訳 :堺屋七左衛門
この文章は Kevin Kelly による "The Singularity Is Always Near" の日本語訳である。
特異点はいつも近い The Singularity Is Always Near
計算機とワールドワイドウェブについて、今、私たちは特異点に似た出来事を経験しているような本能的な感覚がある。しかし、この特異点という概念は、進行中の変革を説明するのに最適ではない。
特異点というのは物理学から借用した用語で、ブラックホールの中で状況が激変する分岐点を示すものである。正統的な用法では、物体がある点を越えると、それに関するものは何でも、たとえば情報でさえも抜け出すことができず、ブラックホールの重心に引き込まれる。言い換えれば、物体がブラックホールに入るところは確かであって感知できるが、ひとたびこの不連続点を過ぎると、その物体の未来に関することは何もわからなくなる。無限へ向かう途中のこのような断絶を、特異な出来事 ―― 特異点という。
数学者でSF(空想科学小説)作家のヴァーナー・ヴィンジは、この比喩を加速的な技術の進歩に適用した。計算機の能力は、指数関数的にどこまでも増加しているが、ヴィンジはそれを憂慮すべき光景だと思った。ヴィンジの分析によれば、そう遠くないある時点で、計算機の能力の進歩によって、私たちは、人間よりも賢い計算機を作ることができるようになる。そしてその賢い計算機は、それよりもっと賢い計算機を設計することができる。それがさらに続く。計算機が新しい計算機を作る循環は、非常に速くなって、たちまち、想像を絶するほどの知能水準に達する。このような知能指数と能力の進歩をグラフに書くと、すぐに無限大に達するような上昇曲線になる。数学的な表現としては、それはブラックホールの特異点と似ている。なぜならば、ヴィンジが言うように、その境界の向こう側については何も知ることができないからである。人間が人工知能を作って、次に、その人工知能がより優れた人工知能を作る、それが無限に続くとすれば、そのような人工知能の未来は、私たち人間には知ることができない。ちょうど、ナメクジには人間の生活が理解できないのと同じように。したがって特異点はブラックホール、すなわち、私たちから未来を隠している見通しのきかない覆いになる。
伝説的な発明家で計算機科学者のレイ・カーツワイルは、このたとえに注目して、広範囲の技術の最前線に適用した。この種の指数関数的増加はコンピューター・チップに限ったことではなく、情報によって革新が促進される多くの分野、たとえばゲノム学、電気通信、商取引などで起こっていることを立証した。テクニウム(訳注:文明としての技術)そのものは、テクニウム自身の速度で変化している。カーツワイルは、人間の脳の神経の処理能力と計算機のトランジスターの処理能力とを大雑把に比較してみると、計算機の知能が人間の知能を上回る点を見出すことができると考えた。そして、それが交差する特異点がいつ発生するかを予測した。カーツワイルの計算では、2040年ごろに特異点が発生する。それはもう明日のようにも思える。だからカーツワイルは、「特異点は近い」と鳴り物入りで宣言している。そうこうするうちに、すべてはその点へ向かって進んでいる。それより先で何が起こるのか、人間には想像することが不可能な時点へ向かって。
特異点の向こう側がどうなるのか、すなわち、きわめて高度な知能をもった頭脳が、どのような世界を私たちにもたらすのか人間にはわからないが、それでもカーツワイルやその他の人たちは、私たち人間の知性が不死になると信じている。なぜならば、きわめて高度な知能の集合体を使えば、人間の知性をダウンロードしたり、コピーしたり、あるいは永遠に補修したりすることができるというのだ。人間の知性(すわなち私たち自身)は、改良された身体があってもなくても存在し続ける。そうすると、特異点は未来への入口または架け橋となる。あなたがすべきことは、2040年の特異点発生に間に合うように、それまで生きていることだけである。それまで生きていられたら、あなたは不死になる。
この特異点と携挙(the Rapture ラプチャー)との類似性を指摘しているのは、私だけではない。あまりにも似ているので、一部の評論家は特異点のことをスパイク(Spike)と呼んでいる。それはキリスト教原理主義における、終末の決定的瞬間を思わせる言葉だ。携挙というのは、キリストが再臨するとき、すべての信者は普通の生活からいきなり空中に持ち上げられて、死を経由せずに天の不死不滅の世界へ導かれることである。この特異な出来事によって、改良された身体、永遠の知恵で満たされた完全な知性ができる。そして、それは「近い将来」に起こることになっている。そのような期待は、技術の携挙、つまり特異点とほとんど同じである。
