2010年07月12日

「みたいなもの」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "As If" の日本語訳である。



みたいなもの  As If

私たちは、物を作るときに何か別の物を模倣して、「みたいなもの」を作るという世界へ向かって進んでいる。「みたいなもの」の積み重ねによって、模造品を改善し深化させていくと、ついにそれは実際に別の何物かになる。私たちの創造物は「みたいなもの」から始まって「そのもの」に至る。

人工的なシステムは、自然のものを模倣して作られていて、最初は「みたいなもの」の世界で動作する。

・セカンドライフは、計算機が生成した環境であって、視覚や知覚の三次元的細部が利用者を包み込む。そうすることで、利用者は別の現実世界にいる「みたいな」感覚を持つ。

・セカンドライフやワールド・オブ・ウォークラフトあるいはその他の仮想世界での経済は、現実の経済と同じ特徴を多数(ただし全てではない)備えているので、それが現実の経済「みたいなもの」に見える。

・コンピューターウイルスは、生物のウイルスとほとんど同じ方式で複製したり、変化したり、侵入したり、拡散したりする。これはちょうど生物のウイルス「みたいなもの」である。

・ロボットは「みたいなもの」であるが、ますます「そのもの」に近づくように設計されている。

人工的なシステムが「みたいなもの」から「そのもの」の領域への境界線を越える要因は何か?その答えは、来世紀に優位を占めそうな技能を多数列挙したものになる。

その境界線を越えようとする欲望は、ピノキオ以来存在するものである。人形が少年「みたいな」動きをするならば、そして、人形の作者が人形を少年に似せることができるならば、どの時点で人形は本物の少年になるのか?過小評価されているスピルバーグの映画 A.I. では、きわめて本物に近いロボットの少年 ――現代のピノキオ―― の視点から、お涙頂戴的にこの質問を問いかけている。「『みたいなもの』が『そのもの』になるのはいつか」という問いに対して、この映画では、「少年が母親の愛を勝ち得たとき」と答えている。

「みたいなもの」は直喩のような働きをする。すなわち、はっきりわかる種類の比喩である。セカンドライフは没入型の比喩だと言えるだろう。また、フライトシミュレーターは対話型の比喩である。ディズニーランドはテーマパーク型の比喩である。コンピューターウイルス、仮想経済、テレビの視聴者参加番組、ゲームの戦闘ボットなどは、すべてハイテク型の比喩である。

現代の生活は、「みたいなもの」技術の源泉である。ジャン・ボードリヤールが著書 "Simulacra and Simulation"(邦題:シミュラークルとシミュレーション)で述べているように、超現実的模造作品が私たちの生活にあふれている。それどころか文化の頂点にのぼりつめさえしている。ディズニーランドは、小さな町みたいに見えるテーマパーク、すなわち超現実的シミュレーションにほかならない。ディズニーランドは模倣性を非常にうまく実現していて、すでに「みたいなもの」を脱して「そのもの」の域に達している。それはきわめて現実らしい偽物、すなわち超現実である。それ自身がディズニーランドという実体になっていて、他のものはそれを模倣することを目指している。実際のところ、ディズニーランドの模造品が多く存在する。

私の友人のアダム・サヴェッジは、テレビ番組「怪しい伝説」(Mythbusters)の司会者で、その趣味は有名なハリウッドの小道具の模型を作ることである。(これにとりつかれているのは彼だけではない。小道具複製趣味の一派がちゃんとある。)アダムは何年もかけて自由時間を使って、マルタの鷹(Maltese Falcon)の精巧な複製品を作った。同名の映画で重要な役割を演じたものである。映画での小道具は不自然な架空の彫刻で、本物の財宝とはまるで違っていたが、アダムは本物ではなくて、その小道具を再現しようと考えた。そこで、正気とは思えないほどの時間をかけて、小道具の写真を見つけ出し、それを複写し、彫刻して、ついに「本物の」小道具の複製を造形した。アダムは偽物の真の複製を作ることに執念を燃やした。なぜならば、偽物(映画の小道具)は超現実だからである。それはもはや「みたいなもの」ではなくて、それ自身が実体になっているのだ。

偽物を模造するという、かなり常軌を逸した状況の話ではあるが、何が現実で何が比喩かを見分けるという真の問題を忘れてはならない。現実に関する法律上の問題として、何を性行為とみなすか、ということがある。このあらゆる遭遇の中で最も物理的なものについて、何が現実かという問題は起こり得ないと思うかもしれない。しかし、シミュレーションによる性行為は現実なのか?仮想世界の中で、人工的なアバターが他のアバターにレイプされたら、それは仮想なのか現実なのか?現実の暴行、現実の犯罪なのか?これはあるオンラインゲームに関する実際の事件で提起された有名な問題である。その答えは少しも自明なことではない。

