2012年03月22日

「選択と必然と偶然」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "Chosen, Inevitable, and Contingent" の日本語訳である。



選択と必然と偶然  Chosen, Inevitable, and Contingent

1964年のニューヨーク万国博覧会を見に行った私は、目を丸くして口をポカンと開けた子どもだった。必然的な未来が展示されていて、私はそれを丸ごと飲み込んだ。AT&T(米国電信電話会社)館では、テレビ電話が動作していた。テレビ電話という発想は、科学小説(SF)では百年前から未来予想のわかりやすい事例として知られてきた。それが目の前で実際に動作している。そのとき見ることはできたが、使う機会はなかった。しかしテレビ電話が近郊生活に浸透する様子を示す写真が、ポピュラー・サイエンス誌やその他の雑誌に掲載されていた。私たちはみんな、それが自分の生活にいつか出現すると期待していた。さて、つい先日、それから45年後に、1964年当時に予言されたのとまるで同じようなテレビ電話を私は使った。妻と私はカリフォルニアの書斎で湾曲した白い画面をのぞき込んで、上海にいる娘の動画を見ていた。それは昔の雑誌の挿絵に描かれたテレビ電話のまわりに集まる家族に似ていると思った。中国にいる娘は自分の画面で私たちの姿を見ながら、取るに足りない家庭の雑事についてのんびりとおしゃべりした。このテレビ電話は、みんながこうなると想像していた通りのものである。ただし、三つの重要な点を除く。その機器は、厳密には電話ではなく、こちらはiMac(アイマック)であり、娘はノートパソコンである。通話は無料(AT&Tではなく、スカイプ経由)である。そして、問題なく使用可能であり無料であるにもかかわらず、テレビ電話は一般的になっていない ―― 私の家族にも。つまり、必然的だったはずのテレビ電話は、昔の未来予測とは違って、現代の標準的な通信手段にはなっていない。

それでは、テレビ電話は必然的だったのか?「必然的」という言葉を技術に対して使う場合には、二通りの意味がある。一番目の意味は、発明が一度は出現することになっている、というだけの場合である。その意味では、あらゆる技術は必然的だ。遅かれ早かれ、どこかの熱狂的な機械マニアが、何とかなりそうなことは何とかしてしまう。ジェットパック、水中の家、暗闇で光る猫、忘れ薬など、時間をかけさえすれば、このような発明は必ず試作品や試供品として出現するだろう。さらに、同時発明ということは例外ではなく通例であるから、何でも発明可能なものは繰り返し発明される。しかし、広く受け入れられる発明はわずかしかない。大部分のものは、あまりうまく動かない。あるいは、うまく動いても必要とされないことも多い。したがって、この平凡な意味において、すべての技術は必然的である。時間のテープを巻き戻せば、同じものが再発明される。

「必然的」という言葉の二番目の意味は、もっと実質的なものであって、一般に受容されて存続する状況を必要とする。その技術の利用がテクニウム(訳注:文明としての技術)において支配的であるか、少なくとも技術圏の一角を占める状態に到達していなければならない。しかし、必然的であるためには、普遍性に加えて、大規模な推進力がなければならない。数十億の人間による自由選択を超越して、その技術自体の決断に基づいて前進しなければならない。単なる社会の気まぐれによって進路を逸脱してはいけない。

テレビ電話は、さまざまな時代にさまざまな経済的形態で、かなりの細部にわたって何度も予想されている。それは本当に出現する意欲があったのだ。ある画家が1878年にその想像図を描いている。電話の特許が成立してからわずか2年後である。1938年には、実際に動作する一連の試作品がドイツの郵便局で公開されている。ニューヨークでは、1964年の万国博覧会の後、電話ボックスに商用版が設置されたが、関心が低かったためAT&Tは10年後にその製品の提供を中止した。ニューヨーク市民の誰もがその構想を認識していたにもかかわらず、最盛期でもテレビ電話の有料加入者数は500件前後しかなかった。この場合は、必然的な進歩と言うよりも、必然的な遠回りと戦う発明だったと言っても良さそうだ。

しかし、今、テレビ電話が再び登場した。50年の歳月を経て、おそらく前よりも必然的になった。当時はまだ早すぎて、必要な周辺技術が存在せず、社会の状況も成熟していなかった。この点において、以前の度重なる試行は必然性の証拠であって、誕生への衝動が常に存在していたと考えることができる。もしかすると、今でもまだ生まれているのだ。テレビ電話の普及に必要となる革新的技術が、他にもこれから発明されるのかもしれない。必要な革新とは、たとえば、電話の相手方の視線がカメラの方向ではなく、まっすぐあなたの目を見ているようにする方法、会話している複数の関係者の視線を画面の中で切り替える方法などかもしれない。

テレビ電話については賛否両論がある。(a)それは出現すべきだ。(b)それは出現する必要はないし、今でもたまにスカイプで使われる程度で、ごく一部以外では出現したとは言えない。さて、技術評論家ラングドン・ウィナーが言うところの「自己推進的で自律的で不可避な流れ」としての慣性によって技術は前に進もうとしているのか? あるいは、技術変革の順序について、人間の明確な自由意志による選択があって、人間は(個人として、または集団として)各段階に責任を持つべき立場なのか?

