2010年09月01日

「流暢な画面」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "Screen Fluency" の日本語訳である。



流暢な画面  Screen Fluency

私たちは、以前は「聖書の民(本の民)」であったが、今では「画面の民」になりつつある。この転換をすべて完結するためには、いま言葉に対して行っているのと同じ容易さで、動画を操作し、作成し、処理することができる道具一式が必要である。

というのが、この日曜(訳注:原文発表は2008年11月)のニューヨーク・タイムズ・マガジンに私が書いた4千語にわたる記事の主題である。私はこの記事の題名を「流暢な画面 ("Screen Fluency")」と名づけたが、ニューヨーク・タイムズは「画面の運用能力を身につける("Becoming Screen Literate")」という見出しをつけた。以下にその抜粋を示す。

あらゆる媒体に内在している、重大な利用者非対称性がなければ、書物の崩壊はずっと昔に起こっていただろう。本を書くよりも読むほうが容易である。歌を作曲するよりも聴くほうが容易である。劇を制作するよりも観るほうが容易である。しかし、とくに映画はこの非対称性に苦しんでいる。化学的に処理したフィルムを大切に扱って、その断片を貼り合わせて映画を作るためには、きわめて緊密な協力による作業が必要である。したがって、映画を制作するよりも、見る方がはるかに容易である。ハリウッドの大ヒット作品では、百万人時(人数×時間)の労力を必要とする場合もあるが、それを消費するのはたったの2時間である。しかし今では、安価で汎用的な製作ツール(メガピクセルの携帯電話カメラ、Photoshop(フォトショップ)、iMovie(アイムービー)など)があって、動画作成に必要な労力をたちまち削減することができる。

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実際のところ、マッシュアップ(複数情報の組合せ)という習慣は、文字媒体の運用能力から借用したものである。あるページの言葉を切り貼りする。専門家の言葉をそのまま引用する。すばらしい表現を真似してみる。どこか他の場所で見つけた細部の表層を付け加える。ある作品の構成を借用して自分の作品で使う。語句に対するのと同じように、映像をあちこちに移動させている。

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文字媒体の運用能力というのが、文章を解析したり操作したりできることを意味するのであれば、新しい画面運用能力は、同等の容易さで動画を解析したり操作したりできることを意味する。しかし今までのところ、このような視覚的に画像を「読む」ための道具は、大衆に届いていない。たとえば、最近相次ぐ銀行の破綻について、類似の事象として、有名な映画『素晴らしき哉、人生!』("It's a Wonderful Life") の中に出てくる銀行取り付け騒ぎを引き合いに出して視覚的に比較しようと思ったときに、その場面を正確に特定して(複数のシークエンスのうちのどれか、さらに、その中のどの部分であるか)容易に指し示す方法はない。私にできるのは、映画の題名を述べるくらいのことだ。ネットであっても、この文章からオンライン映画のその「場面」へリンクすることはできない。映画には今のところ、ハイパーリンクに相当するものがない。本物の画面運用能力があるとすれば、映画の中の特定のフレームや、フレーム内の特定の事物について言及できるようになるだろう。もしかして私が東洋の衣装に興味のある歴史学者であって、映画『カサブランカ』の中で誰かが着用しているフェズ(トルコ帽)について言及しようと思ったとすると、そのフェズ自体(それを着用している頭ではなく)を参照することができなければならない。文字媒体でフェズの文献に容易にリンクできるのと同じように、多くのフレームにわたって画面内を「移動する」フェズについてその映像にリンクするのである。あるいは、その映画の中のフェズに対して、参考資料としてフェズに関する他の映画の断片を注記することができればさらに望ましい。

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指でドラッグすることによって、映画から物体を取り出して、自分の映画に取り入れる。携帯電話のカメラをクリックすると、風景を撮影して、その歴史を表示し、それを画像の注釈に利用することができる。「常にオン」であるネットワークの中を流れるにつれて、文字や音声や動画は、一つのインターメディアに融合していく。画面運用能力の助けを借りれば、写実的なファンタジーを自動的に呼び出すこともできるかもしれない。画面の前に立って、画像を作り出す。ターコイズ・ブルーのバラがあって、露に濡れて輝いていて、ほっそりしたルビー色の花瓶に挿してある。このような言葉を書くのと同じ速さで、視覚的画像ができる。真の画面運用能力が身についていれば、もっと速くできるかもしれない。そして、それは冒頭の一場面であるにすぎない。





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posted by 七左衛門 at 22:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳    
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