今後よく起こりそうなジレンマに対する解答を、仮想現実研究者のメル・スレーターが提示している。スレーターは、よく知られた心理学の実験をセカンドライフで実施した結果について報告している。スタンレー・ミルグラムによる服従に関する有名な研究をまねて、スレーターは次のような実験をした。権威ある人物がセカンドライフの志願者たちに命令して、他のアバターに対して致死的な電気ショックで「拷問」させた。スレーターは次のように結論を述べている。「この結果によれば、すべての実験参加者は、他人も、ショックも、いずれも現実ではないことを確実に知っているにもかかわらず、(被害者の)姿を見たり声を聞いたりした実験参加者たちは、その状況に対して、主観的、行動的、心理的に、それが現実であるかのように反応する傾向がある。」すなわち、「人が現実であるかのように反応するならば、それは『プレゼンス(存在)』である」とスレーターは言っている。「プレゼンス」とは、経験的な現実を意味する。

建築空間を事前に試用体験する、あるいは電子回路を設計する、建造物爆破や化学実験を模擬予行するなどのシミュレーションは、現実の行動の比喩で構成されている。パイロット・シミュレーターをはじめ、潜水艦、警察、軍隊、外科手術、大規模機械の操作などの訓練用仮想シミュレーターは、すべて比喩から現実の行動を引き出すことによって動いている。

比喩が現実であるかのようにみなして行動するとき、比喩は現実になる。それが現実だと頭の中で「信じている」かどうかに関係ない。「現実」を行動に基づいて定義するということは、比喩が道具であることを意味する。

このように、人類の文化における比喩の役割と能力は増大している。現代的なデジタル世界は比喩の世界である。現実の物を作るとき、まずそれを比喩として、すなわち「みたいなもの」として作る。それから、少しずつその比喩を深化させ、意味やリアリズムの階層を付加する。現実と偽物の間に存在する見えない障壁をすべて越えるまでそれは続く。そのとき、それは「そのもの」になる。それは「現実」になる。ピノキオがついに現実の少年になり、母の愛を勝ち得る。

私たちは現実「みたいなもの」を作ってきた。いつか、それは現実だと感じられるようになるのだろう。私たちは社会「みたいなもの」、民主主義「みたいなもの」、知性「みたいなもの」、生命「みたいなもの」を作っている。私たちは実在するすべての物を、一つずつ「みたいなもの」の世界へ移している。そして、それをピノキオの境界線を越えて、現実と区別が付かなくなるところまで押し上げている。

人間社会が超個体だというのは、古くからの比喩である。何千年もの間、人間は社会を見てそれが生命体「みたいなもの」だと考えてきた。少なくともアリストテレス以来、王は社会の頭部であり、軍隊は超個体の鎧(よろい)であり、鉱夫や農夫は消化器官であり、建物や橋は骨格であると考えられている。二千年にわたる発明と工業化を通じて、これと同様の比喩はさらに深化した。そして今では、人間社会は資源を消費しながら成長する、地球上で支配的な超個体だという見方を否定することはできない。

科学としての天文学や写真のおかげで、最近では、この比喩はさらに広い範囲に拡大している。NASA(米国航空宇宙局)が宇宙から地球全体の画像を撮影したとき、ただ一つの生命体「みたいなもの」は、地球全体という意味を含むと拡大解釈されるようになった。いろいろな種族や民族は、一つの「人類という家族」に融合した。また、あらゆる生物のDNA遺伝情報は、広く共有されていて、すべての生物群系や生態系が人間と遠縁に当たることがわかった。この超個体みたいなものには、ただ一つの生命がある。雲も、そして地質学でいうプレートさえも、今では、この地球という比喩的な超個体、すなわちガイアの一部だとみなされている。それは人間よりもずっとずっと大きいが、確かに人間を含むものである。この新しい比喩では、地球全体およびすべての生物と無生物が、生きている生命体「みたいなもの」として振る舞う。

ついに、前世紀には、地球という超個体の比喩は知性を包含するところにまで発展した。複数の階層にわたる電話幹線、周回を続ける衛星、世界中に分布する携帯電話基地局、大陸間に張り巡らされた海底ケーブル、海岸を取り囲むマイクロ波アンテナ、地球を包み込むインターネットのウェブによって、多くの人々は新しい比喩を思いついた。世界は地球規模の頭脳を持っている「みたいなもの」である、と。

実際に、私たちは地球規模の頭脳があるかのように行動し始めている。いろいろな質問にすべて答えてくれると期待して、グーグルに質問している。私たちは地球規模での状況認識を当然だと思っている。もしもムンバイで何かが起こったら、それを直ちに知ることができると確信している。この頭脳が毎日24時間無休で働いていて、私たちに認知を提供したり教育したり楽しませたりすることを期待している。それを「私たちの」頭脳、集団的な頭脳だと思っている。そして、それは物の喩えであるにもかかわらず、人間はその方向に向かって行動している。

この「比喩の時代」においては、愛の有無が本物を見分ける目印になるのだろう。ある物が「みたいなもの」から「そのもの」へ移行したことがわかる方法の一つは、純粋な愛を人間から得られたときである。仮想的な場所が、地球上に実在する場所に対するのと同様の愛を得たとき。おもちゃの愛玩動物が、生きている愛玩動物と同じ愛を得たとき。人工の俳優が、人間の映画スターと同じ愛を得たとき。仮想経済が大規模な経済と同じ情熱を駆り立てるとき。地球規模の超個体がハムスターに対するのと同じ愛情を得たとき。

そのとき、それはもはや「みたいなもの」ではなく、まさに「そのもの」になっている。





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posted by 七左衛門 at 22:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳    
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