ここで、たとえ話を提示してみよう。

あなたが何者であるかは、ある程度、遺伝子で決まっている。毎日毎日、科学者たちは人間の何らかの特徴に相当する新しい遺伝子を特定したり、遺伝で継承した「ソフトウェア」が人間の身体や脳を働かせる方法を解明したりしている。熱中、野心、勇敢、内気、その他多くの行動について、強い遺伝的要素があると今ではわかっている。それと同時に、「あなたが何者であるか」は、環境と養育状況によって決まる。科学は毎日次々と証拠を発見していて、人間としての存在は家族や仲間によって、さらには文化的背景によって形成されるということを解明している。他人が自分をどう見ているかの影響力はきわめて大きい。さらに、環境が遺伝子に影響する場合があるという証拠が、近ごろ多数発見されている。この二つの要因は、まさしく補因子であって、互いに他方を決定している。人の環境(たとえば何を食べるか)は、その人の遺伝情報に影響を及ぼし、遺伝情報は人を何らかの環境に導く。そのせいで、両者の影響を解明することが困難になっている。

最後に、本当の意味であなたが何者であるか、すなわち、性格や気質、さらには人生で何を行うかは、あなたが何を選択するかによって決まる。人生の形態はきわめて多数用意されていて、それにはあなたの支配は及ばないが、その与えられたものの中から選択する自由は広大であり意義深い。遺伝子と環境による制約の範囲内で、人生の進路はあなた次第だ。遺伝的または家族的に嘘をつく性癖があったとしても、裁判で真実を語るかどうかはあなたが決める。遺伝的または文化的傾向にかかわらず、見知らぬ人と仲良くなる危険を冒すかどうかはあなたが決める。先天的な性質や条件を超越して決定する。あなたの自由は完全からはほど遠い。世界最速の走者になるかどうかは、あなたの選択だけでは決まらない(遺伝子と養育状況が大きな役割を果たす)。しかし、今までよりも速く走れるようになろうと選択することはできる。遺伝的形質および家庭や学校での教育によって、あなたの賢さ、寛大さ、ずるさについて最大の限界が設定されるが、今日は昨日よりも賢くなるか、寛大になるか、あるいは、ずるくなるかどうかをあなたが選択する。あなたの身体や脳は、怠惰であったり、あるいは、だらしなかったり、または創造力豊かであるかもしれないが、そのような資質がどの程度まで進行するかをあなたが選択する(生得的に決断力がない人であっても)。

不思議なことに、他人がその人について覚えているのは、この自由に選択された特徴である。人生においては実際の選択が次々と発生する。出自と経歴という大きな籠の中で、その選択にどう対処するかによって、人は何者であるかが決まる。その人が死んだときに他人が語ることである。与えられたものではない。本人の選択だ。

技術についても同じである。テクニウムは技術それ自体の本質的な性質によって、ある程度あらかじめ運命が決まっている。人間の発達において、受精卵から始まって、胚になり、胎児になり、乳児、幼児、子供、十代の若者になるという必然的な展開を遺伝子が推進するのと同様に、技術の大きな趨勢も発達の段階を順にたどっている。

人間の生涯において、十代の若者になることについては選択の余地がない。不思議なホルモンが流れて身体や知性が必ず変化する。文明も同様の発達経路をたどるが、その様子はあまりはっきりしない。それは私たちが一個の実例を見てきたとおりだ。しかし、そこに必要とされる順序を見つけることができる。まず最初に、社会は火を制御しなければならない。その後、金属加工、電気、さらに続いて世界規模の通信である。その厳密な並び方には異論があるかも知れないが、順序があることは確かだ。

