訳 :堺屋七左衛門
この文章は Kevin Kelly による "When Hard Books Disappear" の日本語訳である。
紙の本が消滅するとき When Hard Books Disappear
紙の本は絶滅の途上にある。
生物学には「タイプ標本」という概念がある。あらゆる生物の種には、顕著な差を持った多数の個体がある。たとえば、米国には何百万羽ものコマツグミがいる。それはすべて、学名turdus migratoriusという種類の鳥に見られるコマツグミらしさを備えている。しかし、他の鳥を「コマツグミに似ている」とか、あるいは「まさしくコマツグミだ」と科学的に表現する必要があるとき、その何百万のコマツグミのどれと比較すればよいのだろうか?
生物学者は、一つの個体を任意に取り上げて、それが種全体を代表する原型であることにして問題を解決した。これがその種類の原型、すなわち「タイプ標本」である。選ばれた標本には何も特別なところはない。それが代表例だということにする。それだけのことだ。しかし、ひとたび選んでしまうと、この普通の標本は、他の種類と比較するときの規範的な見本になる。植物学や動物学上のあらゆる種について、博物館かどこかにタイプ標本の実物が保管されている。
本その他のメディアを制作することは、今ではタイプ標本を保存するのと同じようになりつつある。インターネットをバックアップしたり(ウェブ全体を!)、あるいはグーグルに対抗してすべての本をスキャンしてディジタル化しようとしている男が、最近は、そのディジタル化した本の実物が保存されていないことを心配するようになった。その男はインターネット・アーカイブという団体の創始者、ブリュースター・ケールである。ブリュースターは、グーグルやアマゾン、あるいは本をスキャンしている国などが、貴重でない本をスキャンするために裁断したり、スキャンした後に捨てたりすることに気がついた。このような破壊は文化にとって危険であると考えた。
私たちは、今世紀末を越えて続くことはないと思われる特別な時期にいる。紙の本が豊富にあるという時期だ。紙の本は安くて、どこにでもある。空港からドラッグストア、図書館、何百万の家庭の書棚に至るまで。紙の本を愛する人にとって、これほど良い時代はない。しかし、紙の本の制作は基本的に終息する方向へ急速に進んでいる。家庭で所蔵する本は減少している。地元の図書館でも、支援がなくなると、とくに大衆向け出版物を収集することが困難になりそうだ。稀覯書は少数の専門図書館が収集するとしても、普通の紙の本の大部分については、保管している所が少なくなる。今は信じられないかもしれないが、あと何世代かのうちに、多くの人にとって紙の本の実物を見ることは、本物のライオンを見るのと同じくらい珍しいことになるだろう。
ブリュースターは、自分たちがスキャンする本を1冊ずつ保存することに決めた。何百万ものディジタルコピーの代表として、世界のどこかに少なくとも1冊の実物があるようにする。この保護対象に選ばれた任意の本は、その作品のタイプ標本となる。電子書籍の文章に誤記や改変があるのではないかと疑問を持った人は、どこか安全な場所に保管された実物のタイプ標本を調べることができる。
しかし、どこに保管するか? その答えは、パレット上にビニールで梱包された5段積みの段ボール箱の中である。それは貨物輸送用コンテナに収納されて、カリフォルニア州リッチモンドの鉄道線路の近く、工場街の袋小路の倉庫にある。「ここに貴重品はない」という風情の目立たない建物で、ブリュースターは、1千万冊の本を保管しようと考えている。それは世界的な大学図書館にほぼ匹敵する。コンテナは2段積みで、配管を通じて湿度30%を保つようになっている。3重の防水構造(ビニール、鉄のコンテナ、鉄の屋根)とあわせて、短期間放置しても乾燥状態を保持できる。

しかし、ブリュースターは、紙の本以外の物も保管している。ディジタル版であっても何らかの形で必ず実体になる。インターネット・アーカイブでは、以前に収集したものはテープを、最近のものはハードディスクをその屋内の貨物輸送用コンテナに保管している。こうして、次世代の記録媒体の物理的形態が何であっても対応する余地を残している。ブリュースターは、きっと次の記録媒体が出てくると言う。「本をマイクロフィルムに記録していたとき、再びスキャンすることはないと思っていただろう。300dpiの解像度でスキャンしていたとき、再びスキャンすることはないと思っていただろう。今、私たちは、いつかこの本を再びスキャンし直すとわかっている。この箱の中でそのときを待っているのだ。」
あらゆるディジタル形態のデータが最後には物理的実体になるという壮大な計画には、広く理解されるべき深い真理がある。ブリュースターによるプロジェクトの概要から引用する。
インターネット・アーカイブでは、収集物をディジタル化してコンピューターディスクに保管している。そうすると、ディジタル版には実物との共通点が多数あることがわかってきた。ハードディスクはディジタルデータを保持しているが、それ自体は物理的実体である。だから、3〜5年の寿命が過ぎて廃棄するときには、データを複製して保存する。前世代の物理的記録形式であるマイクロフィルムについても、同様にデータを複製保存している。つまり、ハードディスクは情報を保存する物理的記録形式の一つに過ぎない。この関係を見れば、ディジタルの時代であっても、やはり物理的なデータ保管が重要な機能であることがわかる。
本を1冊ずつ取り出すのではなくて、たとえばパレット単位でまとめて取り扱う。しかし、その本は、究極的にはいつか必要になることを念頭に置いて保存している。多層構造システムの仕様は次のとおり。
本は図書目録に登録し、その本の情報と保管場所を記載した中性紙を挟み込む。箱に約40冊の本を収納して、箱の外側には内容物を表示する。パレットには24個の箱を積載する。輸送用40フィートコンテナを改造したものを使って、堅牢で一定の環境条件、すなわち華氏50〜60度(訳注:摂氏10〜16度)、相対湿度30%を保つように個別に制御する。建物は貨物輸送用コンテナと空調システムを収容している。非営利団体がその資産と内容物を所有する。

この前の日曜日に、紙の本の長期的保管庫が一般公開された。現在の収容能力は約50万冊である。本の多くはタダ同然で中古市場で購入したもので、その他に愛書家が所蔵品を寄付したものもある。この団体では、スキャンして保存するため、さらに多くの本を求めている。本を整理してスキャンするのに、1ページあたり約10セントの費用を要する。スキャンする本を所有することの利点の一つは、ディジタルコピーを作成するにあたって、フェアユース(公正使用)の権利を主張するというささやかな立場が得られることだ。ここでは自分たちが所有する本だけをスキャンするようにしている。
賢明な社会は、作るものすべてについて少なくとも1個の標本を永遠に保存する。公開されたインターネットのバックアップが、20年経った今でも、民間組織のインターネット・アーカイブだけであることには驚いてしまう。広範囲にわたるテレビとラジオの唯一のアーカイブも、同じ団体によるものである。そして今では、本のバックアップをバックアップしている。いつの日か、私たちはその先見の明に気づいて、ブリュースター・ケールを英雄視するようになると思う。

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