訳 :堺屋七左衛門
この文章は Kevin Kelly による "Two Kinds of Generativity" の日本語訳である。
二種類の生成力 Two Kinds of Generativity
あらゆる発明は、最初のうちは曖昧で不完全で変化しやすい。新しい発明や機器は、改変したり再定義したりするようにできている。新しくて中途半端なものについては、人それぞれの受け止め方がある。この段階では、その機器はマニアやオタクやファンやハッカーなどが掌握していて、彼らは誰も考えつかないようなことをしてくれる。この漠然とした曖昧さのおかげで、新しい商品やサービスや発想を生み出す能力、すなわち生成力が得られる。その機器は、発明という最も高級な生成の過程にいる。この状況においては、新しく生まれた機器や発明や発想にはワクワク感がある。新しい機器のすてきな不完全さを求める早期利用者たち(エリートとも言う)から見れば、むき出しで制約のない可能性は魅力的である。
しかし、その他の多数の人たち(大衆とも言う)にとっては、この制約のない曖昧な物を使って何かを生み出すためには、専門技術、調整、知識、苦労、時間が必要である。このような人から見れば、漠然とした曖昧さは難点となる。発明品が不完全で将来の姿がわからないということは、否定的材料なのだ。できたばかりの頃の自動車、風車、ラジオ、携帯電話などを考えてみればよい。その時期には、多くの人がその不完全さを魅力的でない(「そんなものは動かないし、使いにくい」)と考えていた。
しかし、大衆があまり長く待たなくても、発明は自然な経過をたどる。機器が進化するにつれて、用途が専門化して「完全」になる。そうすると、その用途はますます具体的になって、その本質に制約されるようになり、何者であるかが明確になる。本質が進化するにつれて、その装置は強力になる。成熟するにつれて、より完全で親しみやすく理解しやすくなり、多くの人にとって役立つ仕事ができるようになる。
このような状況は、技術のあらゆる分野に見られる。たとえば初期のカメラは、当時の写真オタクたちに大きな自由度を与えた。自分でフィルムを作らなければならないのだから、何でも好きなようにフィルムを作ることができた。赤外線スペクトルを強くするとか、布地にフィルムを埋め込むとか、フィルムを90cm幅にするとか。この時期の写真オタクには大きな自由があった。しかし、大衆向けの写真という概念が明確になってくると、カメラはある一つの特定の方向に集約された。フィルムは新しい規格に準拠して作られるようになる。装備はその役割が明らかになる。その結果として、カメラは写真オタクだけでなく誰でも使えるものになった。そして、数百万人さらには何十億もの人があらゆるものを撮影することで、途方もない生成力が得られた。技術がより具体的になると、それはさらに広く普及する。容易に使える機器がもたらす創造力は、もとの発明者のすばらしい創造力を大きく上回る。
ほとんどすべての技術は、このような過程をたどっている。最初は、とりとめがなくて改変可能な状態から始まり、やがて成熟して信頼できるものになる。早期利用者が愛する多くの性質、すなわち、変更したり調整したり所有したりできること、自由自在に操れること、あるいは無限の可能性などというものは、他の多くの人たちにとっては、それを使うのをためらわせる理由なのだ。それと同様に、技術の特定化と収束は大衆を引きつけるのだが、初期の生成力を好んだ人たちから見れば、まさにそのことが嫌いになる原因であって、その時点で機器には魅力がなくなる。
私たちは過去にこのような変化を多く見てきた。たとえば初期のパーソナルコンピューターでは、12歳の子供が寝室でプログラムを書いていた(やったね!)。でもそれは、しょっちゅう動かなくなっていた(こりゃダメだ)。その後、何百人もがプログラムを書くような巨大プロジェクトになった(ダメだ)。それは、実際に使いやすくて、止まったりせずに動くものになった(よし!)。次に、ウェブがやってきた。生まれたばかりのときには、子供でも簡単にいじれるものだったが、その後、規格ができたり期待がふくらんだりして、人々をひきつけるには手間がかかるようになった。次に、アプリケーションがやってきて、誰でもそれで遊ぶことができる。しかし遅かれ早かれ、それも成熟してあまり改変できなくなる。同様のことが、遺伝学やロボットなどにも言えるはずだ。