それと同時に、歴史が関係してくる。技術的システムは、それ自体が推進力を持ち、複雑で自己集合的になるので、ある技術がさらに他の技術のための環境を形成する。ガソリン自動車を運用するために構築された社会基盤は非常に広範囲にわたっていて、1世紀に及ぶ発展を通じて、今では輸送以外の技術にも影響がある。たとえば、高速道路網に加えて、空調の発明は亜熱帯地域の郊外の開発を促進した。安価な冷気の発明は米国の南部や南西部の景観を一変させた。もし自動車のない社会に空調が導入されていたとすれば、冷房システム自体に技術的な推進力と固有の性質があったとしても、その結果の形態は今とは違っていただろう。このように、テクニウムのあらゆる新発明は、既存技術という歴史的前例に左右される。生物学では、この効果を共進化と呼んでいる。その意味するところは、一つの種のための「環境」は、その種と接触する他の種にとっての生態系になっているということである。そして、すべての種は変化している。たとえば、餌と捕食者は、終わりのない軍拡競争をしながら互いに進化している。宿主と寄生生物は、互いに競い合ううちに一つのペアになる。生態系に適応しようとして変化する新しい種に対して、生態系の方からも適応していくのである。

必然的な力によって引かれた境界線の内側で、人間による選択は、時間の経過とともに推進力を増加させる結果を生む。それは偶然性が固定化して技術的必然になるまで続き、さらに将来の世代では、ほとんど変更不可能になる。大筋では間違いのない昔話がある。古代ローマでは普通の荷車は、ローマ帝国の戦車の幅と同じになるように作られていた。なぜならば戦車が道路に残した轍(わだち)をたどって走るのが容易だからである。戦車の寸法は、大きな軍馬を2頭収容できる横幅であった。それを今の英国式計量法に換算すると4フィート8.5インチ(訳注:1435mm)となる。広大なローマ帝国の道路は、すべてこの仕様で建設されていた。ローマの軍団がブリテン島に進撃すると、長距離にわたって4フィート8.5インチ幅の帝国用道路を建設した。英国で路面軌道を敷設するときには、それまでと同じ馬車を使えるように同じ幅を採用した。さらに、馬のない客車による鉄道を建設するときにも、レールの幅は当然4フィート8.5インチになった。ブリテン諸島出身の労働者たちがアメリカ大陸で最初の鉄道を建設するとき、すでに慣れ親しんだ同じ工具や治具を使った。時間を早送りして米国のスペースシャトルの話だが、スペースシャトルは部分毎に米国各地で作られて、フロリダで組み立てる。打ち上げのときシャトルの側方に付いている2個の大きな固体燃料ロケットエンジンは、ユタ州から鉄道で運ばれる。その路線は、標準軌よりわずかに広い幅しかないトンネルを通る。したがって、ロケット本体は4フィート8.5インチよりもあまり大きくすることができない。そこで、あるお調子者はこう言った。「おそらく世界最先端の輸送システムであるスペースシャトルの重要な設計特性は、2千年前の馬の尻の大きさによって決められた。」多かれ少なかれ、このようにして技術は長期間にわたってそれ自体に制約を加える。

過去1万年にわたる人間の技術は、新時代の技術の運命的な発展に影響を及ぼす。たとえば、電気システムは、その初期状態からいくつかの方向へ進展する可能性があった。技術仕様として、交流または直流のどちらかに決めることができる。それは、集中化(交流)または分散化(直流)のどちらを支持するかによる。また配線を12ボルト(アマチュアによる)または250ボルト(プロによる)のどちらにするか。特許による保護を支持する法体制にするかどうか。ビジネスモデルを営利中心に構築するか、非営利中心にするか。このような変数によって、システムの展開は異なる文化的方向へ屈曲する。いずれにしても何らかの形態での電気利用は、テクニウムにとって必要であり不可避の局面であった。この初期の仕様は、後になってインターネットが電気回路網の上に構築される方法に影響する。インターネットも必然的なものであるが、その実現形態は先行する従来技術の方向性に左右される。電話は必然的であったが、iPhone(アイフォーン)はそうではない。生物にたとえればよくわかる。人間の青春期は必然的だが、にきびはそうではない。十代の時期は誰にでもある必然的なものだが、その詳細な状況は、ある程度その人の生態に依存しており、さらにそれは過去の健康状態や環境に依存する。

人格の場合と同様に、技術は三要素で構成される。運命的発展という主要な駆動力(第一の力)の他に、技術の歴史という回避可能な影響(第二の力)があり、それに加えてテクニウムを形成している社会の集合的自由意志(第三の力)がある。技術の発展過程は、必然的な第一の力を受けながら、物理法則によって、また大規模で複雑な適応型システムの中で自己組織化する傾向によって、その進む方向が決まる。テクニウムは、時間のテープを巻き戻してもう一度再生したとしても、一定の巨視的形態に向かう傾向がある。テクニウムのたどる経路は、それ以外にも過去の決定による惰性、すなわち技術の歴史によって生じる第二の力によっても制約される。技術の形成におけるどの時点においても、次に起こるべきことはすでに起こったことに左右される。つまり、歴史は将来に向けての人間の選択を制約する。この二つの力は、テクニウムの進路を限定し、私たちの選択を強く制約する。人間は「次は何でも可能だ」と考えることを好むが、実際には技術については何でも可能なわけではない。

