2010年11月27日

「矛盾を含む技術の本質」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "The Paradoxical Nature of Technology" の日本語訳である。



矛盾を含む技術の本質  The Paradoxical Nature of Technology

不平衡を持続することができるシステム、すなわち時間が経過してもカオス(一回限りの不平衡)に崩壊せず、また反復的で予見可能な調和(持続的な平衡)に収束しないシステムのことをエクストロピック・システムという。エクストロピック・システムに見られるような広義の不平衡の結果として、この不安定が常に新しいものを世の中に生み出している。「カオスと秩序の境界線上にいる」という定常状態が、永続的な新奇性の源泉となる。技術は生命や知性と同様に、このエクストロピック・システムの一つである。そこから新しい様式、新しい方向性、新しい概念が得られる。この世界の中で新しさの源泉となるのは、おそらく、この深遠な不均衡以外にはないだろう。

技術を含むすべてのエクストロピック・システムには、再帰的性質がある。エクストロピックな組織、システム、または物事は、表層からは見えないところで、循環して自分自身に戻ってくることによって力を得ている。それは、自己参照で原点が混乱するためである。たしかに、エクストロピック・システムがエントロピーの不可避な引力から逃れて、自分自身を維持しているのは、この不思議な自己参照の循環のせいである。自分自身に戻ってくるねじれた循環は、矛盾であり、私たちが理解している論理の規則に反している。エクストロピック・システムでは、AがBを引き起こし、Cを引き起こし、Aを引き起こす。この混乱は、ある言葉の定義の中でその言葉を使うようなもので、そこには多少のごまかしがあるように思われる。しかし、自己参照構造は、明確で秩序正しい単純さからも、また、完全な無秩序という退化した空虚からも、そのシステムを遠ざけている。自己参照の矛盾の中に、思いがけない能力が存在していて、それが私たちの大切にするあらゆるもの、すなわち、生命、自由、可能性、協力、思考などを生み出すのだ。

再帰性はいろいろ形を変えて現れる。すでに二つ言及した。自律的に進行する一連の化学反応を個別の反応に分割することができる。たとえば、化合物Aが化合物Bを生成し、化合物Bが化合物Cを生成し、化合物Cが化合物Aを生成する、というように。適正な条件の下では、この化合物のネットワーク(実際には3個以上)が、突然、安定で自律的な生命体を作り上げて、細胞と呼ばれるものになったりする。細胞の設計図である遺伝子の中には、このようなねじれた循環がある。一連の遺伝子の中では、多くの遺伝子が他の遺伝子の有効無効を切り替えている。遺伝子Aが遺伝子Bを有効にし、それによって遺伝子Cが遺伝子Aを有効にする。では、一番最初はどうやって始まったのか?言語には自己参照の機会が豊富にある。「辞書 − 辞書の中でよく見られる語。」あるいは、自己参照が文の内容ではなく、文脈の中に深く埋め込まれている。たとえば、「この文章は無述語。」

自己参照は、事実上、低い段階で作用する断片から新しい段階の意味を作り出す。この新しい段階の参照が自我である。実際のところ、自己参照する「自我」は、一群の断片に対してその関連を配線し直して、それぞれ矛盾を含むような関連にすることによってのみ作られる。そこに新しい断片が加わることはない。たとえば、ビデオカメラとそのモニタ画面があれば、見かけは新しそうなすばらしい光景をいくらでも記録することができる。しかし、そのシステムを自己参照させるように使うと、本当に新しいものが得られる。新しい部品を一つも追加しなくても、カメラを画面に向けるだけでよい。突然、カメラが無限に逆行して、画面の中に画面があって、その画面の中に画面があって、と続く。自己視認以前には存在しなかった何物かが出現する。