カーツワイルの説による特異点には、多くの仮定が含まれているので、それを解明してみる価値はある。なぜならば、技術の特異点に関する話の多くは誤解を招きやすいものだが、その考え方もある意味では、たしかに技術的変化の原動力をとらえているからである。
第一に、人工知能の特異点によって不死が保証されることは決してない。いくらでも理由を挙げることはできるが、私たちの「自我」はあまり移植可能ではなさそうだし、新しい人工的な永遠の身体なんて少しも魅力的でないし、超越した知能だけで身体的な死という問題を直ちに解決できるわけでもないだろう。
第二に、知能というものが、現時点の状態から無限に拡大できるかどうかわからない。私たちは人間の知能より優れた人工の知能を想像することができるのだから、ブートストラップ(自分で自分を引き上げる)という方法を適用するのに十分な知能を現時点で持っていると考えられる。常に増大している人工知能の特異点に到達するためには、人間の賢さは、より優れた知能を作るというだけではなく、さらにその次の水準の知能を自ら作り出すような知能を作ることができなければならない。チンパンジーは蟻の何百倍も賢いが、蟻よりも賢いチンパンジーの知能では、それ自体より賢い知能を作り出すのに十分ではない。すべての知能が、ブートストラップする知能としての能力を持っているわけではない。他の種類の知能を想像することはできるが、それ自体を複製する能力がない知能を第1種の知性と呼ぶことにする。第2種の知性は、自分自身を複製できる(人工知能を作ることができる)が、それを大幅に賢くすることはできないものだ。第3種の知性は、十分に賢い知能を作る能力があって、その知能がさらに賢い次の世代を作り出すことができるというものである。私たちは人間の知能は第3種だと想定しているが、それは仮定にすぎない。人間の知能が第1種である可能性もあるし、あるいは、特異点で即座にブートストラップするのではなく、ゆっくりと進化してより優れた知能になっていくのかもしれない。
第三に、数学的な特異点という概念は幻想である。指数関数的増加のグラフを見れば、その理由がわかる。カーツワイルの多くの例と同様に、指数関数のグラフはロケットのようにまっすぐ直線的に上昇して増加する。あるいは両対数目盛のグラフであれば、指数関数的増加はグラフの軸に含まれているから、増加はまったく直線になる。カーツワイルのウェブサイトには多数のグラフがあり、すべては特異点に向かって直線のような指数関数的増加を表している。しかし、“いかなる”両対数目盛グラフについても、時刻ゼロ、すなわち現在においては特異点を示す。もし何かが指数関数的に増加するならば、それが無限大に向かって上昇するように見えるのは、必ず「ほぼ現在」の時点なのだ。
世界の主な出来事が指数関数的割合で発生していることを示す、「特異点へのカウントダウン」というグラフを見てみよう。それは数百万年の歴史にわたって、レーザーのようにきれいな直線を描いて突進している。

Ray Kurzweil (2005). The singularity Is Near から。
しかし、そのグラフを30年前で止めずに現在まで延ばすと、何か奇妙なことが見えてくる。カーツワイルのファンであり評論家でもあるケヴィン・ドラムは、「ワシントンマンスリー」(Washington Monthly)に書いた記事で、このグラフを30年前で止めずにピンクの部分を追加して、現在まで延長した。

Kevin Drum (2005). The Singularity. Washington Monthlyから。
驚いたことに、それは今現在が特異点であることを示唆している。さらに不思議なことは、そのグラフに沿ってほとんどすべての時点で、同じ見解が正しいように思われる。もしも、ベンジャミン・フランクリン(昔のカーツワイルみたいな人)が1800年に同じグラフを描いたとしたら、フランクリンのグラフも、そのときの「たった今」の時点で、特異点が発生していることを示すだろう。同じことはラジオの発明のとき、あるいは都市の出現のとき、あるいは歴史のどの時点でも起こるだろう。グラフは直線であって、その「曲率」すなわち増加率はグラフ上のどこでも同じなのだから。