この二つとは対照的に、第三の力は、私たちの自由意志が個別に選択し、その結果として集合的な方針決定をするものである。想像しうるすべての可能性と比べると、私たちには非常に狭い範囲の可能性しかない。しかし、1万年前と比べれば、あるいは千年前、さらには昨年と比べても、私たちの可能性は拡大している。宇宙的な意味では制約があるにしても、私たちが扱える以上に多くの選択肢がある。さらにテクニウムという推進力によって、実際の選択肢は拡大し続けている(大きな道筋はあらかじめ決まっているとしても)。

この逆説は、技術史家だけでなく通常の歴史家も経験するところである。歴史学者の考え方によれば「人間の自由は、歴史的経過によって定められた限界の範囲内において存在する。あらゆることが可能というわけではないが、それでもなお選択できることは多い。」歴史家のデイヴィッド・アプターが書いているように、「政治形態が作用する範囲としての人間社会で物事の複雑さが増加する過程」において、すなわち、定められた進路の範囲内で「人生を代替案、選好、選択肢だと考える現代的な手法」である。技術史家のラングドン・ウィナーは、この自由意志と運命的決定の収束について次のような表現でまとめており、これは技術史家のジャック・エリュールも同様の考えを示している。「まるで因果律によるかのように、技術は着実に前進している。このことは、人間の創造性、知性、独自性、可能性、あるいは特定の方向へ進もうとする意図的な要求を否定するものではない。これらすべては、進行する過程の中に吸収され、発展の推進力となる。」

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テクニウムの三要素的性格は、生物の進化における三要素的性格を反映している。テクニウムは進化を加速するものだから、それは当然である。(この説明は概ねスティーヴン・ジェイ・グールドの分析に基づいており、私の記事"Ordained Becoming"で述べたものである。)物理学の基本法則と創発的な自己組織化の力によって、進化は一定の生命の形態に向かって進んでいる。特定の種についての微小な細部は予測できないが、左右の対称性、水中での流線型の身体、眼球の構造というような巨視的なパターンは、物質の物理法則および自己組織化によって決まっている。この不可避な力は、進化の構造的な必然性であると考えることができる。

進化の三要素のうち第二の側面は、生物的変化の歴史という局面である。初期の偶然による突然変異や環境的条件によって、進化の方向があちらこちらへ屈折する。それは必然性の範囲内での偶然である。最後に、進化において働く第三の力は、適応機能だと考えられる。それは、絶え間ない最適化と創造的革新の原動力であり、生存のための問題を常に解決しているものである。この三つの要素すべてが一緒になって、有限個の基本的形態という通路を経由しながらも、予想外の新しい変化をもたらして進化を推進している。

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技術の三要素的性格は、これとよく似ている。しかし、無意識の適応機能のかわりに、テクニウムには、人間の創造力と自由意志という意識的な適応機能がある。生物の進化には設計者はいないが、テクニウムには、知性を持った設計者、すなわちサピエンス(訳注:現代の人類を意味するケヴィン・ケリーの用語)が存在する。他の二つの要素は、技術の進化でも同じである。物理学の基本法則と創発的な自己組織化が技術の進化を推進する。車輪、蒸気機関、二進数のソフトウェアなど、必然的な構造形態を順にたどりながら。また、それと同時に、過去の発明という歴史的な偶然性によって、進化の方向があちらこちらへ屈折する。それは必然的な発展の範囲内においてである。最後に、個々の自由意志による集合的選択がテクニウムの性質を決める。私たちの人生では、自由意志による選択でその人がどういう人間であるか(言葉では言い表せない「人柄」)が形成されるが、それと同じことがテクニウムにもあてはまる。

ウィナーは、この定められた範囲内での選択という難しい問題を可視化できる例を示している。「セベッティヤルビ地方のラップ人は、その経済の基礎であるトナカイの牧畜において、犬ぞりやスキーに代えて雪上車を使うことをあえて選択している。しかし、伝統文化が依拠する生態的および社会的な関係を完全に変更するにあたって、この変化がもたらす影響を彼らは選択していないし、意図してもいない。」このような影響力のある結果は、テクニウムの大きな軌跡によって推進されている。