一つには、寸法と速度の感覚が変わる。カメラと画面は、もはや無限に延びていて、カメラの位置のわずかな変化は指数関数的な速さで拡大する。そして、私たちは、遅延や反響、その他、この装置の性質を変える副次的な時間変化を使って遊ぶことができる。それは新しい段階の全く独自の画像、すなわちカメラが外を向いていたときには存在しなかった段階の画像を記録している。鏡の広間は、鏡の内側には存在しない。鏡の組合せという新しい自我の中に存在している。

技術は自分自身の画面に向けられたカメラのようなものである。それは自分自身をより高い水準の複雑度の存在にまで持ち上げる、ブートストラップするシステムである。技術AはBを作り、BはCを作り、Cは回り回ってAを作る。この種の循環は、一次の再帰性と言っても良いだろう。始点はなく、直線的な因果関係もない。そのかわりに、因果関係は場のようなもの、あるいは位相のずれに近いものになっている。

しかし、新しい水準の存在が出現するのは、二次の再帰性においてである。二次の再帰性とは、きわめて詳細な都市地図を考えればうまく説明できそうだ。その地図には町の広場にある案内所が描かれていて、その案内所にその都市の大きな地図が掲示されている。つまり、地図の中にその地図が含まれている。この種の自己参照については、ダグラス・ホフスタッターの名著『ゲーデル、エッシャー、バッハ』で、不思議で興味深い兆候をいろいろと検討している。それは、数学を利用して数学的命題を数値で表現できること、さらに数値に対応する元の数学的命題の中にその数値を埋め込めることに気づいたのがゲーデルだからである。実質的に、ある発言を屈曲させて、矛盾する混乱の中にある自分自身に衝突させることができる。もともと、ゲーデルはこのような数学の奇妙な性質を使って、自己矛盾のない数学的状態の完全な集合が存在しないことを証明したのである。言い換えれば、自己言及のパラドックスは、いかなる矛盾のない体系にも内在している。どれほど論理的に隙のない体系を作ろうとしても、自己言及のパラドックスがある。ホフスタッターはゲーデルの考えを拡張して、人間がたとえば計算機プログラムのような厳密な体系について興味深いと思う根源は、この見かけ上の欠点に存在するという説を提示した。計算にはフィードバックループ、自己ポインタ、広範囲の再帰性が多量に存在する。計算が明確に再帰的だという性質は、ジョン・フォン・ノイマンがソフトウェアを発明したときに生まれた。数学的記述は、それを数値とみなして他の数学的関数で処理することができるが、それと同じように計算機プログラムを使って、他のプログラムをデータのように処理できるということに最初に気がついたのが、フォン・ノイマンである。すなわち、あるプログラムのサブルーチンは、それ自体が別のプログラムでありうる。プログラムの中にプログラムを次々と付加することができる。不思議な循環の中に、さらに不思議な循環を置く。やがて、地図の中に地図があり、その地図の中に地図があるようなものができる。複雑系は、それ自体の中に自分自身の鏡像を持つことができる。人間の頭脳が頭脳のイメージを持つようなものである。それが知能や自我や生命を生み出す。そして、私の意見では、それがテクニウムなのだ。

テクニウムの再帰性は認識的技術に由来する。認識的技術とは、知識に関する技術、たとえばアルファベット、書写、書籍、書庫、索引、カタログ、相互参照、ハイパーリンクなどである。このような仕組みを使って、技術は自分自身の写像を設計図、薬剤の処方、あるいは情報の書庫などのような技術的形態にすることができる。世界中の情報の書庫を包括する集合体には、技術を作り出すために必要なすべての情報がある。さらに、この書庫それ自体が技術である。したがって、このような技術の写像としての地図は、技術の地図の中にある細部でもある。それ自体がプログラムであるデータをプログラムの中に含むことができるのと同じように、テクニウムは、その中の各部分にテクニウムそれ自体を含んだり、その鏡像を保持したりするような形態を持っている。技術は自己言及的だから、ブートストラップが可能である。技術が作り出す最も強力な技術は、その再帰的性質を強調して活用する技術である。科学における認識的技術、具体的には科学的手法や科学的知識がそれである。





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posted by 七左衛門 at 21:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳    
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