2011年05月26日

「満足のパラドックス」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "The Satisfaction Paradox" の日本語訳である。



満足のパラドックス  The Satisfaction Paradox

身の回りにあるのは自分の欲しい物ばかりという世界に住んでいたらどうなるだろう? しかも、それが大量にある。そこにあるもの全部、100パーセントが好きな物ばかりであれば、どうやって選択するのか?

今までに作られた素晴らしい映画や本や音楽がすべて「ただ同然」で、しかも自分や友人の選別のおかげで屑や駄作や退屈なものが排除された世界に住んでいるとしたらどうだろう。そこにある選択肢は、親友が推薦する完璧な最高品質のものばかりだ。さて、次に見たり、読んだり、聞いたりするものは、どれにしようか?

目の前にある作品は、たまたま現れるものも含めて、絶対に自分の好みに一致しているものばかりという、奇跡のような世界に住んでいたらどうだろう? 言い換えれば、その時点で完璧に自分に適合するものだけが見えているのだ。しかし、そこで問題なのは、長い人生で使える時間に比べて、はるかに多くの作品がこの世の中には存在することである。どのようにして選択するか? そもそも選択できるのか?

理屈の上では、どれでも良いのだから選択することはない。すべての選択肢が素晴らしいのだから、幸運の結果に任せればよい。選別と推奨のシステムがうまく機能していれば、そこから得られる物は何でも満足できるはずだ。

選択しない場合には満足感がないというパラドックス!

選択によっていくらか満足度の低い結果になるとしても、満足感を得るためには選択する必要があるらしい。もちろん、これは最適な満足度よりは低い。このように、究極の満足が結局は満足でないという心理的なジレンマあるいはパラドックスがあるようだ。

これは欠乏ではなくて潤沢を扱う心理学的問題である。この問題は"Paradox of Choice"(邦訳『なぜ選ぶたびに後悔するのか』)で述べられている豊富さの問題、すなわち、選択肢が多すぎると思考が麻痺するという理論と全く同じというわけではない。その理論は、スーパーマーケットで57種類のマスタードから選べるというときには、どれも選ばずに帰ってしまうことがよくあるという話なのだ。

満足のパラドックスが意味するところは、選択における満足度を増大させる手段、たとえば選別や推奨などは、それが自分の選択の効力を減少させる場合には、満足をもたらさないということだ。別の言い方をすれば、絶対的に満足できるシステムはありえないということである。

これは今のところ、全く理論上の話である。なぜならば、今の最良の選別と推奨の仕組みをもってしても、完璧に近い適合が得られないからである。山ほどの不良品や大量の二流品、非常に多くの微妙な物に遭遇する。しかし、その技術は改良途上ではある。

このパラドックスを推進する主な要因は、雑音を選別するための道具ではなくて、良い信号が指数関数的に増大することである。新しい道具のおかげで、本を作ったり、音楽を作曲したり、ビデオを制作したり、ゲームをデザインしたりすることは、どんどん容易になっている。そのような作品の数は、私たちの注目が行き届くよりもずっと速く累積していく。また、パレートの法則の極端な場合を考えて、良品がその数パーセントだとしても、やはり多すぎる。

たとえば選別機能によって、百万件の芸術や発明の中から、楽しめる作品を1件発見するとしよう(かなり厳しい比率だが)。また、成人60億人が1年に1件の作品を制作するものとする。そうすると、熱狂的に注目すべき作品が毎日18件流れてくる。私はそんなに多くの名作に対応しきれない。現実的には、作品の形態によって満足の度合いが異なるだろう。

結局のところは、この世の中で私が大いに気に入っているのは、映画2千本、ドキュメンタリー500本、テレビ番組200本、音楽10万曲、本1万冊程度である。もし私が専業のファンであったとしても、それを全部消化するのに十分な時間がない。しかし、選別のための道具によって、それだけのものを選択肢として提示するとしたらどうだろう? 私、または、あなたは、その選択肢の中からどうやって選択するか?

すべての人が芸術や発明を地球規模で共有するようになるには、まだまだ長い時間を要するだろうが、現時点ですでに良い作品が蓄積されている様子を見ることができる。ネットフリックス(Netflix)では、クリックするだけで多くの映画の名作を利用することができる。駄作を選別して除去した後でも、私が一生かかっても全部見られないほどのものがある。さて、次は何を見ようか? スポティファイ(Spotify)その他の音楽配信サービスでは、夢見心地になる素敵な音楽をいつでもどこでも聞くことができる。一生かかっても全部聞けないほどの量だ。さて、次は何を聞こうか? グーグルを使うと8分の1秒待つだけで、今まで出版されたあらゆる本を見ることができるようになるだろう。共同作業による選別、友人の推奨、アマゾンの優秀な検索エンジンによって、山のような作品群から私に適した1万冊に絞り込んでくれる。さて、次には何を読もうか?

この質問に対する答えは、アマゾンのような組織が将来何を売っているかということだと思う。利用料金を支払ってアマゾンの会員になると、世界中のあらゆる本が定額で利用できるようになるだろう。(読みたいと思う個別の本は、無料同然になる。そのための料金が余分に発生しないのだから。)同じことが映画についても言えるし(ネットフリックス)、音楽についても言える(アイチューンズ、スポティファイ、ラプソディ)。個別の作品を購入しなくなるのだ。

そのかわりに、アマゾンやネットフリックス、スポティファイ、グーグルなどに、次は何に注目すべきかという提案の対価を支払う。アマゾンは本を売るのではない(それは実質的に無料だ)。何を読めばよいかという提案を売るようになる。「無料」の作品、他でも入手可能な作品について、推奨提案を見る権利を得るために利用料金を支払う。その推奨は(利用者の協力やリストの共有によってさらに改善するものとして)、個別の本よりも価値のあるものになるだろう。また、映画にもお金を払わなくなる。安価な利用権を買って、自分専用の推奨提案に対価を支払う。

新しい時代に欠乏するものは、創造的作品ではなくて満足である。満足のパラドックスのために、ほとんどの人は満足することがないのだ。





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posted by 七左衛門 at 21:37 | 翻訳