2010年08月13日

「人間性を創出する」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "Inventing Our Humanity" の日本語訳である。



人間性を創出する  Inventing Our Humanity

技術に対して二つの相反する見方がある。一つは人間と同じものだと考えること、もう一つは人間とは別のものだとする見方である。以下に、技術は人間と同じだという私の見解を述べる。

テクニウム(訳注:文明としての技術)は、私たちが十分に人間らしくあるために必要なものだ。人間が芸術を創作したり、社会構造を構築したり、宇宙を探索したりするときに、私たちは自分が何者であるかを発見する。たとえば詩、衣服、火、手工具など単純なものも含めて、このような発明がなければ、私たちは自分自身について何もわからない。技術は私たちの人間性を解明するだけでなく、私たちが人間らしく生きるための方法でもある。私たちはテクニウムを創出することを通じて、人間性をも創出している。

発明の否定的側面、すなわち、戦争、武器、虐殺、公害なども同様に人間のあり方を規定する。人間が技術の誘惑を乗り越えるときにも、自分を見失わないようにしたいものだ。技術の欠点を超越して、製作し協力し創造するようにしたい。しかし、技術が破壊的であるとしても、それもまた人間の正体なのだ。どちらにしても、技術という隠れみのがなければ人間は不完全である。

人間は衣服よりも技術を必要とする。技術は私たちの魂の一部である。技術が少なければ、人間らしさが少なくなる。技術が多ければ多いほど、より人間らしくなることができる。

鉄やレンガやシリコンには、固くて冷たくて曲がらないという性質があるため、私たちは拡大するテクニウムが人間とは異質なものだと思いがちである。あらゆる生き物の敵とは言わないまでも、少なくとも人間に敵対する有力な生物種であるかのように思っている。産業革命時代の最悪の事象、たとえば肺を黒くする煙、黒く汚れた川の水、真っ黒になって働く短命の工場労働者などは、人間としての経験的な自己概念から離れているので、私たちは技術を邪悪なものとして遠ざけようとする。たとえ必要悪であるとしても、悪とみなされてテクニウムは人間の外に置かれる。それが人間集団の中に現れるときには伝染病みたいに扱われる。
画家や詩人たちは、邪悪以前、テクニウム以前の時代を思い描いている。裸の人間が多数の無害な生物種に囲まれて仲良く暮らしていた時代である。このような昔の人たち(および今日まで残存する先住民たち)は技術という人工的な機械仕掛けに汚染されていない、本物の人間だと考えられている。精神的安定を保ち、また自然と調和して、昔の人たちは人間らしさの意味を理解した時期があったと思われている。それ以来ずっと、その認識は続いているが、そこで得た鋭い宇宙の認知は、テレビ画面の前でよく見られるような鈍い昏迷にまで退化した。

実際には、高潔な未開人、すなわち技術と無縁の人間などいなかった。研究者は、古代人がどの程度まで環境に危害を加えたかについて議論しているが、しかし害を与えたこと自体に異論はない。アメリカの先住民族は、ヨーロッパの技術が到達する以前に、たとえばマンモスなど10種ほどの草食動物を絶滅させている。非常に単純な石器技術を使っていた古代のイースター島の住民は、すべての樹木を消滅させて、ほろびゆく島から脱出する唯一の手段も失った。アマゾンの熱帯雨林は、現代の見解では原始の姿を残していると言われているが、それでも実際には、その景観は、人間の原住民たちの技術によって形成されたものである。原住民の数は少なかったし、今でも少ないが。もしもアマゾンにインディアンが全く住んでいなかったら、低木層の樹木は今よりもずっと密生していただろうし、大きい動物の狩猟がないことで、今とは違った動物や植物が生育していただろう。人間が緩やかに介入することがなければ、現存する植物の大部分はもっと稀少だっただろう。

改変された環境。それはそうとして、人間自身は道具によってどのように変わったのだろうか?人間は弓矢や吹き矢を使って、自分たちを猟師、すなわち狡猾な猟師として位置づけた。ずる賢い獲物に負けることはなさそうなずる賢い猟師として。人間が斧を発明したとき、人間は殺人も発明した。最近の研究によれば野生のチンパンジーは、戦いや嫉妬のために他のチンパンジーを殺すことがわかった。殺すことは、私たち人間もずっとしてきた。しかし、人間が斧を作ったとき、自分と同じ種を殺すということを違う方法で定義した。言語という道具を使って、微妙な違いをもってその行動を巧妙に解決した。それは挑発されたのか?それは必然だったのか?それは意図的だったのか?技術によって殺すための能力が増大し、言語の技術によってその分析が強化され、この両者が一緒になって、殺人を一つの選択肢として提供している。人間は人を殺す。他の動物はめったに殺さない。

書くという技術を得て、人間は法律を考えついた。法律を得て、公正さという人間の感覚を生み出した。作り出された事実や証拠を書くことで、人間は自分が論理的だと空想した。次の世代に伝達可能な経験の蓄積を通じて、英知という人道的な概念ができた。儀式を通じて、宗教的存在を考案した。木と糸でできた楽器によって、人間性は音楽を得た。

私たち人間は、文化によって人間性を拡張してきた。他の何よりも、文化が人間を規定する。文化は柔軟な技術だが、それでもやはり人間が考案したものである。

人間性は拡大してきた。道徳の感覚、公正の感覚、何が正しいか、何が良いか、最終的には人間は何のために存在するか。これらはすべて、技術と文化が発達するのと同時に発展してきた。そのような進歩のいくつかは人間の内面に取り入れられ、いくつかは脳の中に組み込まれて、全人類に共通のものとなったが、その大部分、すなわち人間性の大部分は、人間が作った物の仕組みの中で伝えられる。教育や伝統、書物、建築、社会などを通じて、さらに、他の知性がどう思うかという極度の圧力を通じて伝達される。

結局のところ、テクニウムは異質ではない。それは、私たち人間と表裏一体である。それは進化し続けるだろう。テクニウムの規模と複雑さが増大し、また、教育や医学、遺伝学、あるいはハードウェアを通じて人間が自分自身を改変し続けるとき、人間らしさの意味は拡大していく。自分の存在を完成させるために、人間は技術に依存し続ける。





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posted by 七左衛門 at 15:26 | 翻訳