2011年05月12日

「未来の本の姿」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "What Books Will Become" の日本語訳である。



未来の本の姿  What Books Will Become

本は、読むのに1時間以上かかる自己完結した物語、論証、あるいは知識体系である。本は、発端と中間と結末をすべて包含するという意味で完全である。

昔は、本とは表紙と裏表紙にはさまれた印刷物であると定義されていた。電話帳には論理的な発端も中間も結末もないが、それでも本だった。白紙を重ねて綴じたものは、スケッチブックと呼ばれていた。恥ずかしげもなく空っぽだが、それには表紙と裏表紙があり、したがってブック(本)と呼ばれた。

今では、紙のページの本は消滅しつつある。そのかわりに残っているのは、本の概念的構造である。ある主題に沿った大量の文章があって、ある程度の時間をかけて経験に統合されるというものだ。

伝統的な本の外見は姿を消しつつあるのだから、その構造が化石にすぎないのかどうか疑問に思うのは当然である。本という漠然とした容器は、現在利用可能な他の文章の形式と比べて、何らかの利点があるだろうか?

ウェブ上で、よくできた物語や報告を読んだり考えたりして、本らしきものに全く遭遇せずに、何時間も過ごすことができる。断片、脈絡、兆候がある。それがウェブの大きな魅力だ。いろいろな要素がゆるく結合している。

たしかにウェブにも本はある。たくさんある。私は1994年にウェブに本を掲載した。それは完全な本をウェブで出版した最も初期のものである。しかし、読者がそのページに到達するときに、何も境界を越える必要がないので、本の構成要素が分解してしまって、未分化な言葉の混乱状態になる傾向がある。束縛がないために、読者の注目は、中心的な話題や議論からはずれて他へ流出しやすい。焦点の移動速度に応じて遠心力が発生し、読者を本のページから離れさせる。

個人用の閲覧機器は役に立ちそうだ。今のところ、タブレット、パッド、携帯情報端末などがある。携帯情報端末には最も驚かされる。2〜3インチ程の小さな光る画面では、誰も本を読みたいとは思わないと専門家は考えていたが、それは誤りだった。全然違う。多くの人はスマートフォンの画面で喜んで本を読んでいる。実際のところ、読書のための画面はどこまで小さくなるのか、よくわからない。1語だけ表示する画面を使った、高速系列提示(Rapid Serial Visual Presentation)という実験的な読書の方法がある。目は動かさずに1語だけを見ている。その語に替わって文章の中の次の語が現れる。これを次々に繰り返す。すなわち、人間の目は長い行の中で隣接した一連の語を見るのではなく、ある語の「後方に」次の語が順に現れるのを見る。この画面は、そんなに大きくなくても良い。

その他各種の新しい画面が、本のための居場所を作りつつある。反射型のイーインク(E Ink)は、古い出版の世界を覆そうとしている。この技術は、周囲の光を反射する白い紙の上に、変化自在な黒い文字が現れるものだ。普通の目には、この特殊な「紙」(実際にはプラスチックのシート)に書かれた文字は、従来の紙とインクによる文字と同じくらい鮮明で読みやすい。白黒イーインクのおかげで、キンドルは、ぶっちぎりのベストセラーになった。

このイーインクの使用例では、本はタブレットあるいは板であって、単一のページを保持している。板にあるボタンをクリックすると、単一のページを「めくる」ことができて、別のページに移行する。電子ペーパーを使った電子書籍の重要な特徴は、フォントサイズを個別に調整できることである。文字を大きくしたい? それなら、設定目盛を変えるだけで、本全体の組版が所望の形に再配置される。

イーインクのページは、ペーパーバック・サイズでも、あるいはそれより大きくもできる。キンドルはすでに2種類のサイズがある。利用方法が定着してくると、電子書籍には次のような推奨文がついてくるかもしれない。「この本は3号サイズのタブレットで表示するのが最適です。」おそらく、3号サイズのリーダーというのは、複数の機種が存在しているだろう。お気に入りのリーダーには、使い込んだ柔らかい革のカバーが装着してあって、それは自分の手に合わせて成形したものだったりする。ワイヤード(Wired)のような芸術系気取りの雑誌の推奨リーダーは、かなり大型になるだろう。もしかしたら、コーヒーテーブルの上に置かなければならないかもしれない。

