訳 :堺屋七左衛門
この文章は Kevin Kelly による "The Post-Productive Economy" の日本語訳である。
生産性以後の経済 The Post-Productive Economy
この農家の写真をご覧いただきたい。これは、私が中国雲南省の奥地で見てきた建築中の家だ。このような家は珍しくない。この規模の農家は、中国の田舎ならどこにでもある。この壮大な建物の大きさに注目して欲しい。柱は、それぞれ一本の大木から切り出したものだ。どっしりした土壁は、3階の高さで、上に行くほど幅が狭くなっている。この家は、一つの大家族のもので、伝統的なチベット農家の様式で建てられている。米国のたいていの中流階級の家よりも大きい。家の内外に設けられた木の彫刻は、完成した家の写真に示すように極彩色に塗られる。雲南省のこの地域は、中国の中でも貧しい地域と考えられていて、居住者の生活水準は「貧困」に分類されるだろう。
その理由の一つとして、この家には、水道、電気、便所がない。外便所の小屋さえもない。
しかし、この家に住む農民とその子供たちは、みんな携帯電話を持っているし、中国版ツイッターやフェイスブックのアカウントも持っている。携帯電話は、太陽光パネルで充電する。
これは重要な事実だ。というのも、ある高名な経済学者が最近発表した刺激的な論文では、インターネットブームの間に米国経済は成長していないし、今後もこれまで以上には成長しないと主張している。その理由は、計算機やインターネットは、以前の二回にわたる産業革命ほど生産性が高くないからだという。



その論文は、ここで読むことができる。Is U.S. Economic Growth Over? (PDF) by Robert Gordon.(ロバート・ゴードン「米国の経済成長は終わったのか?」)
ゴードンはその問いに自ら答えて、「その通り。米国の経済成長は、当面は終わっている」と言う。私は、ゴードンの結論は間違っていると思う。しかし、まずは、その見解の根拠として提示されている事実の一断片から話を始めよう。第二次産業革命によって、庶民が電気と水道を使えるようになったが、それは、第三次産業革命による計算機とインターネットに比べて、はるかに重要性が高い、という議論をゴードンは展開している(ちなみに、ゴードンの言う第一次産業革命は、蒸気機関と鉄道である)。この主張の根拠として、選択肢Aと選択肢Bのどちらを取るか、という仮定の選択を提示している。
選択肢Aでは、2002年時点の電子技術を使うことができる。たとえば、Windows 98のノートパソコンでアマゾンにアクセスできる。水道や屋内の便所も使える。しかし、2002年以後に発明されたものは、何も使うことができない。選択肢Bでは、この10年間で発明されたもの全部、たとえば、フェイスブック、ツイッター、iPad(アイパッド)などを使うことができるが、水道と屋内便所を放棄しなければならない。水を汲んで住居まで運んできたり、汚水を捨てに行ったりしなければならない。雨の降る午前3時に用を足すためには、濡れながら、ぬかるみを歩いて外便所まで行くしかない。さて、どちらの選択肢を取るか?
さらに、ゴードンは、次のように述べている。
講演の中で何人かの聴衆に対して、この仮定の選択を提示したところ、みんなの反応は、大笑いするか、含み笑いするかであった。選択肢Aを選ぶことが明らかだからである。
しかし、前述の通り、私は、選択肢Aが当然だとは思わない。
中国奥地の農民は、便所と水道よりも、携帯電話とツイッターを選択した。彼らにとって、これは仮定の選択ではなく、現実の選択である。そして、きわめて多数の人々がこの決断をしている。アジアやアフリカ、そして南米で、何千万人、もしかしたら何億もの人々が、選択肢Bを選んでいる。アフリカでは、ほとんどすべての村で、そのような状況を見ることができる。それは、貧乏で便所を作る資金がないからではない。先ほどの雲南省の農家を見ればわかるように、どうしても必要だと思えば、少なくとも外便所の小屋くらい建てられることは間違いない(私は、多くの農家に泊まったことがあるので、家に便所がないことを知っている)。農民たちは、水道という物理的な快適さよりも、つながりという無形の便益のほうが重要だと考えているのだ。
世界中の貧しい人々の多くは、雲南省の農民と違って、携帯電話やツイッターにアクセスする手段を持たないが、それでも、貧しい生活環境の中でわずかな現金を使うにあたっては、第二次産業革命の便益よりも、第三次産業革命による便益を選択している。水道よりも、つながり。これは、ほとんど世界共通の選択である。
発展途上国での経験があまりない人には、この選択は困難に思えるかもしれない。しかし、世界の大部分を占める発展途上地域において、第三世代の自動化の成果が第二次産業革命の成果と少なくとも同等、あるいは、たぶんそれ以上の価値があるということは、明白に見て取れる。
みんなが計算機やインターネットの利便性に価値があると認めているのであれば、その価値が米国の経済成長につながらないのはなぜか? ゴードンによれば、インターネットの時代になって成長は失速している。1987年にロバート・ソローが最初にこの疑問を提示した。それに対するゴードンの回答は、六つの「逆風」があるということだ。六つのマイナスの力、すなわち逆方向の力があって、米国の技術による成長を妨げている(ゴードンは、米国だけを考察対象にすると繰り返し述べている)。成長を減速させる六つの「逆風」とは、米国人口の高齢化、教育水準の停滞、格差の拡大、アウトソーシングとグローバル化、環境問題、家計と政府の借金である。これらの逆風については、私もゴードンに賛成する。特に最初の項目が最も重要だという点は、その通りだと思う。
ゴードンが誤っているのは、技術の成長がこの逆風に遭遇する際に発揮する力について、誤解と過小評価していることである。
第一に、前述のとおりゴードンは、インターネットによる技術革新の価値を過小評価している。それは、水道や電灯と比べれば些細なことのようにも見えるが、実際には、世界中の何十億という人々が、前者と後者に同程度の価値があるということを証明している。
さて、ソローの話に戻ろう。デジタルの技術革新、多数のアプリ、大規模なソーシャル・ネットワークが複合的に作用して、私たちの生活水準が上昇しているのであれば、その証拠はGDPのどの部分に現れているのだろうか?
