神々の宗教を非難し、現代的で技術指向の人々の興味を引きそうな、神不在という優れた見解を宣伝している。そして、実際に人気が出てきた。科学オタクや技術マニアたちは、今の無神論の科学的な取り組み姿勢をきわめて魅力的だと思っている。
しかし、近ごろ、存在の根拠を想像する第三の方法が出現した。これも技術マニアに非常に魅力的なものである。それは世界最古の神学を起源とするが、科学的かつ技術的な理解によってその古代的な方向性を若返らせている。私自身が、教養と分別のある人々と議論して判断したところによれば、この第三の見解は、彼らにとっては無神論という空白よりも魅力的であるらしい。長い目で見れば、この考えは、神への信仰に飛び込むことができない人たちの賛同を得るように思われる。
新しい第三の方法とは、一種の汎神論である。正統的な神の定義では、神は世界を超越している。その正統的考え方によれば、世界は神に由来する創造物である。世界の神に対する関係は、物語や絵画の人間に対する関係と同じである。作者として、人間は名作を超越している。世界は、その創造者の性質を反映しているが、それは断固として「他者」である。創造者と創造物の両者がからみ合う最も奥深いところでは、肉体と精神のような二重性に突入する。作者は作品の精神だと言ってもよいだろう。4世紀の昔からアウグスティヌスの比喩にあるように、世界は神の精神のための肉体である。
無神論では、もちろん二重性はない。世界はただ存在するだけである。しかし汎神論では、少なくともその復活版では、単一性をもった神性という概念を提示する。汎神論には実に多くの歴史的な変化形が存在するが、その大部分は文字通りの解釈と記述、すなわち「すべて、神である」と要約することができる。創造物と神は分離していない。すべては一つである。汎神論の哲学者は、神が世界を超越すると言うかわりに、神は世界に内在すると言うことを好む。意識が出現して以来、神秘主義者たちは、驚くべき事実に気づかされるようなことを主張してきた。すなわち、世界は神であるのだから、そうすると私たち一人ひとりの中にも神を包含している。あるいはもっと衝撃的なことは、人間が神であるとも言える。私たちが見るところに、どこでも神が存在する。そして、このことは、世界に関するこの見解において、矛盾の原因となるところである。
もし神がすべてのものであるならば、神というのは、強姦、殺人、不正行為、戦争、破壊、そのほか思いつくかぎりのあらゆる悪いものを含むことになる。東洋の最古の宗教では、このような神の二面性、すなわち、陰と陽という観点を認めている。しかし神が文字通りすべてのものであれば、それは無意味だ。神でないものが残らないからである。神の境界線が広がって、世界のすべてのものを含むようになれば(あらゆる方向に無限)、それについて何も合理的な話をすることはできない。なぜならば、すべての言葉が意味するものは究極的に同じもの、すなわち神ということになるからである。神と神でないものの区別がなければ(神でないものは存在しないのだから)、神と世界という二つの観念は、自己矛盾する同語反復になる。すべて=すべて。それにもかかわらず、この矛盾する見解は、同様に矛盾を持つ他の二つの見解よりも魅力的な性格を持っている。
神秘主義者は別として、汎神論の魅力は、古代における世界についての理解に妨げられている。世界は名詞であり、物であり、あるいはいろいろな物の集まりであり、たとえば分子、星、惑星、雨、光であり、その他に、普通でない変わった人たちでもある。おそらく、昔の無教養な羊飼いや農民は、これを神として崇拝し、その偉大さと不思議さに敬意を表することができたのだろう。しかし、このような固定的な神の特質は、見識ある人にはあまり魅力がない。世界という大きなものであっても、それは大きな神のようには思えない。世界に対する私たち人間の見方が変化するにつれて、汎神論の魅力も変化してきた。