しかし、電子書籍がタブレットでなければならないという理由はない。究極的には、イー・インクの紙は、安価で柔らかいシートの形になるだろう。百枚ほどのシートを束にして綴じて、素敵な表紙をつける。これで電子書籍は従来の本とよく似た外観になる。物理的にページをめくることができる。3次元的に本を読み進むことができる。ある箇所が本の中でどこにあるか見当をつけて、以前に読んだところに戻ることもできる。別の本に変更するためには、背表紙をタップすればよい。そうすれば、同じページに別の書籍が表示される。3D書籍を利用することはとても感覚的なので、サテン状のごく薄いシートでできた非常に上等な物を購入する価値もありそうだ。

個人的には、私は大きいページが好きだ。電子書籍のリーダーは、折り紙のように開いて、少なくとも今の新聞紙の大きさになってほしい。たぶん、新聞と同じくらいのページ数で。読み終わったら、それをポケットサイズに折りたたむのに2〜3分かかってもかまわない。いくつかの長いコラムにざっと目を通したり、一つの面の中で見出しを飛び移ったりできるとうれしい。マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボやその他の研究所では、ポケットサイズの装置から付近の平らな面にレーザーで本を投影する試作品を実験している。手近な物が何でも画面またはページになる。

それに加えて、私たちの見ている画面が私たちを見るようになる。タブレットに組み込まれた小さな目が自分の顔に向いていて、表情を読み取ることができる。顔追跡ソフトウェアの試作品は、すでに人の気分を認識でき、注意を向けているかどうかもわかる。さらに重要なことは、画面のどこに注目しているかを認識できる。ある文章で困惑したのか、楽しんだのか、あるいは退屈したのかを見分けられる。そうすると、受け止め方に合わせて文章を適応させることもできそうだ。さらに詳しく展開するとか、速読しているときは分量を短縮するとか、苦闘しているときは語彙を変えるとか、その他何百通りの反応のしかたが可能だ。適応的な文章を試みる実験は数多くある。ある実験では、どこまで読んだかによって、異なる内容の登場人物や筋書きを提示している。

そのような適応性は昔から期待されていたが、複数の内容に分岐する物語という夢は少しも実現しなかった。複数の結末あるいは異なる展開のある本。従来のハイパー文学の試みは、読者にとっては散々な失敗に終わっている。読者は自分が物語の筋を決定することには興味がないようだ。著者が決めてほしいと思っている。しかし、近年、テレビゲームでは、経路を選択できる複雑な物語が著しい成功を収めている。(余談ながら多くのゲームで、たくさんの文章を読む必要が生じている。)利用者主導の複雑な物語に馴染めるように開発した手法の中には、本に移行可能なものもありそうだ。

動画を含む本。これに対応する名前はまだ存在しない。多数の静止画を掲載した本は、写真集とかコーヒーテーブル・ブック(大型豪華本)とか画集と呼ばれている。しかし、ディジタル書籍では、静止画であるべき理由はない。また、それが動画だと考える理由もない。文章と動画を画面上で融合させて、相互に補完する。動画の中に文章があり、また文章の中に画像がある。ニューヨークタイムズとワシントンポストが制作したいくつかの双方向的な図表は、この言葉と動画の融合に最も近づいている。

映画と本を融合させるためには、現時点では存在しない道具一式が必要になるだろう。今のところ、動画を拾い読みすることや、動画の構成を解析すること、映像の一場面に注釈をつけることは困難である。理想的には、文章を扱うのと同じ便利さ、容易さ、同じ効力で動画を扱いたい。すなわち、その内容に索引をつけたり、参照、カットアンドペースト、要約、引用、リンク、言い換えなどができるようにしたい。このような道具(および能力)が得られれば、高度に視覚的な本による授業ができるだろう。それは訓練や教育に最適で、それを使って勉強して、また巻き戻して勉強することができる。視聴できる本、あるいは読めるテレビというようなものだ。

テーブルが本の表示画面を兼ねるようになって、本が視聴するものになるとしたら、本は何であるかという問いに戻らなければならない。さらに、本が生まれつきディジタルになったら、何が起こるだろうか?