ゴードンの論文の中で、重要な一文はこれだと思う。
前の二つの革命では、いずれも、その効果が経済に十分浸透するまでに約百年を要した。
繰り返す。技術革新の恩恵が十分に発現するには百年かかる。
私の計算では、この三回目の革新が始まってから20年になる。ゴードンは、第三次産業革命が始まったのは、1960年の商用計算機の出現からだとしている。この開始点は恣意的である。私も恣意的に考えて、インターネットの商用利用を開始点としたい。なぜならば、接続していない単独の計算機は、革命的ではないと思うからである。接続していない計算機は、あまり変革をもたらしていない。単独のパソコンは、私たちの生活を少しも変えなかった。たしかにタイピングを高速化し、出版に変化を与え、表計算のモデルを決定的に変化させたが、経済および人々の幸福への影響は軽微であった。大型のメインフレーム計算機は、大企業の財務や物流の管理には役に立ったが、いくつかの研究によれば、それが経済成長につながっているわけではない。
しかし、計算機と電話が結婚したとき、あらゆるものが変わってしまった。普通の人は、ここで初めて計算機の存在に気がついた。みんながネットに接続できるようになった。あらゆるものがオンラインになった。販売が変化し、生産が変化し、職業が変化した。この通信革命は、いろいろな分野の変化を加速した。つながることによって、ものごとの処理過程や機器が賢くなった。この時点で、パソコンの利点が意味を持つようになった。なぜならば、パソコンとは、事実上、それ自体より大きいもの、すなわちネットワークの端末装置にすぎないからである。サン・マイクロシステムズ社が「The Network is The Computer(ネットワークがコンピューター)」と表現したのは有名な話だ。
したがって、第三次産業革命とは、本当は、計算機とインターネットではなくて、あらゆる物がネットワーク化することなのである。そして、その枠組みの中で、今、私たちがいる場所は、ごく初期の段階にすぎない。あらゆる物とあらゆる物をつないで、あらゆる所に小さなネットワークの知性を作り始めたところだ。この革命の効果が十分に発揮されるには、あと80年かかるかもしれない。
2095年に経済学の大学院生が、ロバート・ゴードンのこの論文を読んで2012年時点での判断の誤りについて理由を述べよと言われたら、次のようなことを書くだろう。「ゴードンは、この革命における本当の意味での発明、すなわち、ビッグデータ、ユビキタス・モバイル、クオンティファイド・セルフ(定量化自己)、安価な人工知能、個人用作業ロボットなどの影響を見落としていた。これらはすべて、単独の計算機と比べてはるかに重大なものだが、この論文が書かれた当時には、まだ萌芽期で見えにくいものであった。ゴードンは未来を見るかわりに、過去を見ていたのである。」
最後に、ゴードンは、多くの経済学者と同じように、GDPに注目する。GDPは、達成された「労働力節約」の量を示すものである。物品の製造またはサービスの提供にあたって、労働力を節約すればするほど、生産性が高いということになる。従来の経済学の計算では、生産性は富と等しい。インターネットは労働力の節約にあまり寄与していない、とゴードンが指摘しているのは正しい。雑誌「Wired(ワイアード)」に私が書いたロボットに関する記事「Better Than Human(人間より優れたもの)」(私がつけた題名ではない)で述べているように、本当の富は、将来には、労働力の節約から生み出されるのではなくて、新しい種類の行動を作り出すことで生まれると私は考えている。この意味において、長期的な富の行方は、新しい労働を作れるかどうかに左右される。
