訳 :堺屋七左衛門
この文章は Kevin Kelly による "Expansion of Free Will" の日本語訳である。
自由意志は拡大する Expansion of Free Will
テクニウム(訳注:文明としての技術)の進化は自律的である。時間の経過とともに、自己組織化の形態を順にたどって発展する。この自己組織化の形態は必然的なものであるから、私たちはそれに対して備えることができる。しかし、テクニウムの必然的という側面は、人間の自由意志に反するように見えるので反発を招く。
作家のアイザック・シンガーは、以前、冗談半分に言っていた。「私たちは必ず自由意志を信じなければならない。そこに選択の余地はない。」この種の破れかぶれな考えは、技術が進化する方向性に対するほとんど本能的な拒絶として出現することが多い。「私たちはテクニウムに内在する方向性を拒否しなければならない。それは、自分で自分の運命を決めるという人間の神聖な役割を減退させるからである。」
しかし、科学はどうなっているだろうか?進化の自律性については今のところ状況証拠しかないが、自律性があるという主張を検証する方法は、いろいろ考えられる。生物の進化について自律性があることの証明としては、合成生物学を使って実験室で生命の自己組織化を誘発する実験を何度も実施して、類似の進化が発生する回数を計測することで証明できそうだ。あるいは、いつの日か、宇宙で地球以外に生命を持つ星を見つけられるかもしれない。生命体を発見したら、その異星人の進化経路を私たちの進化と比べて、その類似度を照合することができる。このような発見があれば、反証可能性のある証拠となる。生物の進化に自律性があって、一定の普遍的な軌跡をたどることが科学的に証明されたならば、人間の選択が生物の方向性に何の影響も与えないといって人間がその事実を拒絶することはないだろう。人間による選択の範囲と、生物の進化の方向性とは別の独立した問題なのだ。では、テクニウムについてはどうか。テクニウムは進化を加速すると同時に、テクニウムには独自の出現順序による自律的な方向性もあるということを科学が証明したとすれば、人間はそれに異議を唱えるだろう。なぜならば、テクニウムが自律的であるということは、テクニウムに対する人間の選択を否定すると考えられるからである。しかし、人間が選択する範囲の大小は、テクニウムが自律的であるかどうかということには影響を及ぼさないはずだ。
実際のところ、人間の選択肢が減少するという心配は見当違いである。自由意志は、技術の要請によって妨げられるものではない。それどころか、自由意志は拡大する。技術に内在する要請は、人間の自由というものの立場を変えるだけである。最近実現したとおり、安価な通信システムが地球全体を取り囲むようになると、地球表面を覆う神経を組み合わせて、一種の電子的な「世界の頭脳」ができることは当然の結果である。そのとき人間のとりうる選択肢は、次のようなものだ。この通信システムの外皮を使って、どのようなインターネットを作り出すことを選択するか?そのシステムのデフォルトは、開放的か、閉鎖的か?そこに参加すること、手順を変更すること、共有すること、隠すことが容易であるか、あるいはそのようなことが面倒だったり、独占されていたりするか?技術自体は、人間をある特定の方向性へ偏向させようとするが、ウェブの細部においては多くの異なる展開がありうる。しかし、必ず出現する世界的なウェブをどのように表現するかは、人間の重大な選択である。
さらに重要なこととして、この必然の技術的局面が到来すると、そのおかげで広大な新しい領域が広がる。その方向は必然的であるにもかかわらず、そこでは自由意志を行使できるようになる。テクニウムが発展する経路には、自由意志や選択肢や可能性を増大させる方向への明らかな偏向がある。技術は選択を求めている。インターネットは、今までの技術には見られないほどの選択範囲や選択肢を提供する。ウェブそのものは未熟であり、この文章を書いている時点で誕生後ようやく6千日経過しただけで、まだ試作品のような段階であるが、この未発達の神経細胞層には、私たち一人一人が選択の範囲を拡張するための手段が多数見られる。
