著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門
この文章は Kevin Kelly による "The Positive Balance of Technology" の日本語訳である。
技術の積極的な均衡 The Positive Balance of Technology
イタリアの新聞ラ・レプブリカが、私の著書 What Technology Wants (技術の欲望)の要約を1,500語以内で書いてほしいと依頼してきた。そこまでの短縮はできないが、一つの主題を提示することはできる。「技術には倫理的側面がある」ということだ。この短い文章では、技術の進む道筋にはプラスのエネルギーがあるということをできるだけ簡潔に説明した。(そのイタリア語の記事はここにある。)過去数ヶ月の間、本の紹介を依頼された時には、いつもこの話をしている。
チャールズ・ダーウィン以前の博物学は、限りない収蔵品の標本がガラスケースの中にあるだけだった。それを活用するための組織的構造がなかった。生物学には「入れ替わり立ち替わり」があるだけだった。この次々とあらわれる生命体に対して、ダーウィンが進化論という論理をもたらしたのである。
今日では、技術が同様の状況にある。私たちの周囲には無数の発明があるのに、それを理解するための良い理論がない。技術の世界とは、新しい物が次々と際限なく出現してくるものだと考えがちである。たいていの人にとって、技術は「入れ替わり立ち替わり」にすぎないのだ。
私は技術のための理論を提案したい。すなわち、人間の生活に続々と登場する新しい物について、論理と背景を示す枠組みである。だがその前に言っておきたいことがある。私たち人間は、技術とは何かについて歪曲した考えを持っている。多くの人は、技術とは「自分が生まれた後に発明されたもの」だと考える傾向がある。つまり、技術とは「まだ動いていないもの」だと思っている。まるで、新しい物だけが議論の対象であるかのようだ。
しかし、当然ながら時計やテコなど、昔の発明も技術のうちである。コンクリートや煉瓦のような古い材料も役に立っている。人間の生活で使われている技術の大部分は、私たちが生まれるずっと前に発明されたものである。一般的な技術の中には、通常は目に見えない無形の「モノ」も含まれている。カレンダー、簿記の原理、法律、ソフトウェアなどだ。その中には、大規模で複雑なもの、たとえば社会組織や都市もある。技術とは、古いもの、目に見えないもの、大規模なもの、新しいもの、この全てを併せたものであり、人間の知性が発明した役に立つものの蓄積である。
さらに重要なことは、これらの技術は全体として技術の生態系とでもいうような、互いに影響し合う組織を形成している。この共依存する発明による超システムを、私はテクニウムと呼んでいる。生命がそうであるように、このシステム全体の挙動は、各部分ごとの挙動とは異なる。たとえば、個別のミツバチには「集団意識」は少しも認められない(蜂の巣という全体システムにのみ存在する)のと同様である。iPhone(アイフォーン)、ナイフ、冷蔵庫などの単体だけでは、テクニウムの挙動は見えない。技術の真の影響は、その全体システムにおいてのみ感知することができる。
生命全体が従うパターン、すなわちダーウィンが解明した進化というものは、驚いたことに、その多くがテクニウムにも当てはまる。人間の発明のパターンは無作為ではない。単に次々と現れるものではない。
生命体が進化によって変異したり多様化したりするパターンは、技術が時間の経過とともに変化する様子に似ている。したがって、テクニウムは「7番目の生物界」だと考えることができる。他の6個の生物界を作り上げたのと同じ、進化という力によって技術は拡張し加速している。
生物が進化する過程において複雑度や多様性、特殊性が増大しているのと同様に、技術についてもそれと同じ長期的傾向が見られる。一般論として、技術は将来に向かって、ますます複雑に、多様に、そして専門的になっていくだろう。
技術に対するこのような見方は、生命はユートピアではないし、テクニウムもまた同様、という重苦しい洞察を示している。あらゆる新発明は、その解決対象とほぼ同数の問題を生み出す。実際のところ現代社会の問題の大部分は、これまでの技術によって発生したものである。将来の問題の大部分は、今の人類が発明しようとしている技術が引きおこすと言えるだろう。