工業的な自動化システム、たとえば、工場の組立ライン、化石燃料の動力、大衆教育、時間厳守の意識などで構成されるシステムについて、巨視的規模での外形を選択することはできなくても、各部分の性質を選択することはできる。大衆教育の基準を決めるにあたっては、いくらかの自由度がある。平等に重点を置くか、長所を伸ばすか、革新性を育成するか、などに応じてシステムを調整できる。組立ラインについては、製品の生産性を重視するか、労働者の技能向上を重視するかで異なる方法を取ることができる。あらゆる技術的システムは、異なる基準を設定して、その技術の特質と個性を変えることができる。

そこで当然の疑問は、テクニウムのある局面が物理法則と自然な自己組織化によってあらかじめ定められたもので、また、別の局面は現在及び過去の人間による選択によるものであるとすれば、どちらがどちらか、どうすれば区別できるのか?システム理論研究者のジョン・スマートは、テクニウムを三要素の観点(ただし、ここで示すものとは異なる)から記述している人でもあるが、技術版の「ニーバーの祈り」(平安の祈り)が必要だと提案している。この祈りは、12ステップ依存症回復プログラムの参加者の間でよく知られており、1930年代に神学者ラインホルド・ニーバーが書いたものである。

神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

- ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)


技術の進歩における必然的な段階と、人間の意志による形態とを識別する知恵は、どこから得られるのだろうか? 私たちが本当に欲しいものは、必然的なものを明らかにする技能である。

そのための道具は、宇宙におけるテクニウムの長期的軌跡を人間が認識することだと思う。ビッグバン以来の生物的進化の自然な拡張という文脈で技術をとらえれば、今の私たちの時代にはそのような巨視的な要請があることを理解できる。すなわち、必然的な技術の形態は、すべてのエクストロピック・システム(訳注:進化し続けるシステム)の特徴となる原動力から生じている。それは、私が「技術の欲望」と表現している十個あまりの特質、すなわち、複雑性、多様性、特殊性、効率、知の統合、社会化、構造、普遍性、機会、美、感覚性、発展性を増加させることである。これらすべての価値は、生命、進化、テクニウムのような持続的システムでは概して増加している。

私の仮説では、この長期的な傾向が現在の何らかの技術に作用しているならば、その技術には多くの「必然的な」力という特徴が現れる。実際のところ、この長期的な条件こそが必然性をもたらしている。ある技術が、たとえば社会性を増加する傾向を示すかどうか、あるいは知の統合に向かうのか、選択や自由意志を増加させるか減少させるか、その普及によって機会が減少するか増加するか、などの判定結果は全体として、その技術の必然性を示す目安だと考えられる。このエクストロピックな力に適合するかどうかは「ニーバーの祈り」の判定基準になる。あるアイデアがこの十数個の特質という未開拓領域に沿って進んでいるならば、その技術はその時期に必然的なものである。

数ある中から一つ、ささやかな例をあげてみよう。現在というテクニウムの特定の時期(21世紀の変わり目)に、私たちは難解で複雑な通信システムを多数作っている。地球全体を電線でつなぐためにはいくつかの方法がありうるが、私の控えめな予測によれば、長期的に最も持続可能な技術的配置、すなわち、他の配置が脱落する結果として必然性の産物になると私が考えるものは、多様性、知の統合、機会、社会性、感覚性などを増加させる傾向を持つ技術である。二つの競合する技術を比較するとき、どちらがこのようなエクストロピックな特質を促進するかを考えればよい。多様性を広げるのか、それとも閉ざすのか? 機会を増大させるのか、それともしぼませるのか? 内なる感覚性に向かって進むのか、それとも無視するのか? 普遍性によって花開くのか、それとも崩壊するのか?

たとえば、石油燃料を使った大規模な農業は必然的なのか? トラクター、化学肥料、種苗育成業者、種苗生産業者、食品加工業者などによる高度な機械化システムのおかげで、安価な食料が豊富に供給されている。それは私たちが他の物を発明するための時間、および発明を続けるための長寿の基盤となり、そして究極的には、多くの新しいアイデアを生み出すための人口増加につながる。昔の食料生産の構図、すなわち自給自足の農業、あるいは動物を動力源とする最盛期の農業と比べても、機械化された農業は、エネルギー効率、複雑度、機会、構造、感覚性、専門性を増加させるという意味において必然的である。