しかし、テクニウムは人間の選択肢を拡大するだけではない。長期的に見て、テクニウムによって自由意志が人間以外のものや機械など全般に広がりつつある。このような意志作用の拡大は、40億年前に生命が出現したときに始まっている。こちらに行くか、あちらに行くか、あるいは、これをするか、あれをするかという選択をする小さなものがそのときに生まれた。実際のところ、他のエクストロピー的(進化し続ける)傾向と同じように、自由意志の増大が本当に始まったのは、ビッグバンで原子が生まれたときである。理論物理学者のフリーマン・ダイソンが言っているように、素粒子がいつ崩壊するか、あるいは、素粒子がスピンする方向をどう選ぶかなどは、自由意志による行動だと言わざるをえない。粒子の顕微鏡的な動きは、すべて可逆的であり、粒子の今までの位置や状態に応じて物理法則によってあらかじめ決まっている。だが、粒子が自然に分解して下位の粒子とエネルギー線になること、あるいは、粒子の回転方向を選択することは、そうではない。その崩壊の瞬間あるいはスピンの変化は、可逆的ではないし、物理法則で決まっているわけでもない。このような宇宙線への崩壊やスピンの方向は、他のすべてが決定論的である世界において、真に「偶発的」な出来事である。しかし、この非決定論的な「偶発性」は、実際のところ、最も微小で量子的な自由意志の表明である。数学者のジョン・コンウェイは、計算機の画面で生命のような図形を表示するライフゲーム(ゲームオブライフ)の開発者だが、その主張によると、素粒子のスピンや崩壊は偶発性では説明できないし、決定論的でもない。したがって自由意志という選択肢しか残っていない。コンウェイは次のように書いている。
読者の中には、素粒子の反応の非決定性について「自由意志」という語を使うことに反対する人がいるかもしれない。素粒子に自由意志があるという著者の挑発的な結論は、意図的なものである。著者らの定理によれば、実験者に何らかの自由意志があるというならば、素粒子にも全く同じ自由意志がある。実際に、私たち人間の自由を説明しようとすると、究極的にはこの後者の自由に行き着くのは当然だ。
素粒子の自由意志については、技術的議論が他にもある。理論生物学者、物理学者のスチュアート・カウフマンは、次のように言っている。この偶発的ではない非決定性、すなわち自由意志は、二つのスリットで粒子が遅延選択するという有名な実験に見られるのと同種の、量子デコヒーレンスおよびリコヒーレンスの結果ではないかと思われる。あの有名な実験では、1個の光子が二つの平行なスリットに向かって発射される。しかし、波動かつ粒子である光子は、スリットを通った後で初めて、スリットを波動として通るのか粒子として通るのかを選択して(この動詞に注意されたい)計測される。量子力学の専門用語で言えば、波動でも粒子でもある状態(重ね合わせ)のデコヒーレンスは、後からそれを計測したときに崩れて単一の選択となる。カウフマンによれば、量子コヒーレンスの変化が意志作用の源泉であるという。これは突飛な考え方ではあるが、粒子が自由意志を持つという考え方は突飛ではない。
はるか昔に、量子物質が凝集して大きな原子の化合物になり、舞い上がる土煙のようなものになり、ついには核酸となるという過程で、粒子に内在する微小な量子的意志作用がこのような組織の拡大に貢献している。たとえば、自然に崩壊した粒子から飛び出した宇宙線は、高度な秩序を持ったDNA分子の構造の変異の誘因となりうる。「偶発的」な宇宙線が、たとえば、シトシン塩基から水素原子をたたき出したとすると、その間接的な意志作用によって革新的なタンパク質の配列が生まれることもある。たいていの革新はいずれ死に至るが、運良く変異すれば、生命体にとって生存に好都合な状況となる。