文明とは、労働力を節約するだけのものではない。「無駄な」労働によって、芸術作品を生み出したり、美しい物を作ったり、スポーツなどで時間を「浪費」したりするものでもある。富を増やすために、あるいは経済を好転させるために、ピカソに向かって「絵画一枚当たりの描画時間を節減するべきだ」などと言う人は誰もいない。ピカソが生み出した付加価値は、生産性のために最適化できるようなものではない。人間の生活において最も重要な活動を「生産性」という枠にはめ込むことには無理がある。一般的に、生産性――時間当たりの産出量――という尺度で計測できる仕事は、自動化するべき仕事である。要するに、生産性とは、ロボットのためのものだ。人間が得意なことは、時間の浪費、実験、遊び、創作、探検である。これらはいずれも、生産性という管理の下では、うまくいかない。だからこそ、科学や芸術に資金を提供するのは非常に難しい。科学や芸術は、長期的な成長の基礎である。とは言うものの、私たちが考える職業や労働や経済という概念には、時間の浪費、実験、遊び、創作、探検などが入り込む余地が少ない。
ロバート・ゴードンの研究に出てくる長期的成長は、考えてみれば実に不思議なものだ。ゴードンが言うように、技術の発展が始まる1750年以前の世界には、ほとんど成長はなかった。それから数世紀を経て、私たちは、それ以前の何千倍もの富を得た。この、ありがたい増加分は、どこから来たのだろう? どこか別の場所から移動したり、借りたりしたものではない。自己生成したものだ。富を「無から」作り出すしくみが存在する。それは生物によく似ている。一定の条件や因子が確かに必要だが、ひとたびその環境が整うと、経済は(そのシステムは)、富を自己生成するようになる。
数々の経済学者が、この自己生成する富の源泉を解明しようとしてきた。ポール・ローマーとブライアン・アーサーは、それぞれ独自の研究で、経済成長が起こる要因として、既存のアイデアの再結合と再検討を指摘している。この見解では、自己再生的な循環の中で利益が増加する原動力として、知識に注目する。エネルギーや物質などと違って、知識は使えば使うほど、より多くの知識を得ることができ、また、限りない好循環でより多くの成果を生む。
重要なのは、この自己増殖する循環が新しいものを生み出すということだ。新しい商品、新しいサービス、新しい夢、新しい野心、そして、新しいニーズさえも。新しいものは、計測、発見、あるいは活用することが容易でない場合が多い。第一次産業革命は、蒸気機関と鉄道をもたらすと同時に、所有、アイデンティティー、プライバシー、リテラシーなどの新しい概念をもたらした。最初のうちは、このような概念は「生産的」ではなかったが、時間の経過とともに、法律や文化に浸透し、既存の他の技術にも組み込まれていき、労働の生産性向上に役立つようになった。たとえば、所有および資本という概念が洗練されて、大規模プロジェクトに対して効率的に資金を提供する新しいしくみを生み出した。場合によっては、このような間接的な概念は、その時点での直接的な発明よりも、経済成長に対して長期的な影響を及ぼしているのかもしれない。
それと同様に、今、社会の大規模な転換が起こっている。第三次産業革命によって、高度にネットワーク化された社会へ移行しつつある。それに伴って多くの革新が生まれているが、その革新は、(1)把握することが困難である。(2)実際に労働力を活用するものではない。(3)したがって、生産性という観点で定量化することが困難である。
人間の感覚としては、しばらく待っていれば、新しいものが勝手に転がり落ちてきて、商売というしくみの中に適当な居場所を見つけて、最終的には労働の効率を高めてくれると思っている。
しかし、このネットワーク化された世界への転換は、二次の傾きを持っているように私には思われる。すなわち、長期的に見た実際の富、あるいは新しい種類の富は、生産性向上から得られるだけでなく、それに加えて、より多くの遊び、創造、探検から生まれるのかもしれない。全く新しい可能性や今までに見たことのないものについては、良い測定基準がない。なぜならば、当然ながら、その境界、他との相違、計測の単位が不明だからである。「オーセンティシティー(真正性)」「ハイパーリアリティー」「スティッキネス(訳注:ウェブサイトの訪問者がそのサイト内に長くとどまること)」をどうやって計測するのか?