しかし、技術の発展は生物の発育に似ていて、人間の幼少期が成長によって終わるのと同様に、技術の各段階は成長によって終わる。たいていの成長と同じく、初期の形態は捨てられるのではなく、次の段階に吸収される。人間の幼少期の器官は排除されずに成熟する。進化においては、初期の構造が消滅することはめったにない。通常は、そのまわりに新しいものが構築される。私たちの脳は良い証拠である。人間の脳には、中心部に今でも「爬虫類」脳があり、地面をはい回る太古の祖先に有益であった基本的な直感を生み出している。驚いたときには、原始的な闘争・逃走反応が働く。その機能が消滅せずに残っている。人間の脳が発達するにつれて、今も働く初期の脳の上に重ねて、認識のための層を追加してきた。これは人間の行動が複雑になる理由の一つである。進化という長い旅の終わり近くで、社会的交流のための精神的な様式を身につけた。それは社会性のある他の霊長類にも共通するもので、人間の行動や思考に大いに影響している。私たちの人間としての意識は、外側の非常に薄い層なのである。

人間による技術獲得の各層は、同様の包摂構造になっている。情報通信という現在の「新しい経済」は、消失することのない非常に強力な工業経済の上に存在する薄い層である。これから何十年もの間、工業化された農業は最大の食料生産者であるだろうが、今生きている多くの農民(大部分は開発途上諸国に住んでいる)にとっては、まだ自給自足農業が基本である。それは、工業的生産がデジタル経済を下から支え続けるのと同じことである。

しかし、無形で多様で感覚的な技術による経済が、工業的世界の上に重なる別の薄い層として出現しているのと同じように、エクストロピックな原理に合致する別の食料生産方法の兆候を見ることができる。多くの食料専門家が言うところによれば、現在の食料生産システムの問題は、きわめて少数の主要作物(世界中で5種類)の単一栽培(多様ではない)に大きく依存していることである。そのせいで、薬品や殺虫剤、除草剤、土壌攪拌などの病的とも言える介入(機会の減少)および、エネルギーと栄養に関する安価な石油燃料への過度な依存(誤ったエネルギー効率)が要求されている。それに代わるシナリオで地球規模にまで拡大できるものは想像しにくい。しかし、政略的な政府補助金に依存しない、あるいは石油に、あるいは単一栽培に依存しない非集中的農業が機能するための手がかりはある。この進化したシステムでは、きわめて狭い地域の雑種の農場に、(賃金格差が平準化するまで)本当に世界規模で移動する農場労働者を配置するか、または賢くて敏捷な労働ロボットを配置する。言い換えれば、高度な技術による大量生産農場ではなくて、高度な技術による個人または地域の農場である。たとえばアイオワ州のトウモロコシ地帯で見られるような工業生産的な農場と比べると、この方式による進歩的農業は、より多くの多様性、機会、複雑性、構造、専門性、感覚性に向かう傾向がありそうだ。したがって、現在優勢な工業的形態の農業に続いて、またはそれを超えて必然的である可能性が高い。

地平線上に見えている他の技術についても、同じ質問をすることができる。同じ分野で言えば、遺伝子組換食品は必然的であるか? 近い将来それは世界中で栽培されて食用に供される主要な農作物になっているか? おそらくそうなる、というのが私の答えだ。多くの人が遺伝子組換食品を支持しないという選択をする(あえてテレビを見ないとか、あるいは予防接種を受けないとかいうのと同じように)だろうが、エクストロピーの推進力は、食料生産をその方向に進めていくだろう。なぜならば、それによってテクニウムの多様性、複雑性、構造、感覚性などがさらに増加するからである。実際のところ遺伝子組換食品に反対する趨勢には、郷愁と誤解しかない。遺伝子組換食品は多くの操作が加えられているという誤った考えがある。言うまでもなく、通常の農作物は高度に技術的であり、何千年にもわたる品種改良を通じて丹念に「操作」されたものである。しかし、品種改良は劣った種類の技術である。なぜならば、それは偶然性に依存している(構造的でない)。すなわち、二つの親を選んで、どのような子孫が偶然に得られるかを試すものだからである。もし仮に、科学的な遺伝子組換食品のほうが先に存在しているという別の世界を想像してみれば、偶然による「自然な」品種改良という新発明は、とんでもなく非常識で危険なものとして拒絶されるだろう。これはダニー・ヒリスが言うところの「遺伝子の賭博」である。偶然によってできた食品をどうして信用できるのか?

近々出現する、あるいはすでに試作されている、物議を醸しそうな発明品のリストに対して、同じ経験則を適用してみよう。今後50年のうちに必然的になるものがこの中にあるとして、どれがそうなのかを判定できるだろうか?

