2013年10月22日

「ありえないものを認める」

著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門


この文章は Kevin Kelly による "Believing the Impossible" の日本語訳である。



ありえないものを認める Believing the Impossible

ジョン・ブロックマンは、毎年、自分のウェブサイト「エッジ」で「今年の質問」を主催している。年末になると、知り合いの科学者や思想家たちに質問を投げかける。今年の質問は、私が提案したものだ(訳注:原文発表は2008年1月)。それは「あなたが考え方を変えたことは何か?」という質問である。私はいろいろなものについて考え方を変えた経験があるので、この質問をしてみた。みんなが考え方を変えるに至った経緯と理由について、私は大いに興味がある。この質問に対する165件の回答は、読みごたえがあると思う。一つだけを選ぶのは難しいが、私は最近の事例について書くことにした。「エッジ」への私の回答を再掲する。


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人間の特質や知識の本質について、私が確信していたことの大部分は、ウィキペディアの出現によって覆されてしまった。暇を持て余した若者 ――ネット上に大勢存在する―― が悪ふざけをしたがることを考えれば、誰でも編集できる百科事典を作るなんて不可能だと思っていた。そんな方法では信頼できる解説文など期待できないし、信用のおける寄稿者であっても、誇張や思い違いは避けられない。私自身の20年に及ぶネット経験から、思いつきの投稿に書いてあることは信頼できず、思いつきの記事を寄せ集めても混乱するだけだとわかっていた。専門家が作ったウェブページであっても、編集の手が加えられていないものには、私は感心したことがなかった。したがって、素人が書いたままで編集していない百科事典なんて、無知蒙昧のがらくたに決まっていると思っていた。

情報の構造について私の知るところでは、データから自然に知識が発生することはない。多大なエネルギーと知能を注ぎ込んで、知識へと転換させる努力が必要なのだ。指導者なしの集団で文章を書く試みは、過去に私も関わったことがあるが、いずれもくだらないゴミしか得られなかった。オンラインでも、同じ結果だろうと思った。

だから、2000年にウィキペディアが供用開始した(当時はヌーペディア(Nupedia)という名称だった)のを初めて見たとき、これは失敗しても当然だと感じた。編集と修正のための上意下達体制が存在して、その他大勢の執筆志願者のやる気を失わせていた。やがてヌーペディア原稿管理用のウィキができて、誰でも原稿を投稿したり編集したりできるようになり、ウィキペディアと名称変更したが、それでも結果はあまり期待できないと思った。

私はすっかり間違っていた。ウィキペディアの成功は、私の予想を上回るものだった。人間の性質による欠点にもかかわらず、ウィキペディアはどんどん良くなっている。最低限の規則と少数精鋭による介在で、人間の長所も短所もすべて共有財産に生まれ変わる。適切なツールを使えば、荒らされた文章を元に戻すこと(ウィキペディアの差し戻し機能)は、妨害文を作成する(荒らし行為)よりも容易である。したがって、そこそこまともな記事が生き残る。適切なツールを使えば、集団による共同作業のほうが、同じ人数の意欲的な人たちが個別に競争するよりも良い仕事をする。

集団になると能力が拡大するのは、昔からわかっていたことで、それが都市や文明というものだ。しかし、私が驚いたのは、必要なツールと管理監督がごくわずかで良いということである。ウィキペディアの官僚的組織は、小さくてあまり目につかない。管理者による統制でなく、ウィキのソフトウェアによる統制の成功が、すばらしい大ニュースなのだ。さらに、ウィキペディアがもたらす最大の驚きは、この能力がまだまだ拡大しそうだということである。ウィキ化した知性の限界は、まだ見えない。その知性で教科書や音楽や映画を作れるのか? 法律や政治的統治はどうだろうか?

「ありえない!」と言う前に、考えてみよう。何も知らない素人が法律を作るのは無理だということは、私も十分承知している。しかし、同様の問題について私は、一度意見を変えたことがあるのだから、ここは結論を急がずにじっくりと考えたい。ウィキペディアはありえないはずなのに、現に存在している。理論上は不可能だが実際には可能、という一例である。それがうまくいくという事実に直面すると、理論上は不可能なものでも、実際にはうまくいくかもしれない、と予想を転換せざるを得ない。

これについて意見が変わったのは、私だけではない。ウィキペディアが実用に供されることで、ある種の共同体的社会主義が、想像上のものから望ましいものになった。オープンソースソフトウェアやオープンソースなんとかという他のツールとともに、この共同体主義的な傾向は、ネット世界に深く浸透している。

言い換えれば、それは次の若い世代に浸透している。この変化した世界観が完全に開花するには、あと数十年かかるかもしれない。ウィキペディア的なものがうまく行くことを渋々認めるのでなく、きちんと理解した彼らが大人になるとき、また、オープンソースソフトウェアの良さが自明になるとき、写真その他のデータの共有にはデータ保全以外にも利点があると確信できるとき、このような前提条件を基盤として、共有財産という考え方がさらに強く受け入れられるようになるだろう。あまり言いたくないが、新種の共産主義あるいは社会主義が世界に広まっている。両方とも使い古された言葉で、この新しい状態をうまく言い表していないのだが。

ウィキペディアは、かなり頑固な個人主義者である私の意見を変えた。そして、この新しい社会現象を私に納得させた。今では私は、集団による新しい力、そして個人から集団へ移行する新種の義務、この二つに興味を持っている。市民の権利を拡大すると同時に、市民の義務を拡大するべきだと私は考えている。ウィキペディアの真の影響は、まだ見えない地下に隠れている。その意識変革力は、世界中のミレニアム世代に対して無意識のうちに働きかけて、集団意識が有益であるという実例を作り、ありえないものの存在を認めることが評価されるようになると思う。

これがウィキペディアが私に及ぼした影響である。





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posted by 七左衛門 at 22:43 | 翻訳