本が生粋のディジタルになることの直接の影響は、いつでも、どの画面にでも、本が流れ込むということだ。召喚すれば本が現れる。本を読むのに、購入したり、積ん読したりする必要はなくなる。本は人工物というよりは、視界に飛び込んでくる流れになる。

アマゾンやグーグル、出版社など、現在の電子書籍の管理人たちは、共謀して電子書籍の流動性を制約している。読者に対して、容易なカットアンドペーストを妨げ、大量の文章のコピーを禁止し、その他文章に対する重要な操作を禁止している。しかし究極的には、電子書籍の文章は自由化されて、本の真の特質が開花するはずだ。本は電話帳や雑貨カタログや巨大なリストになりたかったわけではないことに気がつくだろう。そのような役割は、ウェブサイトのほうがずっと得意なのだ。更新や検索ばかりの仕事には、紙は不向きである。前からずっと本がしたいと思っていたのは、注釈をつけたり、校正したり、下線を引いたり、目印をつけたり、要約、相互参照、ハイパーリンク、共有、あるいは、対話などだ。ディジタルであれば、そのようなことはすべて、またそれ以上のことも可能である。

本に関する新たな自由については、最新のキンドルでその最初の兆候を見ることができる。本を読んでいるとき、覚えておきたい一節があれば(多少面倒ではあるが)そこに印をつけることができる。その印のある部分を抽出して、重要あるいは記憶すべき箇所のより抜きを後で読むことができる。さらに重要なこととして、私が許諾すれば、印をつけた箇所を他の読者と共有できるし、私が他の読者のものを読むこともできる。また、すべての読者に最も人気のある部分を検索できる。このように新しい方法による読書が始まっている。特定の友人、学者、評論家が印をつけた箇所を読むこともできる。そのおかげで、他の著述家の精読による貴重な注釈が(許諾があれば)より多くの読者に開放される。これは、今までは稀覯書収集家だけが経験することのできた恩恵である。

読書は、ますます社会的になる。今読んでいる本の題名だけでなく、その本を読むときの反応や覚え書きも共有できるようになる。今は、ある一節に印をつけることができる。将来は、本の一節をリンクできるようになるだろう。読んでいる本の語句にリンクを付加して、すでに読んだ他の本の語句と対比させることができる。文章中の単語からどこかの辞書へのリンク、本の一場面から映画の同様の場面へのリンクなど。(このような仕掛けは、いずれも相当する部分を見つける道具が必要になる。)誰か信頼できる人による注釈の配信を申し込んで、読書リストだけでなく、注釈(強調、メモ、疑問、考察など)を入手できるようになるかもしれない。

知的な読書クラブでの会話、たとえば、今、グッドリーズ(GoodReads)で行われているようなものは、本自体に付いてくるようになって、ハイパーリンクを通じて本に深く組み込まれるだろう。そうすると、ある特定の一節に言及すれば、双方向リンクによってコメントからその文章に対して、また文章からコメントに対してつながりができる。あまり知られていない良い作品でも、実際の文章に密接に結びついた重要なコメントをウィキのような形で蓄積することができそうだ。

本相互の深いハイパーリンクができれば、それぞれの本はネットワーク化した事象になる。今のところ、本にできる最大限のことは、他の本の題名にリンクするくらいだ。何かのついでに、あるいは文献目録の中で、他の作品に言及していたら、電子書籍であれば、能動的にその本自体に対してリンクすることができる。他の作品の特定の一節へのリンクができればなお良いのだが、それは現在の技術ではまだ実現していない。しかし、一文の単位で文書の中に深くリンクすることができるようになって、しかもそれが双方向のリンクであれば、本をネットワーク化したと言える。ついでながら、これはドキュサーブ(docuServe)の原型のようなテッド・ネルソンの構想である。(ネルソンは、まったく文芸的な経済の上に構築されるマイクロペイメント(小額決済)やクレジットシステムをも予想していた。)

ウィキペディアを見れば、これがどういうことなのか何となく分かる。ウィキペディアが一冊の大きな本、すなわち一つの百科事典だと考えればよい。まあ、実際にそのとおりなのだが。その2千7百万ページの大部分には、下線付の青字の語句がぎっしりと詰まっている。その語句は、この百科事典のどこか別のところにある概念にハイパーリンクしていることを示している。ウィキペディアはネットワーク化した最初の本だ。やがてすべての本が完全にディジタル化すると、語句の参照は、その本の中だけでなく、他のあらゆる本にもネットワーク化されて、どの本にも下線付青字に相当するものが蓄積される。この深く豊富なハイパーリンクは、ネットワーク化したすべての本をつなぎ合わせて、一つの大きなメタ書籍、すなわち普遍的な図書館を作る。次の世紀には、学者や愛好者たちが計算機アルゴリズムの助けを借りて、世界中の本をネットワーク化して一つの文献にまとめ上げるだろう。読者は発想のソーシャルグラフを作ったり、概念の時系列図を作ったり、その文献内の項目の相互関係についてネットワーク図を作ったりすることができる。いかなる作品も、概念も、孤立した存在ではないことが理解できるようになる。あらゆる真、善、美は、からみ合った要素や、関連する実体、同様な作品などのネットワークであり、生態系である。