・自殺幇助装置
・クローン人間
・記憶薬
・二酸化炭素の地中貯留
・脳波で制御する電話機
・公開位置追跡システム
・大陸横断磁気浮上鉄道
・男性避妊薬
・虹彩・顔認証システム
・無料の全遺伝子配列
・ロボット運転自動車

有益で詳細な判定はできないと思う。上に示した革新的技術は、具体的すぎて信憑性のある予測が難しい。しかし、このような技術を進展させる変化について、大きな動向を認識することはできると思う。細部は予測できなくても、テクニウムを流れていく進歩について、長期的かつ巨視的で予定された構成要素を描写することはできる。大きくて予測可能な枠組みは、私たちの方針や個人の決断を誘導する。その実例として、上述の一覧表について、私が考える展開の道筋を示してみよう。

自殺幇助装置 ―― そのための技術はすでに存在する。もし望むならば、驚くほど巧妙な何らかの装置を作ることも可能だろうが、その先進的殺人装置を配備することは選択であって、決して必然ではない。しかし、個人の選択肢の拡大、専用的道具の増加、また、鋭敏な痛覚の伝達と意識に応じて動作を調節するような、知能的で敏感な機械を増加させることは必然的である。したがって、技術は、自殺幇助装置がさらに魅力的になるような方向へ進み続けるだろう。

クローン人間 ―― 今でもクローン人間は存在する。それは双子である。要求に応じて意図的に双子を生むかどうか、また、その誕生を時間的にずらして逐次的な双子のようにするかどうかは、選択である。人間が選択するのに対して、テクニウムの傾向としては、人間のクローンを作るのを容易にするための技術、特に、人間以外の動物のクローンを確実に作る技術を促進するだろう。クローン人間を作る能力は必然的に増大するが、自殺と同様、その技術を配備しないという選択もありうる。

記憶薬 ―― 薬品は必然的であり、認識力を拡張する薬も必然的である。しかし、何を拡張できるか、あるいは何を拡張すべきか、何を拡張することを選択するか、それはどのような条件下においてなのか、という詳細は未解決だと思われる。記憶薬は効果がないか、または、副作用によって身体が衰弱するかもしれない。しかし、テクニウムのエクストロピックな駆動力は、意欲を最大化し、選択を最適化し、専門性と社会性を増加させ、人間自身の進化を加速する方向に進ませようとする。このような傾向は、人間の知性に作用する生化学的物質の種類を増加させる。賢くなる薬は多数できるだろうが、賢さの種類については、人間に強力な選択権がある。

二酸化炭素の地中貯留 ―― テクニウムは必然的に、全世界的な相互作用、世界的な認識、世界的な行動に向かって進んでいる。また、温室効果ガスという世界的問題は、世界的な解決を必要とする。何らかの種類の地球工学は必然的であるが、この特定の技法が必然的というわけではない。

脳波で制御する電話機 ―― キーボードの次に音声操作があり、その次には思考による操作がある。話をしたい相手を考えるだけで、当たり! 電話がつながる。あるいは、行きたい場所を考えれば、自動車が勝手にそこへ連れて行ってくれる。肉体からの離脱、より複雑な構造、高い感覚性、新しい知覚の次元をなど推進する日常的な傾向、そのすべてのおかげで思考操作は必然的になるが、思考操作を電話機で毎日使用するかどうかの選択は必然的ではない。この技術は、何らかの分野では成長するだろう。それをどこでどう使うかについては、人間に選択権がある。

公開位置追跡システム ―― 位置追跡システムは、あらゆる電子機器や製品に組み込まれるだろう。文字通りいつでもどこでも何でも、その位置を知ることができるようになる。それをどう実現するかは、私たち次第だ。この必然的で強大な力を管理するには、いろいろな方法がありうる。

大陸横断磁気浮上鉄道 ―― 長距離の磁気浮上鉄道は、決して必然的ではない。あるいは、特定の長距離輸送手段は、どんな種類であろうとも必然的ではない。その方式以外にも多くの手段があるだろう。手段が多くあるほうが利用しやすい。通信の容量や精度の向上に伴って、あるいは、向上にもかかわらず、一人当たりの移動距離が増加することは必然的な傾向である。選択肢や自由度が増大すると、より多くの移動が求められる。

男性避妊薬 ―― 選択肢の一つになることは必然的だが、その普及を避けることも可能である。

虹彩・顔認証システム ―― 不可逆的な動きとして、広範囲の社会化、感覚性の共有、大きな社会的構造、全般的な世界化へ向かっている。その動向が意味するのは、ある種の生体認証が必然的だということである。しかし、この技術の既定値や前提条件を設定するにあたって、また、この必然的なシステムに依存する社会全体の方向性を示すにあたっては、大きな自由度がある。

無料の全遺伝子配列 ―― その価格とデータはいずれも必然的であるが、誰が資金を負担するか、あるいはそれが義務になるか、公開されるか、実用可能であるかは必然的ではない。