DNA システムは、有益な特質があればそれを保持し、また、それを基盤にして成長するので、自由意志による好ましい効果は蓄積されていく。意志作用による宇宙線は、このほかに、神経細胞のシナプス発火を誘発する。それは神経や脳細胞にいつもと違った信号を与える。その中には間接的に、生命体がいろいろな能力を持つことを促進するものもある。進化という複雑な機構を通じて、この間接的に誘発された「選択」は、捕獲され、保持され、また拡大される。素粒子の自由意志によって生起した変異が全体として集積し、また何十億年もの期間を経て進化して、より多くの感覚を持ち、多くの手足を持ち、自由度の高い生命体になる。例によって、これはまさしく自己増幅する循環である。
進化の長い経路をたどって、生命の最先端はますます複雑になっている。複雑さが現れるのは、主に、生命体が選択できる手段が増加するところである。バクテリアにはわずかな選択肢しかない。おそらく、食物に向かって動くか、分裂するかだろう。プランクトンになると、複雑度が高くて、さらに細胞機構を備えていて、より多くの選択肢がある。化学的な変動を感知してそれに追従できるし、光に向かって進むか進まないか、という選択もできる。ヒトデは腕をくねらせることができて、敵から逃げたり(素早いかどうかはともかく)、敵と戦うこともできるし、食物を選んだり、交尾したりする。ネズミはその生活の中できわめて多数の選択をする。右か、左か。今か、後か。体の動かせる部分はたくさんある(ひげ、目玉、まぶた、尾、足指など)。その意志が影響を及ぼす環境の範囲も広いし、意志決定をしている生涯の期間も長い。複雑さが増大すれば、可能な選択の度合いも増加する。
頭脳は、当然ながら選択の工場である。選択をしたり、内部で発生した(外部から来るものでなく)難しい決断をしたりする。それと同じように、人工的なシステムでも、無数の新しい選択をしている。そしてバクテリアと同じく、このようなシステムは無意識に、しかし本当に選択をしている。電子メールを送るときには、データサーバー、規則、プロトコル、巧妙なアルゴリズムなど、きわめて複雑なシステムが働いて、あなたの通信文が通っていく中継経路を決定して、相手先まで届く。通信回線の混雑を最小化し、ネットワーク全体の通信速度を最大化するような飛び石状の経路(何百万もある可能性の中の一つ)が瞬時に選択されている。したがって、遠方にある同じ宛先に、もう一通の電子メールを送ったとしたら、ほんの一瞬の後であってもあらためて選択が行われて、全く同じ経路を通るとは限らない。インターネットでは、このような非決定性の自由意志による決断を毎日何億回も行っている。
140億年前のビッグバンから数時間後、細かい霧のような軽い原子や宇宙を飛び回る粒子などの中にある自由は、すべて集めたとしても息が詰まるほど狭いものであった。そこで可能な配置は、きわめて少なかった。ヘリウム原子のとりうる動きの選択肢は、片手で数えられるほどであった。その幽閉状態と、十億年前の宇宙(少なくとも地球の近辺)とを比べると、そこでは生命による自由が圧倒的拡大を見せていた。数百万種の生物がいて、その一つ一つが選択の主体であり、驚くほどの選択が地球の表面を埋め尽くしていた。昔と同じ制約のある水素原子が、こんどは百個ほどの新しい元素(星によってできたもの)と結合して、数え切れないほどの化合物を作った。その相対的な繁栄を現在と比較してみよう。テクニウムは生命によってもたらされた大量の選択を取り入れて、さらに、その選択を指数関数的規模に増大させている。自然の状態では容易に得られない化学物質を作る新しい方法を人間は発明した。また、新しい種類の生命を発明した。今まで宇宙に見られなかったような、新しい種類の動作をする機械を発明した。(仮想世界で何百ものアバターが集まって、宝探しをしているところを想像してほしい。)以前は、人間が考えられる程度の速さで機械が可能性をもたらしていた。今では、機械は人間を待たずに可能性を切り開いている。
