2011年09月11日

「巻戻し可能なメディア」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "Scroll Back Media" の日本語訳である。



巻戻し可能なメディア  Scroll Back Media

誰かが演説をしているときには、注意深く聞く必要がある。なぜならば、言葉は口に出ると同時に消えていくからである。録音技術が出現する以前は、聞き逃したことを聞くためのバックアップも巻戻しもなかった。

口頭での情報伝達から書面による伝達へ、という大きな歴史的転換のおかげで、情報の受け手は、巻物の最初へ戻る、すなわちもう一度読むという可能性を得た。

本の重要な性質の一つは、読者が読者自身の要求に基づいて、何度でも必要なだけ再読できることだ。実際のところ、再読される本を書くというのは、著者にとって最高の称賛である。再読されるような本を書こうとして、著者たちはいろいろな方法でこの性質を利用してきた。二度目に読んだときにより深い意味がわかるような転換点を作ったり、再読して初めてわかる皮肉を隠しておいたり、解読するのに詳細な検討を必要とする内容を詰め込んだりする。

前世紀に、本は文化の中心としての地位を映画とテレビに奪われた。この画面によるメディアには、本と共通するところが多い。いずれも語りに基づいているし、話が一本道である。しかし本と違って、画面では逆に戻ることが容易ではない。映画は一度だけ映写幕に映し出されて、そして消える。有望な大ヒット作がある日公開されて、近くの映画館で1ヶ月間上映される。その後は、数十年後の深夜テレビ以外では滅多に見ることができない。テレビもほぼ同様である。番組は予定にしたがって放送される。そのときに見れば良いが、そうでなければもう見ることはできない。公開された映画を何度も見るのは、お金がかかるし一般的ではない。テレビ番組も、夏の再放送で再び視聴できるものは限られている。さらにその場合でも、その番組を見るためには、放送されるその日のその時間にテレビの前にいるように予定を調整しておく必要がある。

テレビや映画には「口述」的な性質があるので、作品は一度しか見られないという前提に基づいて制作される。これは、あらゆる創作について賢明な前提だ。なぜならば、物語の第一印象で可能な限り多くのことを伝達するようになるからである。しかし、その前提は、物語の内容を弱めるという面もある。多くのことを2回目や3回目の遭遇で伝えるように制作することもありうるのだ。

最初はVHSが、つづいてDVDとティーボ(TiVo)が、映像作品の巻戻しをきわめて容易にした。何かをもう一度見たければ、見ることができる。映画やテレビ番組の一部だけを見たければ、いつでも見られる。この巻戻しの機能は、コマーシャルやニュースにも適用できる。他の何よりも巻戻し可能という性質によって、コマーシャルは新しい芸術形式に変化したと思う。再視聴機能のおかげでコマーシャルは、一過性の番組の間に一瞬ちらっと見るものという牢獄から抜け出して、本と同じように読んだ後で再読できる作品の書庫へと移行した。そして、他人に貸し出したり、討論し、分析し、検討することができるようになった。

画面によるニュースについても、同じように巻戻し可能になるのを私たちは経験しつつある。テレビのニュースは、以前は一過性の流れであって、記録したり分析したりするのではなく、ただ吸収するものであった。今では巻戻し可能になっている。巻戻すことによって、その正確さ、動機、前提などを比較できるし、共有したり、検討したり、混合することができる。

映画が巻戻し可能になると、100時間にわたる続き物、たとえば『LOST(ロスト)』、『The Wire(ザ・ワイヤー)』あるいは『Battlestar Galactica(宇宙空母ギャラクティカ)』などが、現実に楽しめるものになる。このような映画では、長期間にわたって見ているうちに理解すべきことが多すぎる。一回目の視聴ではわからないように巧妙に埋め込まれた要素が多すぎる。したがって、任意の時点で巻戻し可能であることが必須である。

録音できるようになったとき、音楽は巻戻し可能になった。生演奏の音楽は瞬間のものであり、演奏するたびに異なるものであった。録音以前には、多くの人は、一生のうちに大規模な交響曲の作品を何度も聞くことはなかった。最初に戻ってもう一度演奏を聞く ――しかもその同じ演奏を―― という機能は、音楽に永遠の変化をもたらした。より正確に、より濃厚に、より短くなり、そして繰り返しを前提として制作されるようになった。

今ではゲームにも、リプレイや残機など、関連する概念による巻戻し機能がある。また、それとはやや異なるものだが、あるレベルを習得するまで何度でもゲームの進行を巻戻しすることもできる。

今の私たちは巻戻しを当然だと思っているが、巻戻しはメディアの評価と利用方法を変化させている。生活の中では、たとえば食事のように、今でも巻戻しができない経験がある。食事の味やにおいを本当に再生することはできない。しかし、もしそれが可能になったとしたら、確実に料理を変えることだろう。

コピーという意味でのメディアの完全な複製は、十分に研究されている。しかし、巻戻しという意味でのメディアの完全な複製は、あまり研究されていない。日常の行動をライフログに記録したり、ライブストリームを保存したりすることを始めると、生活の多くの部分が巻戻し可能になる。私は、メールの受信箱や送信箱をいつも振り返って、自分の生活上の出来事を巻き戻している。もしも巻戻しができるとわかっていれば、最初にすることが変わってくるかもしれない。フリッカー化され、またフェイスブック化された生活が、はたして振り返って再確認すべきものかどうかを決めるのは時期尚早だが、その機能のおかげで未来の生活様式は変わっていることだろう。





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posted by 七左衛門 at 20:45 | 翻訳