新しい技術がその解決対象と同じくらいの問題を生み出すのだから、それから考えるとテクニウムは中立的であって、50対50の均衡を保っているのかもしれない。この均衡というのは話の出発点であるが、それが話の全てではない。新しい道具を発明したとき、たとえば、大昔、最初に石のハンマーを発明したとき、それと同時に、少なくとも一つの新しい選択肢が生み出された。それを破壊に使うか、創造に使うか。誰かを殺すためか、家を造るためか。この決定は、ハンマーを発明するまでは人間になかった選択、機会、可能性である。
この新しく生じた自由意志による選択は、その道具が発明されるまでは存在しなかったものだ。仮に道具が害を及ぼすとしても、選択それ自体は善である。選択肢があるということは積極的な善なのだ。積極的な善が増加すると、50対50の均衡をわずかに善の方へ傾ける。ごくわずかである。しかし、ごくわずかで十分だ。なぜならば、その技術を使うことを通じて、破壊よりも創造のほうが1パーセントだけ多ければ、その1パーセント(あるいは0.1パーセントの差でも)が毎年複利計算されて、それが何世紀も続くと文明ができる。
新しい発明は、それぞれ一つ以上の倫理的選択を生み出す。時間の経過とともにこの自由意志が累積して、テクニウムにプラスのエネルギーが与えられる。長期的に見ると、技術は人間に対してより多くの相違、多様性、選択肢、代案、機会、可能性、自由をもたらす。これが進歩の定義である。
働いたり物を買ったりするときには、この進歩のことを考慮すべきだ。多くの人が直接または間接的に、物の創作や製造に関与している。また、すべての人が物を買うことに関与している。技術の創作物に価値があるのかどうか、疑問を持つこともあるだろう。また、人間は大量消費を促進する資本主義的機械のなすがままになっているとか、金銭のためだけに使い捨て製品を作っているとか、他の短命な物を買ってその無意味さの埋め合わせをしているとか感じるかもしれない。あるいは、私たちは新しい物中毒なので、新しい物を作ったり買ったりし続けているのだ、とか。
このような話はすべて正しいのかもしれない。しかし、人間が新しい技術を作るときには、世界にある可能性と選択肢と相違を増加させている。それは善である。というのは、多くの人は自分の天賦の才能を発見して表現したいと思っていて、それに役立つ何らかの道具を必要としているからである。モーツァルトは、その音楽的才能を発見し発達させるために、ピアノやハープシコードという技術を必要とした。しかし、もしもモーツァルトがピアノや交響曲の発明よりも2千年前に生まれていたらどうだろうか。それは人類にとってもモーツァルトにとっても、何とも大きな損失である。あるいは、ゴッホが油絵具やキャンバスの発明よりも2千年前に生まれていたらどうだろうか。その技術がないとすれば、世界にとってもゴッホにとっても、ひどい損失だ! あるいは、ジョージ・ルーカスが生まれる前に、人類が映画の技術を発明していなかったとしたらどうか? 私たちの文化に大きな穴があいただろう。
ということは、いま世界のどこかで、その世代のシェークスピアとなるべき男の子や女の子がすでに生まれていて、自分のための技術を人類が発明するのを待っているのだ。私たちが道具を生み出すまでは、その子らは自分の才能を発見して活用することができない。したがって私たちには、世界中の技術の総量を増加させる義務がある。今の私たちは、過去の人たちから恩恵を受けている。過去の人たちは、アルファベット、印刷、本、新聞などに内在する可能性を与えてくれた。私たちも、できるだけ多くの技術を発明しなければならない。将来、より多くの人々が選択肢と可能性を手に入れて、自分の最大限の才能を人類全体のために活用できるように。
私たちは、新しいものを発明するだけでなく、もっと大きなことにかかわっている。人間が技術を創造したり利用したりするとき、実際には自分自身よりも大きなことに関与している。生命を作ったのと同じ力をさらに拡張し、未来に向かって進化を加速し、自分や子供のために、また世界全体のために可能性を拡大している。それが技術の欲望なのだ。
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