著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門
この文章は Kevin Kelly による "The Improbable is the New Normal" の日本語訳である。
希有なことが普通になる The Improbable is the New Normal
警察官や救急医、保険数理士たちは、みんな知っている。常軌を逸した希有な出来事が、年がら年中いくつも起こっていることを知っている。泥棒が煙突の中で身動きできなくなる。追突事故でフロントガラスから投げ出されたトラック運転手が、足から着地して、歩いて逃げる。野生のアンテロープが自転車に乗っている人を突き落とす。結婚式のろうそくの火が花嫁の髪を燃やす。海に面した裏庭で釣りをしていた人が大きなサメを釣り上げる。昔は、このような珍しい出来事が公開されることはなく、単なる噂として、あるいは友達の友達から聞いた話として語られるのみで、あまり信じてもらえなかった。
しかし、今では、それがユーチューブ(YouTube)に投稿されていて、私たちの視界に入ってくる。あなたもそれを見ることができる。先に述べた突拍子もない不思議な出来事は、いずれもユーチューブで数百万人が見ている。
希有な出来事とは、単なる偶然以上の事象である。インターネットには、希有な行動が満ちあふれている。ビルの壁面を駆け上がる人、郊外の家の屋根を滑り降りる人、あなたがまばたきするよりも速くコップを積み上げる人。さらには、人だけでなく、ペットもドアを開けたり、キックボードに乗ったり、絵を描いたりしている。それ以外にも、希有な出来事としては、超人レベルの離れ業がある。驚くべき記憶力を持つ人、世界各国のアクセントを真似る人。このような傑出した妙技を見ると、人間の能力はすごいと感じる。
インターネットには、ありえないことが時々刻々とアップロードされている。その希有な出来事は、今では、私たちが見聞きする多数の非凡な出来事の一つにすぎない。インターネットは、非凡さを鋭いビームに絞り込むレンズのようなものだ。そして、そのビームは、私たち人間に向けられている。希少性はインターネットによって縮小されて、目で見える程度の小さな日常性になる。ネットに接続している間、すなわちほとんど一日中、私たちは、この縮小された非凡さのビームに照らされている。非凡が普通になる。
この非凡さの光が人間を変化させた。私たちは、もはや単なるプレゼンテーションでは満足しない。TEDカンファレンス(訳注:技術、エンターテインメント、デザインなどに関する講演会)のように、最良で最高で最も非凡なプレゼンテーションを見たい。単なるスポーツの試合を見るのではなく、見所の中の見所、最も素晴らしい動作、キャッチ、ラン、ショット、キックを見たい。他よりも優れていて希有なところを見たい。
人間のいろいろな最高記録にも接することができる。たとえば、最も体重の重い人、最も身長の低い人、最もひげの長い人など、全宇宙の最高記録が見られる! 昔は、最高記録というものは、当然ながら希有なものであった。しかし、今では、一日中、各種の最高記録の画像が見られて、それが普通になっている。今まで人間は、人間の極限を示す絵画や写真を大切に扱ってきた(初期のナショナルジオグラフィックを見よ)。しかし、現在では、歯医者の待ち時間に、携帯電話でそのような極限の動画を見ることに慣れてしまった。極限が身近になり、頭の中には極限があふれている。
この動向に終わりはないと思う。あらゆる場所にカメラが存在するようになって、人間全体の生活記録が増大してくると、人が雷に打たれる様子の動画が何千件も集まるだろう。私たちが小さなカメラを常時身につけるようになれば、最も希有な出来事、最高記録の達成、人間の行動の極致が即座に記録されて、世界中で共有される。60億の市民の最も非凡な瞬間が、たちまちネット上のデータの流れを占有するだろう。したがって今後は、私たちは平凡に取り囲まれるのではなく、非凡の中を漂流することになる。
誰かが雷に打たれたという話を聞くのも印象的だが、その動画を見ると、また感じ方が違う。動画で「事実」を見るのは、それについて読んだり、聞いたり、静止画を見たりするよりも、もっと本当らしく思えるような気がする。さらに言えば、その動画は一つだけではなく多数存在する。そこが問題なのだが、最も希有な出来事や成果を見始めると、それに続けて、同様の希有な事象を次々と何時間も見ることができる。年月の経過とともに、この過激主義的な記録が蓄積されていく。希有な記録が増加して、ありえないことだけがライブラリに収録されているように思える時点に達すると、この希有な事象は希有だとは感じられなくなる。
このような非凡さの大海原を見て、普通の人々が発奮し、刺激され、鼓舞されて、非凡なことに挑戦するようになっている。それと同時に、最高に壮大な失敗も前面に出てきている。私たちのまわりには、世界一バカな人たちがいて、考えられる限り最も間抜けなことをしている。ここでも極限が見られる。ある意味では、リプリーの「ビリーブ・イット・オア・ノット」(訳注:世界中の奇人や珍事件を描いた漫画)的な世界を作り出している。あるいは、私たちは、小粒で貧弱で無名な「ギネス世界記録(ギネスブック)」の世界にいるのかもしれない。誰でも15分間は、何かの世界記録保持者になれる。おそらく、誰の人生にも少なくとも一瞬は、突拍子もない場面があるだろう。
知識不足の人にとっては、希有な出来事が多数を占めるようになると、ありえないなことが起こったと信じやすい。偶然の一致が何度も続くと、それは単なる偶然ではないと考えてしまう。そうでしょ? しかし、知識のある人にとっては、大量の希有な出来事は、珍しい組合せ、統計上の外れ値、ブラックスワン現象が起こっているのだと理解できる。硬貨を100回投げて、表が連続して100回出る確率は、他の出方の確率と全く同じなのだ。しかし、希有な出来事が多数を占める場合も、また、インターネットという川の流れの中で、表が100回連続して出たに過ぎない場合にも、いずれも、希有な出来事が身近に感じられる。
希有な事象に対するこの親近感が、人間にどのような影響を及ぼすのか、私にはよくわからない。一日中、極端な行動や希有な出来事の絶え間ない流れに接しながら、最高記録という背景騒音の中で、普通の生活をしようとすればどうなるだろうか? 非凡が平凡になったとき、何が起こるだろうか?
良い話としては、そのおかげで人間の可能性という意味が拡張されるような感覚が生じて、さらには実際に人間の可能性が広がることがあるだろう。悪い話としては、最高の上のさらなる最高を求める限りない欲求が、平凡なものに対する不満につながるかもしれない。
私は知らないのだが、誰か、このような効果に関する研究をご存じであれば、教えていただきたい。
クレイ・シャーキーの意見によれば、最も創造的でない行動はLOLキャット(訳注:猫の画像に珍妙な台詞をつけたもの)の創作だが、それでも何も創作しないよりはましであり、LOLキャットのインターネットという世界は、創作のない消費だけの世界と比べれば、差し引きは善であると言う。同様の論理を展開すると、最も素晴らしくない人間の行動は、ひどい出来事をユーチューブに掲載することだが、その唯一無比の瞬間は、何も独自性がないよりはましであり、ユーチューブという極端で希有で最上の世界は、差し引きすれば善である。
この作品は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。