2011年01月08日

「知能の次に来るものは何か?」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "What Comes After Minds?" の日本語訳である。



知能の次に来るものは何か?  What Comes After Minds?

人間の知能は、私たちが知っている最も複雑なものである。そうだということは直感的にわかる。しかし、複雑さを計測するのは困難だ。人間の頭脳の細胞の数は、西瓜の細胞の数とたいして変わらないだろう。だが細胞の多様性と機能については、脳のほうが果物の細胞よりも上回っている。

各種の複雑な存在(たとえばジャンボジェット、熱帯雨林、ヒトデなど)について、その構成要素や接続部品や下位要素の数、論理深度や自由度などを数え上げることができる。その要素数の最終集計は脳の細胞数の合計に近いかもしれない。だが、その構成要素の機能や効果は、要素数の合計よりもずっと複雑である。各構成要素が関与する複数の作用を考慮してみると、知能の複雑度がわかりやすくなる。その行動を考えれば、生物は無生物よりも複雑度が高い。また賢いものは知能の低いものより複雑度が高い。この主張に対する証拠として、人間が複雑な物を作るための努力を考えればよい。石のハンマーを作るのはかなり容易である。馬のない馬車すなわち自動車を作るのは難しい。人工生命を作るのはさらに難しい。人間の知能を合成したり再現したりするのは、さらにもっと難しい。人工の知性がもうすぐ実現するわけではない。一部の人たちの考えでは、知能の複雑度は非常に高いので、その追求は永遠に続くだろうという。この難しさと不確かさのせいで、知能は今のところ創造における複雑度の基準となっている。

もしも知能の究極的な複雑さに対抗するものがあるとすれば、地球上の生物圏だろう。壮大な量と規模から見て、生物圏において複雑に交錯する無数の生命体と広大な生態系は、脳の5キロに及ぶ神経細胞やシナプスと比べると、大差で上回っている。それなのに、知能のほうが複雑だと思う傾向があるのは、理由が二つある。まず一つは、私たちは生態系の働きを理解していると思っている。(実際には、生態系が全体としてどう働くかを予測することもできていない。つまり、地球規模という問題を制覇してはいない。)その一方で、人間の脳の働きについては、ごく小さな部分でさえも理解に挫折している。規模は問題の一部に過ぎない。生物圏と比べると、人間の知能の部品はずっと強く絡まって、反射し、反復して、全体として一つに統合されている。要するに、知能はいまだに謎のままなのだ。

二つめの理由は、生物圏から産出されるのは、基本的にはそれ自体の複製である。自己調節しながら、ゆっくりと新しい種に進化するが、新しい様式の作品を生み出してはいない。もちろん、人間の知性を生み出したという例外はあるが。しかし、人間の知性は他のいろいろなものを作り出した。その中には小型の生態系や小さな生物圏も含む。だから私たちは人間の知性のほうが複雑だと思っている。

この要点をうまく簡潔に表現した、エミリー・ディキンソンの詩がある。

脳は空よりも広い
なぜなら、二つを並べてみると
一方が他方を包み込む
たやすく、そばにいるあなたまで


圧縮の非対称性は重要な計測基準である。脳は生物圏の概要を収容できるが、生物圏は人間の脳の概要を収容できない。この事実は、一方が他方よりも大きく、より複雑であることを示唆する。

人間は自分の脳と同じくらい複雑なものを作ることにまだ成功していないが、それを試みてはいる。問題は人間の知能よりも複雑なものは何か、ということだ。もし可能ならば、人間は何を作るのか?それは何をするものか?技術の進化、あるいは生命の進化という物語の中で、知能の次に来るものは何か?

「人間の知能の次に来るものは何か」という質問に対して、よくある答えは、より良く、より速く、より大きい知能というものだ。同じもので、ただ単に性能が良いもの。おそらくそれは正しい。人間は、より大きく、より速い知能を作る、または進化させることができるかもしれない。しかし、そこで描かれているものは、やはり知能である。

最近聞いた答えで、私が支持しているものはこれだ。知能の次に来るのは知能の生物圏、すなわち、多数の知能および多くの種類の知能による生態的ネットワークである。いわば知能の熱帯雨林みたいなもので、メタレベルでの独自の動作とその影響がある。生物の熱帯雨林が栄養やエネルギーや多様性に関与するのと同じように、この知能のシステムは、問題、記憶、予想、データ、知識に関与する。この知能の熱帯雨林は、そこに接続するすべての人間の知能を包含し、その他さまざまな人工知能や、拡大する知能の生態系に接続する多数の半ば知的なものも包含している。野菜の知能、昆虫の知能、霊長類の知能、人間の知能、そしてもしかしたら超人間の知能、これらすべてが、騒然とした一つのネットワークで相互に作用している。いかなる生態系でもそうであるように、異なる動作主体は、異なる能力と異なる役割を持っている。あるものは協力し、あるものは競争する。その複合体の全体としては、活動し常に変化する動物となっているだろう。

知能の熱帯雨林の構成を想像できたとして、しかしそれは何をするものだろうか?思考や問題解決は知能がしていることだ。知能の生態系は、単独の知能がしていないことで何ができるのか?

また、知能の生物群系が次だとすると、さらにその次には何が来るのか?想像力を働かせて可能な限り最も複雑な実体を考えたとして、それは何をするのか?私たちがそこで想像しているものは、何でも知っている知能、あるいは、やや劣った神(どちらもほとんど同じだ)のどちらかであるということに、私は気づいた。ある意味では、私たちは知能の規範を越えることができないのだ。

文化は比喩をもとにして進んでいる。人間の知能は、科学社会の指標となる比喩である。大昔の人間は、自然が動物であると思っていた。次には、自然は時計であった。今では一種の知能だと考えている。知能とは、究極の神秘あるいは究極の畏怖を表す比喩である。それは創造における試みについての基準を示している。複雑度の測定基準である。知能は人間の監獄でもある。なぜならば、私たちはそれを超越したものを理解できないからである。特異点論者の主張は、「人間の知能の次に何が来るのか、想像することは不可能である」というものだ。

私はその主張を信じないが、何が正解なのかもわからない。技術の発展において、複雑性の限界に到達したと言うにはまだ早いと思う。確実に今後の100年または500年のうちに、人間は自分の知能よりも何千倍も複雑な実体を構築するようになるだろう。そのようなものが目立つようになると、それが新しい比喩になる。

比喩はしばしば現実に先行する。私たちは自分が想像できるものしか作れない。知能の次に来るものは何か、今、想像できるだろうか?





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posted by 七左衛門 at 15:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳    
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