2013年04月30日

「新しいものによる苦痛」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "Pain of the New" の日本語訳である。



新しいものによる苦痛  Pain of the New

新しいメディア技術が出現したとき、アレルギー反応を起こすことがよくある。それが必要不可欠なものだとわかるまでは、私たちは、新しいものを苦痛だと思うらしい。

私は「ホビット」の映画を2回見た。1回目は「標準」モードで見た。その翌日、今度は「ホビット」を毎秒48コマのHFR(ハイフレームレート)3Dで見た。HFRとは、より高度な現実感を約束する、映画におけるハイテクである。HFRは、驚くほど本物らしく見えた。そして、最初は戸惑いを感じた。

毎秒48コマというのは、人間の目と頭脳が変化を認識できる限界を超えているので、映写された画像は、まるで現実の連続した動作のように、きわめて完全で「スムーズ」に見える。

それにしても、HFRの映画は、従来のものとかなり違って見えることに、私は驚いた(3Dによる影響ではない)。標準方式もHFRも、同じカメラと照明で撮影しているのに、別のセット、別の照明で撮影したように見えた。HFRの照明のほうが、きつく、明るく、目立つように思える。最初の10分間は、このHFRの感情効果が気になった。そして、困惑を感じた。二つの映画の相違点は、一方は、毎秒48コマで撮影したものをそのまま映写していて、もう一方は、計算機上で通常の毎秒24コマに減らしたものというだけである。コマ数の違いが、なぜ照明や感情に影響を与えるのだろうか?

そう思ったのは、私一人ではない。「ホビット」のHFR版――この新方式で上映された最初の商業映画――は、評論家の間で議論を巻き起こした。業界人で、これを気に入ったと言う人はほとんどいなかった。たいていの人にとっては、苦痛だった。評論家たちは、HFRがどのように見えるか、なぜそうなのか、を表現するのに苦心している。

「色鮮やかで質感のある映画を期待していた観客は、当惑して落ち着かない気分になるだろう。その映像は、従来の映画よりも、次世代版のハイビジョンに近い感じがする。」ケネス・トゥーラン(ロサンゼルス・タイムズ

「ホビットは、決して映画の美しさに関する慶事ではない。たぶん、テレビゲームの世界の慶事なのだろう。」スティーヴン・レイ(フィラデルフィア・インクワイアラー


この映画のせいで、あらゆる種類の病気が起きるとされている。たとえば、難聴。

「正直に申し上げると、2Dで見るのと比べて、3D HFR版では、台詞を聞き取るのが困難だった。……それは、本当に本当に本当に、きわめて粗悪な国営テレビ番組を見ているような感じだ。……HFRは、ひどいテレビ番組やスポーツのためのものだろう。」ヴィンセント・ラフォーレ(ギズモード


私もHFRを見て、初めてテレビの映像を見たときのことを思い出した。多くの人が同じことを言っている。しかし、当初、テレビ映像が好まれなかった理由は、何だろうか?

「HFRは、リアリティ番組には最適である。私たちは、それが現実だとわかっているから、受け入れることができる。人間は、HFRを演技ではないものと関連づけようとする。そして、人間の脳は、ローフレームレートをそれ以外のものと関連づける。人工的な物を見ているとき、その見え方が現実に近づいてくると、人間は、本質的な心理として、それを拒否する。」ジェイムズ・カーウィン(ムービーライン

「映画というロマンチックな幻想ではなく、セットやメイクアップが、あるがままに見える。その効果は、俳優たちと一緒にジオラマに踏み込んだようで、それほど感じの良いものではない。……技術革新に異を唱えるつもりはないが、このデビューは、素晴らしい未来を約束するものではない。」コリン・コヴァート(ミネアポリス・スター・トリビューン


何が起こっているのだろうか? フレームレートが違うだけで、映画に対する評価がこれほど劇的に変わるとは、私自身の目と知覚に何が起こっているのか? それを解明しようとして、非常に苦労した。

ウェブで調査してみたが、毎秒48コマのHFRを実際に見た人があまりいないので、満足のいく結果にはならなかった。先進的な映画業界にいる何人かの友人に尋ねたが、やはり十分な回答は得られなかった。その後、あるパーティーで、ピクサー(Pixar)社に勤務する友人と一緒になったので、「HFRでは照明の見え方が変わるのはなぜか?」と質問した。彼も答えられなかったが、その隣にいた人が答えてくれた。ジョン・ノールという人で、フォトショップの共同開発者であり、また、ハリウッドの視覚効果監督として、技術革新を取り入れた大ヒット作をいくつも生み出したオスカー受賞者でもある。この人はその理由を知っていた。その答えを私なりにまとめると、以下のようになる。

ピーター・ジャクソン監督に招待されて、ホビットの撮影現場に立ち会うという幸運に恵まれたと仮定しよう。 ホビット族のかわいらしい家の中で、ビルボ・バギンズを撮影しているとき、あなたは、そのすぐ脇に立っているのだ。現場にいると、きわめて強力な照明がビルボの姿に当てられていることに気づくだろう。これは明らかに作り物だ。そして、強烈な照明を受けて、ビルボのメイクアップが見える。映画製作者が俳優にメイクアップを施して、強い照明を当てる理由を教科書的に説明すると、映画フィルムは、人間の目と比べて感度が低いからである。すなわち、フィルムの欠点として、弱い光に対する感度が低く、メイクアップでコントラストを際立たせる必要があるので、このような補助手段で補っているのだ。フィルムを「補正」して人間の見え方に近づけるために、このごまかしが加えられている。しかし、48HFRやハイビジョンテレビでは、人間の目をより良く模倣していて、まるで撮影現場にいるのと同じように見えるので、従来必要とされた補助的技巧の存在が、突如として気になる。映像を「標準」モードで見れば、照明によって適正な補償ができているが、それをHFRで見ると、撮影現場にいるのと同様に、照明という作り事が見えてしまう。

