2012年04月23日

「膨大な無」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "A Whole Lot of Nothing" の日本語訳である。



膨大な無  A Whole Lot of Nothing

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私は海から2キロメートルほどの所に住んでいる。今日は自転車に乗って海岸まで行って、そこで波が次々と砕ける様子を見ていた。私の住むパシフィカの海岸の様子はこんな感じである。波が押し寄せ、風が波を吹き飛ばして泡立たせ、太陽が波頭を透かして輝く。岩の上にすわってその様子を眺めていると、見えるものすべてが無形だという確信に圧倒された。それは実在するが固形物ではない。固い岩の上にすわって、足の下にザラザラした砂があり、海水が波として打ち寄せて、頬に風の力を感じ、知識として海洋が生物にとってどれだけ重要かを知っている。このすべてが明白で間違いようのない目印であるが、その本質においては、あらゆるものが無形で重さのない、情報に近い何かでできているとそのとき明らかに感じられた(そして今でもそうだ)。

水は酸素と水素でできている。酸素原子は何でできているのか? 酸素でなくて、さらに小さい粒子、たとえば陽子や電子である。それは何でできているのか? 大部分は空間である。私が最近視聴した講義でブライアン・コックスは、原子はどれだけ空虚であるかという数字を示している。99.9999999999999% が空間だという。では、残り0.0000000000001%の空間でない部分は何でできているのか? 固体あるいは物質と呼べるようなものではない。ある種の波粒子であり、ある種の量子重ね合わせであり、ある種の無形の力である。もしかしたら単なる情報かもしれない。最も根底の部分に何があるのかわからない。しかし、それがエネルギーや情報に代替可能であることはわかっている。

したがって本当のところは、目の前の海岸で轟音をたてて砕ける波の水しぶき、海岸から巻き上げられる砂は、実体のない形式にすぎない。波が現実の形であるのと同様に、水や砂も現実の形ではある。しかし、それはある種の無の形式なのだ。

山の上で修行する僧侶たちが「現実の世界は永遠に無形だ」と昔から言っている。しかし、今はそれを厳密に言えるところに相違がある。そして科学的な方法によって、この見解が正しい場合にはその他に何がわかるはずだと推測できる。今までのところ、この根本的な無形物がどのようなものであるかを普通の言葉で説明することはできない。波粒子に意味はない。一つの量子論的粒子が同時に二つの場所に存在するという概念も同様である。私たちには数学という言語があるだけで、それを話す人は少ししかいない。その数学が語っているのは次のようなことだ。9300万マイル(訳注:1億5千万キロメートル)の彼方から届く太陽の光の下で大量の水が押し寄せて、目の前で砂に打ちあたっているが、実際にはその大部分は無である。そして、わずかに残る無でないものは、実はまた別の種類の無である。

太平洋の末端にある海岸で夕暮れ時に、普通はこのようなことを考えたりはしない。しかし、今日の午後、私はそれを感得したのだ。





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posted by 七左衛門 at 21:44 | 翻訳