著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門
この文章は Kevin Kelly による "The 2-Billion-Eyed Intermedia" の日本語訳である。
20億の目によるインターメディア The 2-Billion-Eyed Intermedia
著作権代理人のジョン・ブロックマン(私の著作権代理人でもある)は、毎年、一つの質問に的を絞った仮想サロンを主催している。
今年の質問は「インターネットはあなたの考え方をどのように変えたか?」というものだった。
私の回答は、他の170人の回答とあわせてエッジ(Edge)に掲載されている。
この件については、みんながきわめて多様な意見を述べていて、そこから学ぶことが多い。ある場合には、「ああ、そうだ。これは現実に起こっていることを明確に説明している」と思ったりする。私が気に入っている回答は次のとおり。ダニー・ヒリス (Danny Hillis)、シェリー・タークル (Sherry Turkle)、クレイ・シャーキー (Clay Shirky)、サム・ハリス (Sam Harris)、スチュアート・ブランド (Stewart Brand)、ジョージ・ダイソン (George Dyson)。
私の回答をここに示しておく。
みんながすでに知っているとおり、技術を利用するようになったことで人間の脳の働きは変化した。読み書きは認識のための道具であり、ひとたびそれを身につけると、脳が情報を処理する方法は変わる。心理学者による実験で、MRIのような神経画像技術を使って人間の脳の様子を比較すると、文字の読める人と文字を知らない人では、作業の対象が読むこと以外である場合についても多くの相違が見つかっている。
研究者のアルシャンドル・カストロ=カルダスは、脳の半球間の情報処理が識字者と非識字者とで異なることを発見した。識字者は脳梁の重要部分が太く、また「成人後に読むことを習得した人は、通常の年齢で習得した人と比べて、後頭葉の情報処理に時間がかかる。」心理学者のオストロスキー=ソリス、ガルシア、ペレスの3人は、識字者と非識字者の脳波を計測する一連の認識実験を通じて次のような結論を得た。「読み書きの能力の習得によって、認知活動全般に関する脳の組織が変化する。それは言語だけでなく、視覚認知、論理的推論、記憶方法、形式的思考操作などにも及ぶ。」
識字能力が私たちの思考方法を変えるとすれば、インターネット利用能力、および1日10時間も何らかの画面の前にいることは、私たちの脳を変化させているだろう。画面利用者として成長した最初の世代は、ちょうど成人期を迎えつつあるところだ。したがって、普遍的ネット接続が及ぼす効果についての完全な科学的研究は存在しない。しかし私自身の行動に基づく予感がいくつかある。
私は長い割り算をするとき、あるいは掛け算をするときでも、途中の数値を記憶しようとはしない。はるか昔に、それを書き留めておくことを習得した。紙と鉛筆のおかげで、私は計算について「賢く」なった。それと同じように、私はもはや事実を記憶しない。あるいは事実をどこで発見したかを記憶したりしない。私はそれをインターネットで召喚することを習得した。インターネットは私の新しい紙と鉛筆であって、私は事実について「賢く」なった。
しかし、今の私の知識は、ますます脆弱になっている。みんなが認める知識だと思っても、その一つ一つに対してその事実に異議を唱える人がすぐ近くにいる。あらゆる事実には、その反事実がある。インターネットの過剰なハイパーリンクは、事実だけでなく反事実も同じように強調表示する。反事実には、ばかげたものもあれば、正当なものもあり、境界線上のものもある。それをより分けるのに専門家に頼ることはできない。なぜならば、どの専門家にも、それに匹敵する反専門家がいるからである。したがって、私が知ることは何でも、至る所にある反事実によって減退するおそれがある。
何についても私の確信は減少している。権威ある意見を取り入れるのではなく、自分にとっての確信を得るだけになっている。私の関心があること以外でも、接するものすべてがそうなっている。そこには、私が直接知ることができない分野も含まれている。これはすなわち、大体において自分の知識が間違っていると考えるようになるということだ。この状態は、科学については良いことなのかもしれないが、それと同時に、誤った根拠に基づいて私が自分の意見を変えるかもしれないということにもなる。いずれにしても、不確実性を容認するようになったのは、私の思考方法が変化したことの一つではある。