ノールは私に尋ねた。「照明が変だと思ったのは、屋内の場面だけで、屋外ではないですよね?」このように質問されてみると、たしかにその通りだと気がついた。HFR版で違和感のあった場面は、すべて屋内だった。風景の場面については、良い意味で驚いたのだった。「それは、屋外では照明の必要がないからです。自然光だけなので、何も不都合だとは思わないのです。」

これで、いくつかの不評について、辻褄が合う。

「壮大な光景の場面では、素晴らしく感じられたし、大部分はきわめて鮮明なテレビ画像のように思われたが、その逆に、ビルボ・バギンズの家の中のような狭い屋内の場面では、妙にわざとらしい印象を与えている。」トッド・マッカーシー(ハリウッド・リポーター

「『中つ国』に連れて行かれた気分になるのではなく、ニュージーランドにあるジャクソン監督の撮影現場に立ち寄ったような……」スコット・ファウンダス(ビレッジ・ボイス


デジタル撮影の分解能、滑らかさ、感度は、向上し続けているので、それに伴ってこの「撮影現場にいる」という臨場感も強くなる。ジョン・ノールの賢明な予想によれば、映画業界は、古い照明方式をやめると同時に、小道具や特殊効果などの現実感を増大させなければならないことにすぐ気づくだろう。「私はHFRが気に入っている。これからは、HFRの映画がたくさん見られるようになる」とジョンは言う。

しかし、映画業界の人々は、そのような希望を持っていない。彼らは、感度が低くてぼやけた表現方法の映画を好む。ある評論家の提案では、新しいデジタル撮影の鮮明さを低下させて、昔の映画の「絵画的」特徴を取り戻すため、映画監督はソフトフォーカスを使うべきだ、と言っている。

「しかし、全体的を通じて、ぴかぴかのハイパーリアリティー(超現実感)のせいで、『中つ国』が持つぼんやりとした古めかしい雰囲気が失われて、けばけばしくて鮮明度の高い観光名所になってしまった。」A.O.スコット(ニューヨーク・タイムズ

「48コマの場合、映画は、さらに実物に近くなって鮮明なので、劇場で生の演技を見ているように感じる場合もある。その詳細な見え方のせいで、映画にわざとらしさも出てくる。時には、セットや小道具が偽物の舞台を象徴するもののように見える。透明感のある画像のために、従来の映画にあった絵画的な特質が色あせてしまう。暖かみのあるアナログレコードと精密なデジタル音楽の対比のように、夢を見ているような従来の映画とくっきりと鮮明なHFRとの対比は、好みの問題だろう。」AP通信


新しいデジタル形式の無味乾燥さに関するこのような苦情は、音楽CDに対する議論を思い出させる、と私はノールに言った。オーディオマニアに言わせれば、デジタルは「明瞭すぎる」、「客観的すぎる」ものであって、「適度な暖かみと曖昧さ」がなかった。CDには、音楽を取り巻く雰囲気や、曲の持つ芸術的な心が捕らえられていない。批評家たちは、CDを買おうとしなかったので、レコード会社は、過去のしがらみを断ち切るために、批評家が愛するアナログレコードを彼らの手から取り上げざるを得なかった。もちろん、普通の音楽ファンにとっては、鮮明で雑音がないCDの音質は、レコードよりもずっと優れていることがすぐに理解された。デジタルサンプリングの速度が、たいていの人の耳の感覚を超えているからである。「これは今の話とまったく同じだ」とノールは強く主張する。今のHFRは、映画にとって、CDのような存在だ。

最初に過敏な反応があって、その後、受容されるというパターンは、他のメディアの出現時にも見られた。写真という写実的なものが最初に登場したとき、芸術家たちは、写真が「絵画的」になるようにするため、ソフトフォーカスを好んだ。劇的な鮮明さは、過激であり、芸術には「不自然」であり、異様だと思われた。もちろん、時間が経つにつれて、細部に至るまでの鮮明さは、写真の重要な特徴となった。

カラーテレビ、カラー映画(テクニカラー)、カラー写真(コダクローム)は、いずれも、白黒にこそ純粋さと歴史的価値があると考える人々から非難された。今のHFRに対する批判と同じように、カラーは、けばけばしすぎて、気を散らすものであり、観光客向けだと言われた。

新しいメディアが写実性を向上させていく各段階において、その段階が身体的に苦痛だと感じる人たちが存在するように思われる。それは、目、耳、鼻、触覚、あるいは、心の平穏を傷つける。不必要なほどに生々しくて、作品の背景にある芸術性を損なう。この混乱は、頭の中の想像だけで起こるものではない。人間は、そのメディアに対処できるように身体を慣らしていく。身体が変化すれば、「感じ方」が違ってくる。そこに至るまでに、不快な瞬間があるのだろう。

しかし、その混乱を乗り越えると、結局のところ、人間は、写実性を求める傾向がある。そして、そこに安住するようになる。

アナログレコードの引っかくような音、コダック・ブローニー写真機のソフトフォーカス、毎秒24コマの映画のちらつきは、すべて、過去への郷愁という作品の、制作年代を示す目印となるだろう。





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posted by 七左衛門 at 20:16 | 翻訳