科学によって物質世界を解明したところ、そこには一定不変のものはほとんどないことがわかった。物理学者が固体を解体していくと、その大部分が空間であり、そこに回転する粒があることがわかった。その回転する粒を解体すると、また、その大部分が空間であり、さらに小さな粒がわずかに存在することがわかった。このようにわずかな粒が次々と出てくるのは、ほとんど無存在の状態と同様であり、それが「ずっと向こうまで」続いているということである。世界の大部分は無なのだ。さらに驚くべきことは、何か物だと思っていたのは情報であるらしい、すなわち、私たちが物質だと思っていたものはすべて物質ではないらしい、ということである。基本的な要素は、常に何か別の物に変化している。静的なもの、すなわち名詞であるものは何もない。バックミンスター・フラーは述べている。「私は動詞であるらしい。」
さらに実験を進めると、物理的世界はその核心部分では、幽霊かと思ってしまうような性質、すなわち同時に二つの場所にいたり、あるいはどこにもいなかったりする能力を持つことがわかった。物は他の物との関係によってのみ定義することができる。物理学者が世界を観察すればするほど、肉体は存在せず、精神だけがあるかのように見える。この世界の微妙な性質は、神秘主義者を驚かせることはなかっただろうが、普通の人に対しては、表現し難い自分の意識と、この世界の微妙な特質が、同じ立場にあることを容易に理解させられるようになった。すべては一つである。
しかし、「すべては一つである」というのは「すべては神である」という意味ではない。「すべては神である」という理解へ私たちを向かわせる力は、進化であると思う。進化は、有神論者には非難されてきたし、無神論者には、神を(そして人間を)王座から立ち退かせるものとして歓迎されてきた。進化は、人間を世界の中心から動かして周辺に追いやろうとする長い一連の洞察の中で、最新のものだと通常は見られている。それは(どの立場からも)宗教に対する解毒剤だと一般に考えられている。太陽系の中心軸から地球を追い出したコペルニクスに始まって、太陽系を銀河系の端へ追いやり、さらに銀河系を宇宙の中心から押し出したハッブルその他の人たち、あるいは人間の世界を一つの宇宙から、複数の宇宙による仮想空間へと移動させた最近の理論家まで。これらの移動は、人間にあると思われていた特別性を縮小して、人間の歴史はありふれたもので、重要性が低く、普通なものであるということの自覚を増加させ、さらにその結果として、人間にあるはずだった役割と神の必要性を減少させた。
しかし、ダーウィンは、人間を主役からすっかり転落させて、宇宙の一点にある銀河の、その一点にある恒星の、その一部分の影にある、小さな惑星に住む生命体の、脇のほうの枝にしてしまった。進化論がもたらしたこのような理解のしかたは、宇宙の中で何もない未分化の状況から、見えない力がどのようにして良い物を作るのかという一端を、いきなり見えるようにしてくれる魔法の眼鏡みたいなものである。この力は、私たちが知っている生物だけでなく、たぶん想像できる限りのどんな生物でも作り出すことができる。私たちが数学を正しく理解しているとすれば、進化の中に存在する力は宇宙全体に広がっているように思われる。それはビッグバンのときに解放されたという。そしてそれは私たち自身の意識を作ったのと同じ力であるらしい。今では私たち人間の意識は、そして見方によっては精神も、すべての物質の起源にまでさかのぼると考えることができる。人間が言葉をこのように読むことができるのは、つねに増加する複雑度が切れ目なく続いていて、それを t = 0 までたどることができるからである。
これはまだ完全な汎神論ではないが、そこに近づいている。その間隙を埋めるものは、計算機である。計算機は、進化の世界の中に神を置いてしまった。ハードウェアではなく、ソフトウェアのコード、そしてプログラムの必要性。それに加えて、計算を知性にたとえる新しい比喩。人間が進化を見るとき、私たちはそれがソフトウェア・プログラムだと思う。遠く離れた目に見えないところで、進化が力を得る。何かすごいコンピューター・ゲームとたぶん同じように、私たちに何度も反応を返して、成長し、変化し、そして絶え間ない驚きを与えながら、それが外に向かって拡張する様子を見ている。プログラマーの内在性が、自分の作った活動的で複雑で難しいコードに埋め込まれるというのも理解できる。この新しい見方では、物質は情報のビットであり、それはある初期状態からの間接的結果として絶えず変化していると考えられる。世界はそれ自身のプログラムを作っているプログラムなのだろう。進化は知性に似ていると考えることができる。進化は適応し、解決策を求め、そして今では存在意義にまでそれ自身を高めているからである。