このような発明が可能性の範囲を拡大し、また決断の対象となる要因を拡張したが、その他に重要なこととして、テクニウムは自由意志を行使する能力を持つ新しいしくみを作り出している。ファジー論理による電化製品などは、実際に選択をしている。その小さなICチップの頭脳は、競合する要因を比較し、非決定論的方法でファジー論理回路が判断して、いつ乾燥機を停止させるか、あるいはどんな温度で米を加熱するかを決める。いろいろな種類の複雑で適応性のある機構 ――たとえば、あなたが先日乗った747ジェット機を動かしている高性能な計算機制御自動操縦装置など―― は、人間にも他の生物にもできないような新しい種類の動作を生み出して、自由意志の範囲を拡張している。マサチューセッツ工科大学(MIT)の実験用ロボットは、人間よりも何倍も速く動作する頭脳と腕を組み合わせて、テニスボールを受け止めることができる。このロボットは、手をどこへ動かすべきかを決定しながら非常に速く動くので、人間の目ではその動きが見えない。ここでは自由意志は、速度という新たな領域に拡大している。グーグルでキーワードを入力すると、あなたが要求していると思われるページを選択する(これは正しい言葉遣いだ)までに、約1兆件の文書を検討している。あの世界規模の資料をくまなく調べることは、人間には到底不可能だろう。このようにして、検索エンジンは人間を超越した自由選択をもたらしている。
未来の世界、たとえば今から百年後には、人工知能や何か賢いものなどが働いて、自律的な意志決定がテクニウムの奥深くに入り込んでいるだろう。自分で車庫入れをするハイテク自動車は、人間が車庫入れをするのと同じくらいの回数の自由意志による選択をしているだろう。その程度はさまざまだとしても、技術が自由意志を行使する度合いは、今よりも多くなる。
新しい発想や新しい技術は、新しい自由、すなわち行動範囲の拡大を含んでいる。新しい技術が強力であればあるほど、より大きな新しい自由が得られる。ただし、この拡大が悪用されるおそれもある。新しい技術は良いことだけでなく、自由選択による恐怖の手段を提供することもある。あらゆる新しい技術には、新しい過ちを犯す可能性が潜んでいる。実際のところ、ひどく悪用されるおそれのない強力な技術があるとすれば、それは強力ではないのだ。それにしても、技術が拡大すると同時に、私たちの自由意志が働く領域も拡大する。
ビッグバンのときから始まって、自己組織化によって意志選択の範囲が着実に広がってきた。素粒子に内在する微小な選択から、生命体が絶え間なくしているような目に見えやすい選択にまで広がった。自律的な進化の軌跡は、大きく広がりながらテクニウムの中に向かって進んでいる。テクニウムは自由意志を拡大するように作られている。まず最初に、可能な選択肢を増やし、次に選択を行う主体の範囲を広げるのだ。
技術の増大が自由の増大につながるとは言い切れないとしても、選択肢を増加させることが自由の増加と密接な関連があるのは明らかである。世界中の国々において、経済上の多数の選択肢があり、通信について豊富な選択肢があり、教育の機会が多くあることは、自由を手に入れるための最重要項目だろう。
「選択肢が多ければ、機会も増える。」とハーバード大学の技術哲学者、エマニュエル・メッサニーが言っている。「機会が増えれば、より多くの自由が得られる。そして、多くの自由があれば、より人間らしくなることができる。」
テクニウムが進歩するたびに、何らかの選択肢が減っている。(電子の時代になって、蒸気自動車という選択肢はほとんどなくなった。)そして、進化が不変の形態に集中してきて、人間の選択を制限しているように見えるかもしれないが、実際には、テクニウムは未来に向かって広がっていって、自由意志を拡大し続けている。技術が求めているものは、より多くの自由であり、自由意志を拡大することである。
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