生産性は、前の二つの産業革命による主要な成果であり、また測定基準でもある。生産性は、無用になるわけではない。長期的に見ると、より少ない人間の労働で、より多くの財貨やサービスを生産できるようになる。私たちのシステムでそれが実現するのは、このような労働の多くはロボットがするようになるからである。
第三の産業革命の主要な成果は、人間の頭脳、その他の知能、およびその他のものをネットワーク化したことだが、それは生産性という基盤の上に何かを付加するものである。それを消費性または生成力(邦訳)と呼ぶことにしよう。名前の如何にかかわらず、この未開拓の新分野は、多くの革新をもたらしたり、可能性を拡大したり、実験や探検という非効率を奨励したり、遊びの特質を十分に吸収したりしながら、システム全体の創造的な側面を拡張していく。これについては、良い測定基準がまだ存在しない。批判的な人々は、それはニューエイジのナイーブさであるとか、あるいは、単なる空想だけの理想主義であるとか、強欲企業や悪徳上司や過酷労働などの現実社会の実態に対する無知だと言うだろう。しかし、そうではない。
成長には二つの意味がある。一つは、規模、すなわち、より多く、より大きく、より速くということ。もう一つは、進化である。直線的な発展を遂げてきた蒸気機関、鉄道、電気、そして今の計算機やインターネットは、前者に該当する。今までと同じものがより良くなるだけである。したがって、生産性の成長グラフは、直線状に伸び続ける。
第三次産業革命による成長は、発展的な成長ではなく、進化的な成長だと思う。生産性、実質賃金、債務免除などを見て停滞していると思うのは、成長の新しい方向性を把握しない、あるいは、考慮しないことが原因である。それは、今までと同じではなく、全く違うものだ。
たとえば、生命体が進化するのを観察してみよう。時間の経過とともに、その生命体のエネルギー消費は、きわめて効率的になるかもしれない。あるいは、身体の大きさに合わせて巧妙に代謝率を最適化しながら、非常に大きくなっていくかもしれない。もしも私たちが、それを観察する生物経済学者であるとすれば、いずれの場合についても、その生命体は生産性において成長したと断言するだろう。
しかし、この生命体が、代謝作用は一定のままで、他の方法で成長または進化することも考えられる。多細胞になって複雑化することもありうる。新しい感覚器ができて、相互作用の範囲を拡大するかもしれない。生殖戦略を変更して、今までは子を一匹だけ作ってじっくり世話していたものが、多数の子を作ってあまり世話をしないようになるかもしれない。あるいは、尾が進化して、移動の様相が全く変わるかもしれない。いずれの場合も、代謝率は一定のままである。
私たちの経済は、後者の成長形態、すなわち進化的な上昇に移行しつつある。その状況で、特にこの初期の段階では、生産性向上があるかもしれないし、ないかもしれない。この進化的成長に関するヒントがすでにある。米国の経済の現状を以下に示す。
複雑度の増大:デリバティブ(金融派生商品)、デリバティブのデリバティブ、フラッシュクラウド(訳注:突発的な人気集中)、ダークプール(訳注:当事者同士が直接交渉する非公開の取引)など、資金に関する新しい手段や状況が多数出現している。
相互依存性の増大:国家の経済、特に米国の経済は、もはや単独の細胞ではなく、複数の細胞内器官によるシステムの一部である。
ファイナンスとマネタイズの普遍化:私たちの生活は、ゲーム、人との交際、料理や育児に至るまで、より大きな経済の一部になっている。
所有の重要性の減少:経済の中でも、情報、データ、知識に関わる分野においては、これらの基幹的要素は、所有することなく使用できるし、実際のところは、「所有」しない場合の方が有益であることが多い。
他にもまだあるが、この一部の例だけを見ても、経済が単に加速するだけではなく(加速しているがそれ以外にも)、変化している様子がわかる。
今後さらに80年かかるとしても、技術のおかげで、生活必需品の生産性は向上し続けるだろう。しかし、今突入しつつある次の段階――第三次産業革命では、ネットワークの世界、すなわち生活必需品以外のものが、経済の条件の中で大きな役割を果たすようになる。科学小説(SF)作家のニール・スティーヴンスンは、「私の世代の最高の頭脳が……スパムフィルターを書いている」と言って嘆いているが、あきらめてはいけない。その前の世代では、最高の頭脳がオイルフィルターを設計していたのだから、大きな違いはない。いずれも、見栄えはしなくても、全く新しいインフラストラクチャーを作るために不可欠な仕事である。
ロバート・ゴードンの論文では、「一回限りの」出来事、たとえば、大多数の女性の労働進出という一回限りの(最初で最後の)現象から得られる莫大な価値について述べている。このような新たな増加は、(その状況が持続すると仮定すれば)一回だけしか起こらない。私たちは、計算機とインターネットによる経済において、一回限りの大規模な出来事による、一回限りの拡大を経験しつつある。地球全体が電線でつながって、グローバルネットワークを形成するのは、これが最初で最後である。私たちは、歴史上の重大な時点に生きている。そして、この転換がもたらす多大な発展の初期の初期にいるのだ。
新しい経済バンザイ!
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