グラフの形式を変更しても役に立たない。指数関数的増加を等分目盛のグラフに書いたとき、垂直に近い漸近線になるものが特異点だと定義すると、指数関数的に増加するグラフ上の任意の端点で、そのような無限大の傾きを得ることができる。すなわち、指数関数的増加の中にいる限り、時間軸に沿ったどの点においても、特異点は「近い」ということだ。特異点とは、指数関数的増加を過去にさかのぼって観察するときに、いつでも現れる幻影に過ぎない。グラフは宇宙の始まりに向かって、正確に指数関数的増加をさかのぼっているから、これは何百万年にもわたって、特異点はまもなく起ころうとしていることになる!言い換えれば、特異点はいつも近い。今までいつも「近い」ままであったし、将来もいつも「近い」のだ。
たとえば、知能の定義を拡大して進化(一種の学習)を含むことにするとしたら、知能はブートストラップし続けてきた、つまり、賢いものがより賢くなることの無限の繰り返しだと言えるだろう。そして、そのグラフには、不連続あるいは離散的な点はない。したがって、結局は、特異点はいつも近くにあったし、また、将来もいつも近くにある。
第四に、最も重要なことだが、特異点に代表されるような技術の変化は、特異点に代表される(というのは不正確だが)ような変化の「内部」からでは全く認識できないと思う。ある水準から次の水準への転換は、新しい水準にある高い視点から、すなわち、そこに到達した後でしか見ることができない。神経細胞との比較において、頭脳は特異点のようなものである。低い部分からは見えないし想像もできない。神経細胞の視点から見れば、脳へ通報するための少数の神経細胞から多数の神経細胞への活動は、神経細胞の集合による、ゆっくりとした連続的でなめらかな道程のように見えるだろう。そこには途絶の感覚、携挙の感覚はない。その不連続は逆方向に見たときにのみ知ることができる。
言語は文字と同様に、ある種の特異点である。しかし、その二つへ向かう行程は、その習得者には連続的であって感知できない。友人から聞いたおもしろい話を思い出した。十万年前に原始人たちが、たき火のまわりに座って最後の肉のかけらを口の中で噛みながら、喉の音でおしゃべりしていた。一人がこう言った。
「おい、みんな、俺たちは話しているぞ!」
「話している、ってどういうことだ?おまえ、その骨は食べ終わったのか?」
「俺たちは、お互いに話し合っている!言葉を使っているんだ。わからないのか?」
「また、あのぶどうの何とかを飲み過ぎたんだな。」
「今、俺たちがしていることだよ!」
「何だって?」
組織の次の段階が始まるとき、現在の段階にいる間は新しい段階を把握できない。なぜならば、その認識は新しい段階において起こるはずだからである。全世界的な文化が出現する中で、新しい段階への転換は実際に起こっているが、その変化の途中では認識できない。たしかに、いろいろなことの速度は速くなっているが、それは本当の変化、すなわち物事のやり方が変わっていることを隠しているだけだ。したがって、私たちは次のようなことを予期することができる。今後数百年にわたって、生命が当たり前のように途切れることなく続いて、決して大変動はなく、その間ずっと新しいものが蓄積する。それはやがて私たちが、ある種の道具を手に入れたことに気づくまで続く。その道具を使って、何か新しい道具が存在することを認識し、さらに、その新しい道具はしばらく前にすでに出現していたことを認識するのである。
私がこのことをエスター・ダイソンに話すと、彼女は、私たちが毎日特異点に近い経験をしていることを指摘した。「それは目覚めである。後から振り返ると何が起こったのか理解できるが、夢の中にいるときには、目が覚めるかどうかわからない……」
今から千年後に、その時点のあらゆる11次元グラフは「特異点が近い」ことを示しているだろう。不死の存在、全世界的意識、その他、私たちが未来に期待することは、すべて実現し、実在しているかもしれないが、それでも3006年の対数目盛のグラフは、やはり特異点が近づいていることを示すだろう。特異点は不連続な出来事ではない。それは非常にひずんだエクストロピー的(進化し続ける)世界に織り込まれた連続体である。それは、生命とテクニウムがますます速く進化するにつれて、私たちとともに移動する幻影である。
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