ロボット運転自動車 ―― これは必然的であり、思っているより早く実現する。今とはすっかり逆転して、多くの幹線道路では人間による運転は禁止されるだろう。人間の運転はロボットによる運転よりも安全でないと証明されるからである。また、他の地域では、ロボットなし車線があることを自慢するようになる。知能機械と人間の組合せには何千もの異なった方式があり、すべて選択の対象となる。

私が並外れて幸運だというのでなければ、上記の推量のうち一つまたはそれ以上は、完全に間違っているだろう。これが予測だというつもりはない。テクニウムの三要素の性質を説明しようという意図である。「自己推進的で自律的で不可避な流れ」としての技術の力が、過去の発明の特質に影響されながらも、多くの選択肢をもたらす。それによって、進歩に必要な力を得る方法を選択可能にして、人間を前進させているということである。人間の目玉を認証に使うか、あるいは、ロボット自動車と同じ車線を走るかについて、私たちは選択する。しかし、一般的に自動車がロボットになる、あるいは生体認証が当たり前になる、あるいは全世界をつなぐインターネットができるということには、選択の余地がない。

「必然」というのは闘争的な言葉だ。歴史上、その存在を疑う人たちを怒らせている。また、他の人には言い訳のようにも見える。フランスの技術哲学者ジャック・エリュールは「技術の進歩の過程は、不可避の経路を通って押し寄せる。それは主に、人間という要因がその必要不可欠な役割を放棄したからである。」と言う。すなわち、人間が放置した場合に限って、技術は必然的になる。

必然性は証明することができない。とくに時間のテープを巻き戻せないとき、また、標本数が1であるときには。しかし、必然性が喪失だとか敗北だと考えるべきではない。必然性は予測を容易にする。よく予測できればできるほど、来たるべきものに対してよく準備することができる。持続的な力のおよその輪郭を認識できれば、その世界で生き延びるための適切な技能や能力を子供たちに教えることができる。来たるべき現実に合わせて、法律や公的制度の既定値を変更することができる。たとえば、あらゆる人のすべてのDNA配列が解明されたとしたら、遺伝子を読解する能力をみんなに教えることが必要不可欠になる。DNAの暗号から収集できること、できないことの限界について、各人は知らなければならない。人によってそれがどれだけ違うか、違わないか。その情報の完全性に影響するものは何か、その情報で公開してもよいものは何か、その状況で「人種」や「民族」というような概念はどういう意味を持つか、遺伝子に適した治療をするのにこの知識をどう使うか、など。そのためには、新しい世界を切り開かなければならない。それには時間がかかるだろうが、今、このような選択肢を分類することに着手してもよい。なぜならば、エクストロピックの原理に従うと、その到来はかなり必然的だからである。

テクニウムが進歩するとき、予想や予測のための良い道具は、「ニーバーの祈り」(平安の祈り)の役割を果たす。新しい技術革新によって自由な選択という世界が拡大し、そこで必然的なものを見分けるために道具が役に立つ。青年期のたとえ話に戻ると、人間は青年期の開始という必然を予想できるからこそ、そこでうまく成長することができる。十代の若者は、自己の独立を達成する手段として、危険を冒すことを生物学的に強要されている。進化は危険な十代を「欲している」。危険な行動が青年期に起きると予想されているのだから、その知識は社会と若者の両者を安心させる(君は正常だ、変人ではない)と同時に、「正常な」危険性を改善と進歩に役立てるための誘因となる。全世界的なウェブという絶え間ないつながりが、文明の発展に必然的な一つの段階であることを確認できるならば、私たちはこの必然性について安心すると同時に、可能な限り最良の全世界的ウェブを作るための誘因だと考えることができる。

技術が進歩するにつれて、より多くの可能性が得られる。さらに、私たちが利口で賢明であれば、選択肢がない状況に対処する方法を得ることもできる。技術における人間の選択は重要である。必然的な発展の形態という制約があるとしても、技術の発展段階における特定の状況は、人間に大きく影響する。選択することで具体化された技術は、人間社会の性格を決める。電磁放射による通信網は必然的である。しかし、無線を発明した時点の社会形態によっては、大きな違いを生む。単純な選択、たとえば無線周波数帯域を共有するか退蔵するかということは、あらかじめ決まっている外観に対して、さらにその輪郭線の形を決める。

テクニウムの三要素から得られる教訓は次の通り。(1) テクニウムの必然的で巨視的な発展を予測し、また、それを予想するための良い道具を作ること。(2) エクストロピック原理を促進する、すなわち機会、社会性、知の統合、感覚性などを増大させる技術を選択すること。(3) 私たちの今日の選択が明日の制約となることを考慮して、細部や既定値を決めること。

言うは易く行うは難し。





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posted by 七左衛門 at 22:48 | 翻訳