時折、このような成熟した製品をきっかけとして、全く新しい発明が生まれることもある。その新しい発明は、再び初期の生成力をもたらす。こうして技術の循環が続いていく。当然、ハッカーやオタクやマニアたちは、その未成熟な領域に群がって、その新しい物の役割を規定することを促進する。
そこで、同じ話が何度も何度も繰り返し語られる。むかしむかし、新し物好きの人たちが電気部品、たとえばコンデンサー、抵抗、鉱石検波器などを自分で作って、それを組み合わせてラジオやその他の装置をでっち上げた。しかし、鉱石検波器やコンデンサーとは何かが明らかになってしまうと、未開拓の領域はラジオを組み立てることへと移って行った。保守的な人が自分のコンデンサーを作る楽しみがなくなったと嘆くところで止まってはいない。次に、ラジオがどんなものかがわかってしまうと、愛好家たちはラジオを作らなくなり、何百種類もある既製品を買ってくるようになった。そして、彼らは自分用のアルテア・コンピューターを作り始めた。それもしばらくのことだ。同様の移行が次々と続いて起こった。自分でコンピューターを作らなくなった?でも、オペレーティング・システムを作ったよ。OSを作らなくなった?でも、自分でプログラムを書いている。プログラムを書かなくなった?でも、自分のウェブサイトのコードを書いたよ。ウェブサイトのコードを書かなくなった?でも、自分用のアプリケーションを作っている。自分用のアプリを作らなくなった?でも、自分のライフストリームを作り出しているよ……。
発明が生まれたばかりのときには、生成力に制約がないが、概念が明確になると生成力は洗練されてくる。発明には当然の傾向があって、このように移行するものだ。一部の人たちの考えによれば、現代の生産と消費の体制のせいで、すばらしい発明から初期の生成力が得られなくなっているということだが、それは誤解である。このような成熟の過程は、工業の時代になるよりもずっと前から常に起こっていた。今は、技術にそなわる当然の循環が加速されているだけである。
新生児には無限の可能性があるが生産性は低い。中年になると生産性は高くなり、すばらしい創造性を発揮する。熟年に達すると、多くの新生児を産み出して未開拓の領域を作り続ける。ここではもちろん、発想や装置のことを言っているのだ。
新しくて形の定まらない、改変しやすい、可能性を秘めた発明は、使用することによって急速に洗練されてくる。使用することで技術は具体的になり、制約ができて、何も知らない人でも使えるようになる。したがって、あらゆる技術は最終的には融通がきかなくなり、不明確な用途においては強力でなくなるが、明確な用途ではさらに強力になる。周辺部から中央へ進出したのである。
幸いなことに、物事が不確実で不明確で全く制限がないような周辺部は、常に存在する。そして、ハッカーにとってさらに良い話がある。周辺部は中心部に比べてつねに拡張し続けているのだ。
【追記】ワイヤードに掲載されたスティーブン・レヴィによる ハッカー再考 に関する記事から補足情報を示しておく。
もともとのハッカーたちと違って、ザッカーバーグの世代は、マシンを支配下に置く作業をゼロから始める必要はなかった。「僕は計算機を分解しようと思ったことは一度もない。」と彼は言う。90年代後半の新進のハッカーとして、ザッカーバーグは高級言語をいじくりまわして、マシンではなくシステムに全力を集中した。
たとえば大好きな「ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ」のゲームをするとき、ザッカーバーグは、たいていの子どもたちがするような、タートルズを使った戦いを実行しなかった。社会を作って、タートルズが互いに交流するようにした。「僕はシステムがどのように働くかということに興味があった。」と言う。同様に、計算機で遊び始めたときには、マザーボードや電話を改造するのではなく、コミュニティ全体を操作する。たとえば、システムのバグを利用して、友人をAOLインスタントメッセンジャーから締め出したりした。
大企業は偶然に新発明を発見して、それを商品化することもあるだろう。しかし、ハッカーは未開拓の新分野に進んでいくだけである。オライリーは次のように言っている。「映画『ラストタンゴ・イン・パリ』でのマーロン・ブランドの台詞みたいなものだ。『これで終わりだ。そしてまた始まる。』」
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