不確実性は一種の流動性である。私は自分の考え方が、より流動的になったと思っている。本に書いてある文章みたいに固定的な考えではなくて、たとえばウィキペディアの文章みたいに流動的になった。私の意見はさらに変わる。私の興味はすばやく増加したり減少したりする。私は絶対的な「真実」には興味がない。複数の、いろいろな真実たちに興味がある。多くのデータを整理して客観をまとめるときには、主観が重要な役割を果たすと思う。不完全な科学は一歩ずつ徐々に発展していくが、それは何かを知るための唯一の方法なのだろう。
ネットワークのネットワークに接続していると、私は自分自身もネットワークであるような気がする。信頼できない部品を集めて信頼性を達成しようとしているのだ。データの流れの中に散在している半真実、非真実、あるいはその他いろいろな真実たちをまとめて、真実を構成しようと追求するとき(このような知識の生成は今では私たち一般人がすることであって、権威者の仕事ではない)、私の心は流動的な思考方法(シナリオ、暫定的な意見)に魅力を感じているように思う。また、流動的な媒体、すなわちマッシュアップ、ツイッター、検索などに惹かれる。しかし、このつかみどころのないウェブの思考の中を動いていると、それは白日夢のような気がしてくる。
夢は何のためにあるのか、本当のところはわからない。わかるのは、何らかの基本的な欲求を満たすということだ。ネットサーフィンしている私を誰かが見ているとすれば、どこかのおすすめリンクから次のリンクへとんでいく私の様子は、白日夢のように見えるだろう。今日、私は、裸足の男が泥を食べているのを見る群衆の中にいた。その次には、歌を歌っている少年の顔が溶け始めた。次には、サンタがクリスマスツリーに火をつけた。次には、私は不安定な世界の頂点にある土の家の中で浮かんでいた。次には、ケルト結びが勝手にほどけた。次には、ある男が透明なガラスを作るための調合を私に教えた。次には、私自身が高校時代に戻って自転車に乗っているところを見た。それは私のウェブ生活で今日の朝に起こった最初の何分かのことである。まとまりのないリンクをたどるときに陥る催眠のような状態は、ひどい時間の無駄なのかもしれない。あるいは、夢と同じように、生産的な時間の無駄かもしれない。たぶん、私たちは、集合的無意識の状態に入り込んでいるのだろう。それは、テレビ、ラジオ、新聞などしっかりした方向づけのある情報の流れを見ているときにはあり得ないことだ。もしかしたら、クリックによる夢では、何をクリックするかに関係なく、みんなが同じ夢を見ているのかもしれない。
このインターネットと呼ばれる白日夢は、私の真面目な思考とふざけた思考の境界を不鮮明にする。もっとわかりやすく言えば、オンラインでは、働いているときと遊んでいるときの区別がつかなくなってしまった。ある人たちにとっては、この二つの世界の崩壊こそがインターネットの悪い部分を示しているという。インターネットは、高価で時間を浪費させるものだ。インターネットはつまらないものを増殖させる。私はそれとは逆の意見で、有益な時間の無駄は創造性のために必要な前提条件であり、大切なものだと考えている。何よりも重要なこととして、インターネットが成し遂げた最大の功績は、遊びと仕事の融合、真剣な思考とふざけた思考の融合だと思う。
実際のところ、インターネットが人間の注意力を減退させるというのは大げさすぎる話だ。ごくわずかな情報であっても、情報過多の私の頭脳から最大限の注目を集めることがある。私だけではない。速くて微小で断片的な情報の魅力にはかなわないとみんなが言っている。この絶え間ないビットの集中砲火に対応して、インターネット文化では、大きな作品を小さな断片に分解して売ることが流行っている。音楽アルバムは切り刻まれて、曲ごとに売られている。映画は予告編になったり、あるいは短い断片映像にさえなっている。(予告編のほうが映画本体よりも良いことが多いと私は思う。)新聞はツイッターの投稿になる。科学論文は抜粋になってグーグルで提供される。私はこの増大する断片の海の中で楽しく泳いでいる。
ネットに駆け込んで、このような断片的情報を探している、あるいは明晰夢を見て回っている間は、私の思考がいつもと違うことに気づいた。私の思考は、より積極的になり、あまり熟慮しなくなっている。疑問や直感をあてもなく心の中で思いめぐらすのではなく、自分が知らないというだけの動機によって私は何か行動を始める。私は直ちに、即座に、動き出す。
私は見たり、さがしたり、頼んだり、質問したり、データに反応したり、飛び込んだり、メモやブックマークや行動記録を作ったり、何かを自分の物にしようとしたりする。待つことをしない。待つ必要はない。今の私は、何か思いついたら熟慮するのではなく、まず行動する。ある人たちにとっては、これはネットの最大の欠点、すなわち熟慮の喪失である。また他の人たちは、このような浅薄な活動は、ばかげた見せかけだけの仕事であり、空回りであり、幻影の行動だと感じている。だが私はひそかに考える。それは何と比べてなのだろう?