ウィキペディアは社会的に読まれているだけでなく、社会的に書かれていることは周知の通りだ。集団が書いている本がどれだけあるかは不明である。明らかなことは、科学や技術に関する多くの論文が分散的共同作業によって作成されている。それは、科学がきわめて共同作業的な性質を持つためである。しかし、大部分の本の中核部分は、今後も単独の著者が執筆するだろう。補助的な部分、たとえばネットワーク化された引用、議論、批評、文献目録、本の周辺のハイパーリンクなどは、おそらく共同作業になる。このようなネットワークのない本は、真っ裸のように感じられるだろう。

完全な普遍的図書館、すべての言語のすべての本を収録したものは、どの画面でもすぐに閲覧可能になる。本を利用する方法はいろいろあるが、多くの人にとってたいていの場合、希望する本は何でも実質的に無料になる。(「読み放題」の月額料金を払うとか。)利用は容易だが、本を見つけること、あるいは本に注目を集めることは困難だろう。そこで、本のネットワークの重要性が増大する。ネットワークが読者を呼び寄せるからである。

ネットワーク化した本の不思議なところは、それが永遠に完成しないこと、すなわち、不滅の記念碑ではなくて言葉の絶え間ない連続になることである。ウィキペディアは編集の連続である。それを引用しようとしたことがある人なら誰でも気がつくことだ。本も同様に、連続的な流れになりつつある。作品の先行物がネット上で書かれて、初版が出版されて、修正がなされて、最新情報が追加されて、改訂版が承認される。本は空間的にも、時間的にも、ネットワーク化する。

しかし、そうなったら、これを本と呼ぶ意味があるだろうか? ネットワーク化した本では、本質的に中心がなくて周縁部ばかりである。普遍的図書館の構成単位は本ではなくて、文や段落または章なのか? そうかもしれない。しかし、長い形態には力がある。自己完結的な物語、すなわち統一された語り口と内部で完結した論証には不思議な魅力がある。まわりにネットワークを引き寄せるような自然な共鳴がある。本をバラバラの構成要素に解体して、それをウェブとして組み上げる。しかし、より高い次元での本の構成とは、注目を集めることである。注目は人間の経済に残された希少なものだ。本は注目の単位である。事実は興味深いし、思想も重要だが、素晴らしいものは物語である。良い筋書きや練られた語り口は、いつまでも忘れられずに残る。ミュリエル・ルーカイザーは「宇宙は原子ではなく物語でできている」と言っている。

ちょうど今は、ディジタル書籍の適切な容器を見つけるための混戦状態にある。本は紙の殻から解放されて、ウェブの開放的な広大さ以上のものを必要としているようだ。本はpdfの持つ厳格な外観ではなく、そのウイルス的な簡潔さを好む。アイパッド(iPad)は感覚的で親密であるが(本の内容のように)、しかし今は手に持つには重い。キンドルは注目を集めるという利点があって、それは本が好むところである。この二つの容器は、その利便性とインタフェースに課金して、それで著者を養っている。本はどの画面にでも出現して、読書可能な場所であればどこでも読めるようになるだろう。しかし、私の考えでは、本は読むことを最適化するような形態に向かって進んでいくと思う。

長い目で見れば(今後10〜20年)、個別の本にお金を払わなくなるだろう。それは、いま個別の音楽や映画にお金を払わないのと同じだ。あらゆる物は有料の購読システムで流れていて、欲しい物を「借りる」だけになる。そうなると、所有するための電子書籍の容器を作るという心配は解消する。電子書籍は所有するものではなく、利用するものになる。将来の真の課題は、本が必要とする注目を集めるための表示装置を見つけることだろう。読者が気をそらす前に、次の段落へ進めるように仕向けるような発明。それはソフトウェアによる誘導と、高度に進化した読むためのインタフェース、読むことに最適化したハードウェアの組合せによるものだろうと私は推測している。それに加えて、このような装置を念頭に置いて書かれた本も必要になる。





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posted by 七左衛門 at 22:39 | 翻訳