長い長い何十億年という単位で、宇宙ができた最初の瞬間から現在までの、ゆっくりと展開する複雑度の眺望や光景を考えると、たしかに、宇宙とは知性が集まったもののように思えてくる。ビッグバンのときの未分化のエネルギーは、宇宙空間が拡大することで冷却され、計測可能な実体として融合し、時間がたつにつれて、粒子が凝縮して原子になる。さらに拡張と冷却が進むと、複雑な分子が形成され、それは組織化されて自己再生可能な実体になる。時計の一刻みごとに、増加する複雑度がこの萌芽期の生命体に加わる。また、システム全体に変化と複雑度が加わる速度も増える。進化が進化するにつれて、適応と学習の方法を蓄積し続けて、ついに動物の知性は自己認識するようになる。この自己認識は、より多くの知性を考え出し、それらをあわせた多くの知性による世界は、すべての物質の限界を超越する。私たちは一つの知性になる。それは主上心であり、神の知性である。
驚くことではないが、この現代の進化論的汎神論には、宗教的信奉者がいる。キリスト教徒の中では、その一派はプロセス神学として知られている。思い切り単純化して言えば、神を動詞として、すなわちプロセス(過程)として表現する。神はすべての方向に無限である途方もない存在ではなくて、変化しつつある、あるいは(この言葉には時間を伴うので、彼らはこんな言葉を使わないが)進化しつつあるものである。すべての方向に無限ではない神を受け入れることについて、初期には嫌悪感があったが、動きのない神よりも進化する神のほうが優れているという最近の評価によって、それはある程度克服されている。君はどう思う?どちらの神のほうが偉大だろうか?向上することができない神と、常に完全へ向かっている神と。進化が教えてくれるのは、少なくとも人間の知性が理解できる範囲においては、後者のほうがより大きな存在であるということである。進化は私たちに、そのことを遅ればせながら認めさせようとしている。いかなる論理体系にも矛盾が内在するのは避けられないということがゲーデルの定理で明らかになっているが、それとある程度同じように、プロセス神学では、神に内在する論理的矛盾は不可避なものとして受け入れている。
あらゆる神の定義と同じように、進化論的汎神論にも不合理が含まれている。実際のところ、理論的にこの見方をより正確に表現すると「万有内在神論」("panentheism")というものだろう。すなわち、その信奉者はケーキを残しておきながら、同時にケーキを食べたいと思っているのだ。キリスト教の神学者は、次のような見解を持っている。神は超越している(この世のものではない)し、イエス・キリストという形で(この世界の中に)内在するという、二つの面を同時に持っている。神は自らの選択によって、その限りない神という概念を非常に小さな人間の身体という形に限定した。その一方で、イスラム教は、超越した神が自分自身を特別な内在性に限定するというこのような考え方に反対している。イスラム教では、ムハンマドは神の内在ではないという立場をとり、このような誘惑を防御するために彼の肖像を禁止している。進化論的汎神論はまっすぐな内在性を受け入れやすい。神は自分自身が進化していて、その進化のことを私たちは世界と呼んでいる。
現時点では、少数の巡回伝道者たちがこの精神的進化という教義を、聞こうとする人には誰にでも説教している。彼らはそれを「偉大な物語」(the Great Story)と呼んでいる。それは、世界が目を覚ましつつあること、進化が神の力であること、人間すべてが神の拡大する知性にかかわっていること、などについての物語である。
世界についての記述や存在の根拠の記述には、すべて矛盾が満ちあふれている。神のいない世界、神の世界、そして神である世界、すべて論理的にあり得ないものばかりだ。あなたにとっての、あり得ないものを選ぶとよい。
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