比べるとすれば、テレビや弱い物いじめの新聞を受け身の姿勢で見ているとか、新しい情報を受け入れずに頭の中で思考が空回りしながら家にこもっているとかいう状態だ。それと比べれば、私はまず行動することで生産的になっていると思う。最近出現したブログやウィキペディアは、これと同じ衝動の表現である。すなわち先に行動して(書いて)、後で考える(選別する)ということだ。今この瞬間に何億人もの人々がネットに接続している姿が想像できる。私の目から見れば、この人たちがくだらない関連リンクで時間を浪費しているとは思えない。50年前に同じ何億人がしていたよりも、もっと生産的な思考方法を取り入れているのだ。
この方法では、小さな断片的作品を奨励することになるが、驚いたことにそれと全く同時に、今までよりもはるかに複雑で大きくて込み入った作品に対しても、多くの注目が集まるようになる。そんな新しい創作物には多くのデータが含まれていて、より長い期間にわたって注目する必要があり、さらにこのような作品は、インターネットが拡大するにつれてさらに成功を収める。この同時並行的な動向は最初のうちは目に見えにくい。これはインターネットと文章を同一視するという、ありがちな短絡的思考のせいである。
インターネットは、第一次近似では画面上の文字である。グーグル、論文、ブログのように。しかし、この第一印象はインターネットの非常に大きな恥部を見逃している。それは画面上の動画だ。人々は(幼い子どもだけでなく)、どちらかといえば、もはや書物や文章を読もうとはしない。何か疑問があれば、みんなは(私を含めて)、まずユーチューブを見る。楽しみのために、私たちはネットに接続してたくさんのゲームをしたり、動画のストリーミングを見たりする。実際の映像もある(ドキュメンタリーが最近見直されている)。新しい視覚メディアがネットに殺到しつつある。インターネットへの注目の対象はここにもある。文章だけではない。ネット上のファン、ストリーミングオンデマンド、あるいは自由自在な巻き戻しなど、インターネットが持つあらゆる流動的能力を使って、100時間以上にもわたる映画を作り始めた映画監督もいる。
「ロスト(Lost)」や「ザ・ワイヤー(The Wire)」のような長大巨編には、複雑にからみ合う筋書き、複数の主人公、途方もなく深い役柄などがあって、見ている間ずっと目が離せない。これは従来のテレビや90分の映画の域を超えているだけでなく、ディケンズをはじめとする昔の小説家たちにショックを与えるはずだ。彼らは驚くだろう。「あれほどの話にみんなついて行ける?しかももっと見たい?何年かかるんだ?」私自身も、そんな複雑な物語を楽しんだり、それを見て時間をつぶしたりすることができるとは全く思っていなかった。私の注目は成長したのだ。これと同様に、深くて複雑で要求の多いゲームは、マラソン映画や長大な本と同じである。
しかしインターネットによって私の注目の方向性、さらには思考の方向性が変化した中で、最も重要なのは、インターネットが一つの物になったということだ。私のしていることを見れば、絶え間ないナノ秒単位のツイート、絶え間ないマイクロ秒単位のウェブサーフィン、チャネルからチャネルへの徘徊、ある本の断片から別の本の断片へとわずか数分の浮遊などをして時間を過ごしているように見えるかもしれない。しかし実際には私は、インターネットに注目することに毎日10時間を使っている。私は数分もたてばそこに戻っていて、来る日も来る日も、実質的に私のすべての注目を使っている。あなたと同じように。
私たちはこの大きな物に対して、真剣で継続的な会話を展開している。それが緩やかに結合した多数の小片でできているという事実のせいで、私たちの目はごまかされている。ウェブサイトの製作者、大勢のオンライン評論家、映画界の重要人物たちは、彼らの映画を私たちがネットで流すのを不本意ながら黙認している。この人たちは、それが大きな世界規模のショーで見られる単なる画面の画素だとは少しも思っていないが、実際にはそのとおりなのである。今ではネットは一つの物である。20億個の目が画面を注視しているインターメディアである。そこにあるつながりの全体、すなわち、すべての電子書籍、すべてのウェブページ、すべてのツイート、すべての映画、すべてのゲーム、すべての投稿、すべてのストリーミングなどの全体は、一つの巨大な世界規模の本(または映画など)のようなものであり、私たちはその読み方を習い始めたところである。
このように大きな物がそこにあって、自分がそれと常に情報を受け渡ししていると気がついたとき、私の考え方は変わった。
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